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死刻蝶  作者: 森村芥
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雪の中で『ただいま』と口にした俺に、汐弥は一瞬の沈黙の後「おかえり」と返してくれた。

本当に些細な事なのだが、何故かそれで酷く安心した自分がいる。そのままの状態でずっと汐弥を抱きしめていたら、汐弥が困ったような、安心したような顔を向けてきた。

「二人揃って風邪でも引く気かい?」

「別に…お前とならそれもいいぞ」

ふざけて返事を返したら、今度は少しだけ怒ったような顔を向けて汐弥が溜め息を吐く。呆れたか?なんて思ったのもつかの間で、すぐに優しい笑みを向けてきた。

「アンタに風邪なんて引かれたらアタシが困る」

言葉と共にそっと頬に触れた汐弥の指は寒さのせいか、冷たくなっている。けれどそれは全く不快じゃない。

「やっぱりお前はいい女だな」

冷たく添えられた手に自分の手を重ねて、そんな言葉を口にする。別段意図はなく、自然に出たものだった。

「アンタはやっぱり嫌な男だよ」

自嘲気味に笑った汐弥は、途端泣きそうな目をして顔を伏せた。

「勝手に出ていって…勝手に帰って来て…」

自分でもそう思う、自覚している。

「アンタをずっと待ってたアタシが馬鹿みたいで…」

あの日からずっと七年間も汐弥は俺を待っていた。それは俺が頼んだ訳ではないが、本当は心の何処かで望んでいたのだろうと思う。

「おかえり…千寿」

そうでなければここに戻ってきたりはしない。そうでなければ汐弥を思い出したりしない。

そうでなければ…たったその一言で泣いたりなどするものか。

優しい笑みを浮べた汐弥は泣いていた。どうしてこんなにも時間が掛ってしまったのかと思う。

もっと早く自覚すれば良かったのだ。素直にその温もりを心地良いと感じれば良かったのだ。

そうすれば…こんな風にすれ違わなかった。

「俺は本当にどうしようもない馬鹿だから…お前を悲しませた」

あの日、汐弥がどんな顔をして俺を見送ったのか、どんな気持ちで七年間も過ごしていたのか…知らずに俺はのうのうと暮らしていた。

「その上、今の俺にはお前に何かしてやれる時間もないんだ」

思うよりずっと、その言葉は簡単に口に出せた。もっと躊躇われるかと自分自身思っていたのだが、どうもそうでもなかったらしい。

「時間がない…?」

ゆっくりと顔を上げた汐弥から笑みが消える。不安そうなその表情に胸が痛んだ。

「あぁ…汐弥、俺はな…もう長くはないらしい」

きっともう後数週間の命。それを分かっていながら、その明確な期間を口にする事だけは躊躇われた。

何故かは自分でも分からない。

「千寿…アンタ…」

察しの良い汐弥のことだ。その一言で全てを理解してくれたに違いない。面倒な説明をしなくて言い分、気が楽だった。

「だから戻ってきたんだ…」

どうしてと聞かれれば、最初はただこの場所だと決めていたからだと答えていただろう。でも本当は…

「お前に会いたくなって戻ってきたんだと思う。お前が好きだから」

一瞬、泣きだしそうな顔をした汐弥は黙って顔を伏せた。そのまま俺の胸に頭を押し当てる。

「千寿…死ぬんだろ?」

「あぁ」

問いかけに短い返事を返すと、汐弥が俺の服を握り締めた。

「頭では分かってるんだけどね…どうして今更って…だけど…」

俺の服を堅く握り締めていた手が放され、汐弥が顔を上げる。俺の好きな優しい笑みだった。

「嬉しいよ…アタシはずっと千寿が好きだったんから」

呟くようにそう口にした汐弥に、触れるだけの口付けをする。特別な感情を持って汐弥に触れたのはそれが初めてだった。

「死ぬと分かっている俺でもいいのか?」

そんな必ず来ると分かっている悲しみをお前は受け入れるのか?

「関係ないよ…だってこの世にアンタは一人だ」

俺が、俺だから汐弥はそれでいいという。

それは俺が琳子では駄目だと思ったのと同じなのだろうか?

「汐弥…俺はお前に何が出来る?」

俺が死んでまた一人になっても、汐弥には笑っていて欲しいと思う。だから、何か出来る事があるのならばしてやりたかった。

「なにも…しなくていいよ」

返された返事は予想外のものだった。

「アタシにとっては千寿が今こうして帰って来てくれた事が、何より嬉しい事だから」

けれどそれは、俺がいなくなったら終ってしまうのではないのか?と声には出せなかった。

「それでもどうしてもって言うなら、一つだけあるよ」

不服そうな顔をしている事に気が付いたのか、汐弥が「しかたがないな」という顔をしながら、言葉を続けた。

「その一つって言うのはなんだ?」

たった一つしか望みがないなんて、無欲にも程があると思ってしまったが、汐弥は元々そういう女だった。だからそれについては何も言わずに聞き返す。

「アタシを…抱いて欲しい」

少しだけ頬が紅潮していたが、その表情は柔らかいものだった。

真っ直ぐと目を向けた汐弥を抱きしめて、雪の中で二度目の口付けをした。



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