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死刻蝶  作者: 森村芥
7/14

07

気がつけば日は高く上り、琳子の姿はなくなっていた。

体を起こして、寒さに身震いする。出かけに琳子がかけてくれたのであろう毛布を手繰り寄せ、辺りを見渡す。

(あぁ…そうか)

そこでやっと思い出したように息をついた。

女と夜を共にするのは初めてでもなければ、経験が少ないわけでもない。だというのに夢でも見ているかのような余韻が残っている。これも琳子という娘の持つ雰囲気のせいだろうかと考えるが、すぐに止めた。深く気にするようなことではない。

頭を切り替えて服に袖を通す。まだ寒さが身にしみるが、それはこの街では致し方ないことであった。不意に傍にある机に目を向けると、琳子が用意していったのであろう食事が用意されている。どうしていいものかと少しばかり頭を悩ませるが、すぐ傍に書置きがあるのに気がついて手を伸ばした。紙には小さな線の細い柔らかな字が躍っている。

『遠慮せずに食べて下さい。荷物は玄関に置いておきますが、無理して出かけない様に』

目を通して思わず目を丸くする。最後の一文…無理して出かけない様に、それはまだここにいてもいいと言う事なのだろうか。全てが全て予想外なわけではないが、やはり驚いている自分がいる。

けれどそれ以上深く考えていても仕方がない。とりあえず言葉に甘えて食事をいただく事にした。


さっさと食事を終えて、俺は玄関へと足を運ぶ。別に出て行くつもりではなく、荷物を取りにきただけである。琳子の置手紙通り、玄関には荷物が置かれていた。それを手に部屋まで戻り、俺は中から書きかけの絵を取り出す。

「……」

取り出したはいいものの、どうしようかと首を傾げてしまった。描きかけの絵、これは汐弥の宿の窓から見た景色なのである。記憶で埋めることも出来なくはないが、それは俺が今まで書いてきた絵とは大きく趣旨がずれてしまう。それをよしとするかどうか…。

悩んだのはほんのわずかな時間。戻ることが出来ないのだから、そうするしかないと思い直した。この街の景色だけならば記憶の中に腐るほどあるのだ。

筆を手に一瞬だけ固まる。汐弥は今どうしているのだろうか…、俺がいなくなる事などいつもの事だと興味も亡くしているだろうか。そこまで考えて置手紙をしてくるべきだったと後悔する。全て今更の事なのだが…

「…汐弥」

知らず呟いたその名前が酷く遠いものに感じた。





日も暮れに暮れた深夜。その姿は帰ってきた。

「千寿はん?」

驚いたような声に振り返ると、予想通り琳子の姿が目に入る。軽く手を返すと、すぐ傍まで歩み寄ってきて腰を下ろす。

「起きてるなんて思わへんかったわ……それ、絵?」

「あぁ…これでも一応しがない絵描きだったんだよ」

返事を返して筆を置く。琳子はまじまじと絵を見つめている。そんな珍しいものでもないと思うのだが、琳子の目は興味津々とばかりに輝いていた。

「おどろいたぁ…こんな才能がありはってんなぁ」

笑う琳子につられるようにして思わず笑ってしまう。暫く絵と俺に交互に視線を向けた後、琳子はまっすぐ俺に向き直る。

「千寿はん、人は描きはらへんの?」

櫻花もそんな事を聞いていたなと思い出す。

「…いや、書かないわけじゃないが……どうしてだ?」

疑問の色を返すと琳子が少しだけ照れたように笑みを浮かべた。

「いやぁ…もし描いてもええっていわはったら、うちも書いてほしいなぁ…なんて思ったんよ」

おずおずとそう口にした琳子に一瞬言葉を失う。もっと腕のいい絵描きに頼めばいいだろうに…そうは思うが言葉として出てこない。あまりに素直に目を向けられるものだから、思わず頷いてしまっていた。

「別に…簡単にでいいなら、いいぞ」

そんな気のない返事に目を輝かせた琳子。

「ありがとう、ちょうど明日はお休みもろたし…今日はもう遅いから寝よ」

そう言って手を引かれる。確かにこのまま話を続けていれば日が昇ってしまいそうな気配がした。だから言われるがまま身を任せる。

「嫌やあらへんかったら…一緒に寝ぇへん?温かそうやし」

不意の琳子の言葉に思わず目が点になるかと思った。同時に不思議な事を聞くとも思う。琳子は綺麗な顔をしているし、体型も理想的だと思われる。だというのにその自信の無さはなんなのか…

「その誘いを断る男がいるのか、俺としては疑問なんだが…」

素直に思ったまま言葉にしてみると、今度は琳子が目を丸くしてしまった。首をかしげていると、暫くしてからその手が引かれる。逆らわずにすぐ傍で腰を下ろすと、琳子がぎゅっと手を握り締めた。

「変わったお人やね…うちはさっきまで、誰とも知れん男に抱かれとったのに……嫌やと思わへんの?」

その言葉に「あぁそうか」などと思ってしまう。琳子の自信のなさはそこから来るのだとも理解できた。

「大して……昨日の夜と何一つ変わらんと思うんだが?」

言って昨日と同じように琳子の手に口付ける。照れたように笑ったその顔は、やはり年相応な娘のものだった。薄く笑みを返すと、琳子が抱きついてくる。

「嫌やわぁ…なんでこんな、温かいんやろう」

「抱き合ってるからだろう」

なんて返事を返せば、胸の中から琳子の可愛らしい笑い声が聞こえてきた。その後に小さく「そやね」という返事。そのまま二人して倒れこんで横になる。

「こんな温かい思たんは久しぶり…」

呟いて琳子は目を閉じた。それに返事は返さず俺も目を閉じる。昨日とは違う人の温かさを感じながら…





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