drunk
そのバーに居る客は、皆一様に酔っていた。但し、酒に酔っている訳では無い。
ある者は普通じゃ滅多に見る事が出来ない『名画』を見て。
またある者は、自分を賞賛し褒め称える『賛美』の声に。
そしてある者は、美しくなった自分の『顔』に――。
今から約百年前に禁酒法が成立して以来、今や「酒」はすっかり歴史上の遺物と化して、人々の記憶からも消えていった。本来、それを提供する場である「バー」もその流れで消えていく、筈だったのだが。最近生み出された『ある物』によって、「バー」は徐々に復活した。最も、提供する物は全く違った物になっていたが……。
ドアが開き、男が入って来た。
「あ、いらっしゃい」
カウンターにいる、無精髭を生やした三白眼のバーテンは、にこやかな顔で来店者を迎える。
「やぁ。一ヶ月振り、かな?」
入ってきた男は、年季の入った茶色のトレンチコートを入り口のハンガーに掛けて、店内を見回す。店内に居る客は三人で、その内二人は夫婦なのだろうか、テーブルで向かい合って、笑顔で何やら話し合いながら座っている。そしてもう一人の、脂ぎった中年の男はカウンターで手元にある何かを見つめて微笑んでいた。男はバーテンの向かいに座ると話しかけた。
「マスターは最近どうだい? 前来た時は元気そうだったけど」
「あぁ、えっと……」
不意に、カウンターを拭く手を止めて言葉を濁すバーテンの青年。その様子で、男もそれから何かを悟り「――そうか」と呟く。
「親父、言ってましたよ。『アイツが今度来たらツケ払わせろ』って」
バーテンは一転して、明るい調子で男に告げる。
「ハハッ、やっぱり忘れてなかったか」
「……そして『ありがとう』とも、言ってました」
「…………」
数分の間、二人を沈黙が包む。
「あ、そうそう! 俺、やっと「アレ」が出来る様になったんですよ!」
「へぇ、良かったじゃないか」
「ちょっと用意するんで、待って下さい」
バーテンが準備してる間、男は横の男の様子を伺う。相変わらず男は手元から目を外さない。その手元には一枚の紙が握られていた。が、それは全くの白紙だった。
「ねぇ、この人はどんな注文をしたの?」
男はバーテンに問い掛ける。
「あぁ、その人は『数百年前に無くなった幻の名画を見せて欲しい』と言われました。で、あそこのお二人は」
バーテンはテーブル席に居る二人を手で示す。
「男性の方は『全世界の人々に賞賛されたい』と、そして女性の方は『自分の顔を世界で一番美しくして欲しい』との注文を受けました」
言われて、二人の会話に耳を傾ける男。すると、女が「フフッ、そうでしょ? こんな私と一緒になれて、貴方も嬉しいわよね?」と言うのに対し、男は「そうですよ! 俺はダメな奴なんかじゃないんだ!」と、その実言葉は全く噛み合っていない事が分かった。
「さ、今日はどうしますか?」
準備が整ったバーテンは、そう男に問い掛けた。そのバーテンの前には、男には見分けがつかないが、およそ数百種類の小分けされた白い粉があった。
――「drunk」。そう名付けられた麻薬が生まれたのは数年前。それは、調合次第でどんな「幻覚」でも自由に見せる事が出来ると言う物で、身体には勿論脳にも全く悪影響が無く、それを使った後の後遺症も無いという、正に夢のような物だった。だが、それが政府に見つかってしまい、「drunk」の製作者が指名手配された。が、今現在逮捕されたという情報は出ず、今も「drunk」は着々と、調合法と共に街に広がっている――。
「出来ましたよ」
男の前に、注文に合わせて調合された「drunk」が置かれた。
「…………」
再び男は、店内を見渡す。白紙の紙を見つめて微笑む男に全く噛み合わない会話をする男女。傍から見たらこの上なく異常な光景に見えるだろう。しかし、その本人達は確かに今酔い痴れているのだ。失われた『名画』に絶え間ない『賛美』、そして綺麗になった自分の『顔』に。
男は思う。自分が守った物は、「正しい」物だったのかと。頭を振ってその何時尽きるとも知れない自問自答を振り払うと、男は今宵も、甘い幻想に酔い痴れる為に、手を伸ばした――。