01
息を吐くと、眼前が白く濁った。
足を進めると地面に積もった雪がザックザクと小気味いい音を立てる。それが嫌に懐かしくて、つい遠回りをして来てしまった。
「……」
辿り着いたのは一軒の宿屋。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ扉を開けるのを戸惑った自分がいる。けれど仕方がない、ずっと昔から決めていたのだから仕方がない…そう、死ぬのはこの地でと決めていた。
その宣告をされたのは本当に唐突だった。
しがない絵描きとしてぶらぶらと生活していたつけなのだろうか、風邪を引いたと思って行った病院で聞かされたのは信じがたい言葉。そう、それは紛れもなく死の宣告だった。
早い話が、ずっと全うな生活習慣をつけなかった俺が、酒ばかりを浴びる様に飲んでいた為に、体を患った。ただそれだけの事。内臓がどうやらいかれてしまったらしく、もっても後一ヶ月だと言われる。人というのは可笑しなもので、本当に驚いたときには錯乱するか、呆けるかのどちらか……俺は間違いなく後者であった。
「…じゃまするぞ」
ガラガラといい音を立てて扉が開く。中から顔を出したのは見知った人物だった。
「…千寿?」
「あぁ…久しいな、汐弥」
もうかれこれ七年は会っていないというのに、一目で分かったらしい彼女は俺の名を呆けたように呟いた。彼女の名は榊汐弥…一年中雪が降るこの街で宿屋の女主人なんてものをやっている。
「…本当に千寿かい?あの、ぐうたらでどうしようもない千寿…」
酷い言い様だとは思うものの、本当のことなので何もいえない。いいや、むしろ汐弥のそんな言い草は懐かしさすら感じて心地がよかった。
「そうそう、そのどうしようもない濤崎千寿だ」
「…どうしたのさ、戻ってくるなんて思わなかったよ」
そう汐弥が口にするのも無理はない。俺はこの街にいるのが嫌で外の世界へと飛び出していったんだから…。
「少し野暮用でな、汐弥…泊めてくれるか?」
そうは問いかけたものの、我が家も同じ、汐弥が断りを入れるはずはなかった。
「…あんたこの雪ん中ふらふらと歩いてただろう?頭の上に雪が積もってるよ」
「あぁ…気がつかなかったな」
頭の上に積もってしまった雪を汐弥は丁寧に払ってくれる。世話焼きなところは昔から変わっていないらしく、こいつはいい嫁になるな…などと思ってしまった。
「さて、外は寒かったろ?早く上がって温かいもんでも飲みな」
そんなところまで行き届いている。訂正しよう、いい嫁だけではなくいい母親にもなる。
「…汐弥さん、傘…ありがとうございました」
廊下を曲がったところで見知らぬ少女と出会う。少女…というと少々語弊があるであろうが、そう言っても差しさわりがなさそうなほど、清楚可憐に見えた。
「あぁ…雪にはあたらなかった?年頃の女の子が体を冷やすといけないからね」
「はい、平気です……そちらの方は?」
そう年は離れていないだろうというのに、まるで親子のような会話をする二人。会話に混じることも出来ず余所見をしていた俺に、気がついたかのように少女が首を傾げた。
「あぁ…アタシの昔なじみで濤崎千寿。絵描きをしてるんだったっけ?」
「一応な…世に出ることのないしがない絵描きだ」
いらぬ誤解を受けるのは御免だと言わんばかりに、先に忠告しておく。絵描きだと言っただけで有名だと勘違いする輩も多く、そういうのにはうんざりしていた。
「はじめまして、わたくし鳴無櫻花と申します」
礼儀正しく手をそろえ頭を下げた少女、櫻花はどこからどう見てもお嬢様そのものだった。
「あぁ…しばらく世話になるんだ、よろしく頼む」
握手…などと言って手を出せば確実に首を傾げられるだろうと、俺も同じように小さく会釈する。礼儀正しく返されたことで警戒を解いたのか、櫻花が小さく微笑んだ。
「わたくしも絵を少しだけ…描いているんです。もしよろしければ、お暇なときにでもお話を聞かせて頂けると嬉しいです」
「別に構わないが…俺は有名な画家ではないぞ?」
やはりそう付け加える。変な憧れを抱かれた挙句、騙されたなどと言われてはどうしようもない。
「はい、全然構いません」
全く気にした様子もなく、むしろ話を聞かせてくれるという事のほうが大きかったのか、櫻花は一層にっこりと微笑む。まぁ…悪い気はしないので、それ以上突っ込むのはやめる。
「それじゃあ、櫻花…こいつを部屋に連れて行くから……」
「あ、はい…お止めして申し訳ありませんでした」
汐弥の言葉に慌てた様に頭を下げ、逃げるように櫻花は走り去ってしまった。
「ふむ、どこのお嬢だあれは…」
やはりそんな姿を見て、言葉にせずにはいられず俺は汐弥に首を傾げる。
「気がついたのかい……相変わらず女の事だけは見てるね」
からかう様にそう口にする汐弥に他意はなく、決して嫌味に聞こえないのがこの女の強みなのだろうと思う。
「あの子はね、財閥のお嬢様だよ……家出してきたんだってさ」
「家出ねぇ…」
「まぁ、あんまり聞いてやらないでおくれ…色々ある年頃なんだよ」
かくいう汐弥もそんな初々しい時期があったのかと、記憶を思い返してみるがどうも見当たらない。人それぞれだということなのだろうと、俺は考えるのを止めることにした。
「ここがあんたの部屋だよ…普通の客室と同じだからあまり汚くしないように」
「あぁ…分かった分かった」
生返事を返すが、それを咎めるつもりもないのか、汐弥は部屋の窓を薄く開く。外は当然のように雪が降り続いている。
「あぁ、そうだ……一杯やるかい?」
思い出したようにそう口にした汐弥。それは俺を歓迎しての事だと…分かっているのだが、頷く訳にはいかなかった。
「いいや、酒はやめたんだ」
汐弥と共に飲む酒はさぞ美味いだろうと思うものの、我慢せざるえないだろう。
「やめた…あんたが?」
「あぁ」
「…やっぱりどこか可笑しいんじゃないかい?千寿…病院にでもいくかい?」
病院には行ったばかりなどとは言えず、俺は苦笑いと共に首を振った。やはりどこか納得出来ないのか、心配そうな表情のまま汐弥がため息を零す。
「気にしてくれるな、大した事じゃあない」
出来る限り普段どおりの笑みを心がけてそう口にした。暫くしてやっと諦めたのか、汐弥がいつもの表情に戻る。
「わかったよ、あんたがそう言うなら信じよう……何か調子が悪くなったらいうんだよ?」
まるで母親だな…などと思い、思わず笑みが零れてしまった。
「ほら、笑ってないで…飲まないっていうなら…そうだね、お茶でも入れようか」
「あぁ…そうしてくれると有難い」
本当ならば一杯やりたいのを我慢して、俺は汐弥に茶を入れてもらう。まぁ、外の雪と汐弥をつまみにすれば…ただの茶もそう不味くはなかった。




