04
気がつくと日が傾いていた。
朝はいつも通り起きたはず…今日は櫻花が訪ねてこなかったせいか、いつの間にか眠っていたらしい。寝ぼけたままの頭を起こすように体を持ち上げて、頭を掻く。
「…もう四日か…」
ここに来てもう四日も過ぎたのだと今更ながらに思い出した。医者に宣告をされた日から数えれば、もう一週間は経っているだろう。
あの日、医者に死を宣告された時、別段将来に希望もなく、家族や恋人もいない俺にとって、そう嘆くことでもなかった。やりたいことも無く、ただ毎日同じように日が昇って落ちて…その繰り返しだった。その生活に意味すら無かった。
「……」
きっとここに戻ってこなければ俺が死んだ事を知る人間すらいなかっただろう。自分はその程度の価値しかない人間だと分かっていた。そんな事を今更ながら考えると自嘲を帯びた笑みが浮かぶ。
不意に視界の端に映った描きかけの雪景色。今更こんな絵を描いて何になると思う自分がいる、最後だからこそ書き続けたいと思う自分もいる。死をもう受け入れた自分がいる、死を受け入れられず理解できない自分がいる。
「怖いのか」
自問に答えはでない。恐怖を感じているにしては心は落ち着いていた。きっと心を支配しているのは恐怖ではない…けれどそれが何なのか俺には分からない。
「千寿…いるかい?」
不意に部屋の外から控えめな声がかけられる。声からして恐らくは汐弥だろう。思うが早いか、答えるよりも早く体が動く、扉を開けると返事を待っていたであろう汐弥が俺に向かって顔を上げた。
「どうした?」
「起きたんだね、昼間寝ていたから…早めにお腹が減ったんじゃないかと思ってね」
薄く笑みを浮かべた汐弥に、俺は目を丸くして頭を掻く。言葉から察するに、昼間に一度部屋を訪ねられたらしい。全く気がつかなかった自分に呆れつつも、声をかけない汐弥も人が悪いと思う。
「そうだな、言われてみれば腹も減った」
「じゃあ用意するよ、少し待ってな」
言葉を終え、踵を返そうとした汐弥の手をとる。驚いたように振り替える汐弥と眼が合うが、自分自身どうしてそんな事をしたのかよく分からない。
「千寿…?」
「あぁ…いや、なんでも無い」
慌てて手を離すが、汐弥は黙って俺に視線を向けたまま固まっていた。こうも見つめられては、少しばかり居心地が悪い。だからと言ってかける言葉も見当たらず、暫く互いに沈黙が続く。
「すぐ戻るよ」
優しく微笑み、沈黙を破ったのは汐弥だった。一瞬その笑みに目を奪われて惚けてしまい、言葉を失った。
思いもしなかった。否、今まで気がつかなかったと言うほうが正しい…汐弥が綺麗な女だと言う事に…
言葉通り、汐弥はすぐに食事を持って部屋に戻ってきた。その間も俺は汐弥をじっと見つめてしまう。一度自覚してしまった事を無かった事にするのは酷く難しいのだと今更に知らされた気分だった。
「…どうかしたのかい?」
「いや、なんでもない」
間髪いれずに返事は返すが、その視線は宙を泳いでしまった。そんな様子を不思議に思いながらも、汐弥はやさしい笑みを浮かべると、俺に食事と茶を差し出す。
「頂きます」
「どうぞ」
何だか、昔もこういった会話を何度かしたことがある気がする。勿論気がするだけではなく、事実あるのだが…
昔、母が死んだ年…母以外身寄りがなかった俺は、汐弥の家に引き取られた。息子として引き取られたわけではない、どちらかといえば居候に近かった。汐弥の両親は優しくて面倒見がよく、いつも俺に対して「出世払いでいい」なんて言葉を漏らしていた。けれど…そんな事もできぬまま、汐弥の両親は病で死んだ。
「美味いな」
汐弥の両親が死んだのは汐弥がまだ…十七の時だ。それから暫く、俺は汐弥と二人生活していた。けれどそれはたった二年だけ…俺は自分が二十歳を超えると、すぐにこの町を飛び出した。
あぁ…その時汐弥は、どんな顔をしていただろう。
「…なんだい?」
不意に顔をあげてしまい、汐弥と目が合った。その表情には俺とは対照的に笑顔が浮かんでいる。
「…汐弥、お前は」
言いかけて、言葉が詰まった。何をどう聞こうというのだろうか…
俺の傍にはずっと汐弥がいてくれた。両親が死んでも…寂しいと思ったことなどなかったはずだ。でも俺はどうだ?汐弥が寂しいと思うとき、傍にはいなかったんじゃないか?
まだ十九だった汐弥を一人この町に残して…俺はこの町から逃げた。まるで辛い事しかなかったかのように…
「千寿?」
「…ぁ」
かけられた言葉と同時に、汐弥は俺の顔を覗き込む。
「どうかしたのかい…?顔色が悪い…」
いつどんな時でも、きっと汐弥は相手の心配しかしない。だからこそ、誰か一人だけでも…その背中を支えてやらなきゃいけなかったんじゃないのか…
「あぁ…大丈夫だ」
すまない、なんて言葉は喉の奥に引っかかって出ては来なかった。今更…自分に何かをする時間がなくなってから気がついてしまった。今まで一番近くにいて、一番大切にしなければならないものを、蔑ろにしていた自分に…もう何も出来ないというのに…
「最近…無理してるように見える」
「…俺がか?」
呟くように汐弥がもらした言葉に顔を上げると、少しだけ悲しげな笑みを浮かべた顔が視界に入る。
「昔はあんなにのんびりしていたのに…今は早く早くって…急いでるように見えるんだよ」
その言葉に間違いはなかった。俺にはもう時間がなくて…あんなに長いと思っていた人生の先がないんだ。
「そんなに急がなくたっていいじゃないか、折角帰ってきたんだ…またのんびりしなよ」
そう言って照れた様に笑った汐弥は、まるで少女のようだった。
少しだけ後悔してしまう。俺にはもうのんびりすごす時間もなくて、きっとその時がきたら汐弥を悲しませるだけだというのに…どうして今ここにいるのかと…
「あぁ…そうだな」
けれど、思いとは裏腹に、口から出てきた言葉はそんなものだった。




