08 高志郎の思い
一人で車に乗って、ドアを閉めた時、僕の胸の奥で何かが沈んだ。
見送りに出て来た航平くんに笑いかけて、エンジンをかけた。
ギアを入れる。左手の補助具がカチリと鳴る。まるで何かが切れる音にも聞こえた。帰り道は来た道より静かだ。峠のカーブを曲がるたびに、山の木立が影を伸ばしている。何年経っても、この町の山は変わらない。そう思ったとき、胸がずしんと重くなった。
「普通になりたかったんだよ」
あの子にそう答えた自分が、今さらながらに恥ずかしかった。嘘ではない。嘘ではないけれど、本当の理由じゃない。あれは咄嗟に出てきた言葉だった。かっこいいふりした逃げだった。
本当は、名を捨てたかった。三千院という名前が持つもの。家。歴史。呪いみたいな因縁。それらを、全部手放したくて、僕は「山本」を選んだんだ。沙也加と一緒に生きていくために、いや、生きていけると思いたくて。
それなのに、なぜか、あの家に航平くんを置いてきてしまった。
どうして、こんなことをしたんだろう。僕は、わかっていたはずだ。やってはいけないことだと。なのに、沙也加を説得してしまった。彼女の目の前で、静かに、しかし確かに、「あの家なら安心だ」と。
あれほど三千院から離れたかったのに。戻りたくないと、何度も思ったのに。
まだ、あの町が僕に影響を与えているのか?
そう問いかけた瞬間、胸が苦しくなった。まるで答えを知っているのに、言葉にするのが怖くて口をつぐんでいるみたいな感覚。
助手席には、航平くんのいた気配がまだ残っている気がする。重たいリュックを抱えて乗り込んで来た。沈黙の時間の中、ふいに「どうして山本にしたの?」と聞いてきたときの声。震えていたのに、ちゃんと届いた声だった。
山本という名前は、彼の父親のものだ。僕にとっては赤の他人。でも、あの名字を選んだのは、あの子に血の通った居場所を与えたかったからと言えば聞こえがいい。でも実際は、自分の中の三千院をどうにかしようとして、山本という外の名前にすがっただけだ。
なのに結局、僕はあの子を「山本航平」を三千院に送ってしまった。
僕の中の何かが、まだあの家から抜けきっていないんだろうか?父の視線、母の茶室の香り、あの石垣の冷たさ、すべてが僕を縛っていたのかもしれない。逃げたはずなのに、未練だったのか。愛着だったのか。恐怖か、尊敬か。いずれにせよ、未だ解けない何かが、僕を動かした。呼び戻した。
だけど、あの子に何かあったら、どうするんだ。そんな資格、僕にあるのか。
沙也加は、信じてくれた。僕が「安全だ」と言ったから。僕が「両親は、航平くんをちゃんと迎えてくれる」と言ったから。
だが、そう言った自分が、どこかで安心したかっただけなのかもしれない。航平くんをそこに預けて、「もう大丈夫だ」と思い込みたかっただけなのかもしれない。
母がいるから、少しは安心だけど。自分でそう考えて、胸の奥で小さくかすれる声がした。
「でも、それだけで十分か?」
まだ、あの町では終わっていない。僕が左手を失ったとき、あの戦いも終わったと思っていた。でも、きっと続いている。何も知らないあの子が、巻き込まれていくかもしれない。今度は、誰が彼を守ってくれる?
亡くなった山本さんに、顔向けできない。母さんにも、何と詫びればいい?
三千院の屋根が小さくなるほど、心の中の声は大きくなった。今の僕にできることは、何がある? 何もない。
高志郎、君はまた逃げようとしているんじゃないか?
僕はブレーキを踏んで、路肩に車を停めた。深呼吸して、額に手をあてた。何も終わっていない。三千院も、僕の過去も、まだ終わってなんかいない。
あの子に、ちゃんと伝えないといけなかった。
でも、なんとなく、航平くんなら大丈夫という気がする・・・なぜだ?
ハンドルを握り直して、僕は車を走らせた。町が遠ざかるに連れて気分が晴れて来た。
大丈夫だ。あの子は山本さんの子じゃないか・・・心配いらない。
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