03
「雪景色…書かれ始めたんですね」
そう俺の部屋で口にしたのは櫻花だった。きらきらとした笑顔で絵を見つめながら独り言のように問いかけてくる。
「…あぁ、なんとなくな」
「完成楽しみにしてます」
そう一層笑顔を増して顔を向けた櫻花に、どうも調子が狂ってしまう。どうも櫻花には人をほだす能力があるらしい。言葉だけの世辞など本気にしなかった俺がこうして本気にしてしまうのだから…
「そういえば櫻花……絵を描いているといったがそういう勉強はしているのか?」
何の気なしに問いかけたその言葉に、櫻花はかすかに表情を曇らせる。問いかけるべきではなかったかと一瞬ためらわれたが、すぐに顔が上げられたことに俺は案著した。
「勉強は…していません。というよりは父が許してくださらないのです」
その言葉に櫻花が家出をしてきたという理由がわかった気がする。絵書きなどという不安定な職に娘をつかせたくない親心か…それともただの世間体の問題か…
「何度もお願いしたんです…けれど許してはくれませんでした。それどころか勝手に婚約者まで決めて……」
話すうちに熱が入ってしまったのか、櫻花は目に涙をためて何かに耐えるように言葉を続けた。これまで櫻花は自分の本当にやりたいことには手を出せずに生きてきた娘なのだろう。
「耐えれなかったんです…だから、家を出たんです」
「そうか…」
返事はそれしか返せなかった。当然といえば当然…彼女の痛みが分かるのかと言われれば、自由奔放に生きてきた俺にはさっぱりわからない。彼女のような不自由のない生活がうらやましくもあり、自分自身の自由さがありがたくもなる。
「けれど私は諦めていません…やりたいことも出来ない人生なんて死んでいるも同じです」
そういう櫻花に俺は相槌を打たなかった。やりたい事ができずに生きている人間も、死んでいく人間も多くいる。それを知らぬ櫻花はやはりただの箱入り娘だった。
「千寿さんは絵を描くのが好きなんですよね?」
話を切り替えるようにそう問いかけてきた櫻花にもう暗い影はない。
「…どう、だったかな」
「好きでは…ないんですか?」
はっきりしない俺の返事に、戸惑ったような表情を浮かべる櫻花。はじめは好きで始めたような気がする絵書きの仕事も、今ではそれほどはっきりと言えなくなっていた。
「例え趣味の範囲で好きだとしても、それが仕事になってまで好きでいられるかとは違うみたいだな」
それだけ答えて視線を窓の外に向けた俺に、櫻花はそれ以上問いかけようとはしなかった。それは俺の言わんとすることが分かったせいか、それともただ言葉が出なかっただけかは分からない。それでも、わけも分からず問いかけられるよりずっとよかった。
その夜、いつものように汐弥が俺の部屋に来て話相手になっていてくれた時、ふと顔を伏せた。
「千寿……絵を、描き始めたんだね」
問いかけはそんなものだった。だから俺は普通に頷いて返事を返す。
「…あんた、雪は書かないって言ってなかったかい?」
そういえば、と思い出す。汐弥には昔そんな事を言ったかもしれない。理由は何だったか…俺の記憶からは消えていたが…
「言ったかもしれんな、どうしてそんな事を聞く?」
汐弥の意図が分からず、俺はいつもと同じ様子でそう問いかけるが、汐弥は視線を絵に向け暫し黙り込む。けれどいつまでもそうしている訳にもいかず、汐弥はゆっくりと口を開いた。
「雪にはいい思い出がないから…って言ったじゃないか…、雪は大切な人を奪っていくものだからって…」
汐弥の言葉に、俺はその記憶を思い出す。俺の両親は幼い頃に死んだ…その日も当然のように雪が降っていた。この街で暮らしていたのだから当然といえば当然。ただ俺にはどうしても忘れられなかった…母が雪の下から死人となって発見されたその日の事が…。俺の母親は昔から体を患っていて、一人では出歩くのも困難だった為できる限り目を離さないようにしていた筈だった。けれどその日母は黙って出かけ、帰ってはこなかった。後に人伝に聞いた話では、母は父の墓参りに行っていたそうだ。
「子供だったというだけだろう…母が死んだのは病のせいだ」
淡々と口にした自分自身の声が酷く冷たいものだと気がついたのは、口に出してからだった。
「そりゃそうかもしれないけど……あれだけ雪を嫌っていたあんたがさ…」
「久々に見るとそう嫌なもんじゃないさ…儚くて…」
そう、櫻花の言葉を借りるならそれは無垢だった。白くはらはらと舞い、人の手の上でそっと溶ける。儚くて美しい…まるで人の命だ。
「変わってないと思っていたら…変わっちまったね千寿は……」
どこか寂しそうに口にした汐弥に、俺は目を丸くする。どこか変わってしまったように見えるのだろうか…自分自身ではどこも変わっていないと思っていたのだが…
「昔のあんたはふらふらしてて、そのまま何も言わずにどこかに行っちまいそうだったけど……」
その言葉に反論はない。確かに昔から汐弥にそう何度も言われた記憶すらある。
「今のあんたはそのまま消えちまいそうだ」
泣いているのかと思った。その声がいつもの汐弥からは想像もつかないほど小さく、頼りないものだったせいだろう。けれど視線を向けた先の汐弥は顔を伏せているだけだった。
「馬鹿なことを……消えるわけはないだろう」
そう言った言葉は思いのほか自信のない声になってしまう。医者から言われた期限は刻々と近づいてきている。しかもそれは長くても…という条件付。短ければいつ死ぬかも分からないのだ。
「…そうかい、あんたがそういうなら……信じるよ」
その言葉に小さく胸が痛んだ。汐弥に話してしまおうかと思うが、そんな事をしてどうなるとも思う自分がいる…もう助からないと分かりきっている人間の死を教えられ、苦しむのはきっと汐弥だ。
「汐弥……お前はいい女だな」
生まれてから唯一その全てを好んだ女、汐弥は俺にとってそんな人物だった。この感情を友情と言うには浅すぎて、愛情というには安っぽすぎる。
「…千寿はいやな男だね」
そう返ってきた汐弥の返事には悪意はなかった。自賛かもしれないが、汐弥も俺との関係を気に入ってくれていると思っている。
「いい女にいやな男……丁度いいじゃねぇか」
その言葉はすっかり日も落ちて暗くなった夜空に溶け込んでいった。隣に座る汐弥の頭が俺の肩に乗せられる。その微かな重みと温かさがただ心地よかった。




