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死刻蝶  作者: 森村芥
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たった二人きりの薄暗い部屋の中、まるで子供の遊びの様な誓いをした。

たいした言葉はなく、ただ二人で向き合って、口付けする。それだけだ。

生憎と指輪なんてものは持ち合わせていなかったから、それはまた後日ということになる。

なんとも適当な形の誓い。それでも俺と汐弥にとっては十分だった。

形なんてどうでもいい、相手とその気持ちさえあれば、他はどうだって良かった。

たった一度きりの触れるだけの口付けが、特別なものに感じる。

これが汐弥の望んだ繋がりになればいいと思う。この想いだけは死ぬまで変わらない。


―死んでも…変わらない―





朝が来て、汐弥が部屋を出た後、俺は再び書きかけの絵に向き直って筆を取る。

思い描くのは記憶に残る姿。まるで幻のようにぼやけた視界の様な記憶の中で、鮮明に残る姿。

その筆が止まることは無かった。

まるで残された時間が本当に僅かになってしまったかのように必死だった。


その筆が止まったのは、数日後の日が暮れ始めた頃…


あの夜、形さえも曖昧になってしまったのだから、せめて汐弥に指輪ぐらいやるべきだろうと思う。しかし困ったことにそんな大層な持ち合わせも無い。

「…あ」

うんうん一人で唸っていたが、不意に思い出したように俺は自分の荷物を漁る。

俺がよほどの馬鹿で無い限り無くしてはいないはずだ。少ない荷物全てをひっくり返すような勢いで漁ってやっとの思いでそれを見つけ出した。

手の平に乗ったのは、少しだけ古ぼけてしまった指輪。

それは唯一の母親の形見でもあり、両親の結婚指輪でもある。それを手にして、汐弥に贈るのならばこれしかないと思った。


そんな古ぼけた指輪は嫌だと怒るだろうか?形見なんて嫌がるだろうか?


「…そんなわけ無いな」

自分でその考えをすぐに否定する。

きっと汐弥はいつもの優しい笑みでそれを受け取るんだろう。

汐弥なら、それを本気で喜んでくれるんだろう。その確信がある。

思いながら知らず笑みが零れていた。そういう女を俺は好きになったのだと今更ながら思う。

その指輪を握り締めながら、俺は今し方完成した絵に視線を向ける。


描いたのは、雪景色と…愛しい女。

白と薄い鮮やかな青、舞散る雪の中で一人待ち続け佇む女、その姿は雪の中に溶け込むようだった。


この古ぼけた指輪と完成した絵が…俺の証になるんだろう。

「なぁ…汐弥」

書き終えた絵のすぐ傍に指輪を置いて、俺は座り込んだ。


窓の外からは降り注ぐ雪が見える。

それを生まれて初めて綺麗だと思った。


最後の最後まで…汐弥に色々なものを与えて貰った気がする。

その優しい笑みが、優しい声が、優しい言葉が、どれだけ俺を救ってくれたかわからない。


それを少しでも返せたなら、後悔は無いんだ。

証を残せていたなら…汐弥が笑ってくれるなら、他に何もいらない。



「汐弥…俺は……」


まるで睡魔に襲われているかのように、瞼が重くなる。

こんなにも穏やかでいられるのは、汐弥が傍にいたからだろうと思う。


本当は言いたい言葉があったんだ。けれどそれは叶わないんだと知る。

だからどうか、せめて泣かないで欲しい。


泣く必要なんて無いんだ、絶望する必要なんて無いんだ。

伝えたい言葉は…そう……








名を呼ばれた気がした。

振り返るけれど当然その姿はあるわけも無い。

「千寿…?」

どうしてか判った。それが虫の知らせというものなのだとすれば、なんて残酷なのだろうかと思う。

「――っ」

訳もわからず駆け出していた。不安が心を駆り立てた。知らず目からは涙がこぼれていた。

「汐弥さん?」

いつもと変らぬ様子で廊下を歩いていた少女が、少しだけ驚いたような声を上げた。けれどすれ違ったその姿には目もくれず、汐弥は駆け抜ける。

少しだけぶつかった肩が嫌に痛かった。でもそんな事は気にもならない。

辿りつくなり勢いに任せて部屋の扉を開けた。

窓が開いているせいかのか部屋の中は少しだけ肌寒く感じる。静かな物音一つしない部屋。

「千寿…」

窓の傍で目を閉じるその姿を見つける。

その瞬間、瞳から涙があふれ、零れ落ち、押し殺していた筈の声が喉の奥から漏れた。

何を思うよりも先に体が動いた。

駆け寄って、その体を抱きしめる。もう二度と抱き返してはくれないその腕を握り締めた。

「っ千寿…せん、じゅ…」

溢れ出した涙が止まらない。

胸が軋む、体が震える、どうにもできないそれが現実なのだと…その体を抱きしめて知った。

もう二度と目を開ける事はないのだ。

笑いかけてくれる事も、抱きしめてくれる事も、もう二度と…帰って来てはくれない。

どれだけ待っても貴方の帰ってこないこの世界に意味があるのかとまで思った。


そんな中、ぼやけた視界の端に写った一枚の絵に目が奪われた。

それは紛れも無い…あの日の記憶の姿。


待ち続けたあの日々、その想いは伝わった。

だからこうしてここに証が残っている。その想いも温もりも…無駄ではないのだ。

この証に意味が無いわけは無いのだ。


そう、あの日…千寿はここに戻り、言ったはずなのだ…ただいま、と……

だから汐弥が返す言葉は決まっていた。




「…おかえ、り」



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