13 ある夜、僕は思う
夕飯を食べ終わって部屋に戻ったら、机の上に置いたガイドブックが目に入った。花筏市の大きな書店で買ってきたやつだ。雫野原市のことは何も載ってなかったけど、他の町のことはびっしり書いてあって、写真も綺麗だ。袋から取り出すとき、ページの端がちょっと曲がってしまったのを、指でそっと直した。
椅子に座って、パラパラめくっていると、ああ、ここ行ってみたいなって場所がいくつかある。滝とか、古いお寺とか、石垣の残ってる小さい城跡とか。観光っていうより、誰もいないときに行ってみたい。静かに風の音とか鳥の声を聞いてみたい。そう思った。
僕がこの町に来てから、いろんなことがあった。まだ全部に慣れたわけじゃないけど、剣道も弓道もサッカーも、勉強も、それなりだ。
でも一番助かってるのは、この部屋と、本棚と、本だ。本当にそう思う。
僕の部屋は、東京のマンションにいたときよりずっと広い。床はフローリングで押し入れがあって、障子もある。それが少しだけ寺みたいでかっこいい。夜になると外から虫の声がして、ちょっとだけ心細くなるけど、壁際に置いた本棚にずらっと並んだ背表紙を見てると、なんだか味方が並んでるみたいで落ち着く。
ガイドブックを閉じて、僕は本棚の一番端に置いてある分厚い伝記を取り出した。尊敬してる徳川秀忠の伝記だ。子供の頃に母さんに買ってもらった絵本から、少しずつ大人向けのを集めてきた中の一冊。これは古本屋で買った本だ。
ページをめくると、古い紙の匂いがして、僕は鼻を近づけて深呼吸した。
秀忠は、家康の息子だ。武将っていうより、家を守る人って感じがして、そこが好きだ。人をまとめるのが上手かったって書いてある。
何度も読んだ章だけど、改めて奥さんのことを読むと、「絶世の美女」って書かれている。絶世の美女ってどんなだろう。わたくしはふっと光子さんの顔を思い浮かべた。着物を着てお茶を点ててくれて笑うときに少しだけ目尻が下がる。弓も上手い。あの感じ、なんだか昔の人の絵巻に出てきそうだ。秀忠の奥さんも、光子さんみたいだったのかもしれない。
お城に住んでた二人だけど、子供の頃はこういう家に住んでたんじゃないかって思う。三千院の家の廊下を歩いてると、どこかのお殿様が歩いてたんじゃないかって思う。テレビの時代劇みたいだから、余計にそう感じるのかもしれない。
それにしても、僕って結構いい環境にいるんだなって思う。東京にいた頃は、マンションの部屋の押し入れに段ボールに詰めた本を置いていたけど、今は広い部屋に大きな本棚があって、聖一郎さんが買ってくれた木目の綺麗な棚に全部並べられる。お城の中で本を読んでるような気分になるときがある。
母さんがいなくて寂しくないかって言われたら、正直に言えば寂しい。でも寂しいだけじゃない。こうして一人で机に向かって、秀忠の伝記を読んだり、わからないことをノートに書いたりしてると、自分で何とかできるって思える。夢に出てくる侍だって言ってた。「助けてやろう」って。
でも僕は心の中で「助けはいらない」って言ったんだ。だってどこかのおじさんに助けを求める?知らない人だよ。
でも時々だけど、ほんのちょっとだけ、その侍に背中を押して貰ってるのかもしれない。いや、あれは僕自身だから、僕が僕を助けてるのか。変な話だけど。
ガイドブックをもう一度開いて、滝の写真を眺めた。水が白く砕けていて、周りの木が深い緑をしている。行ってみたいな。もし行ったら、何か見つかるかもしれない。
雫野原市のことを調べようと決めてから、こういう「何か見つかるかもしれない」って気持ちが強くなった。きっと、秀忠だって子供の頃は何かを探してたんじゃないかと思う。家康の息子としてじゃなくて、自分が何をできるかを探してたんじゃないかな。
僕も、普通のままじゃ終わりたくない。母さんと離れて暮らしてる意味を、ちゃんと形にしたい。普通の『山本航平』が、何かを見つけて、少しだけ誰かに自慢できるようになりたい。
だから、この部屋で読む本は僕の宝物だ。誰にも笑われたくないし、誰にも邪魔されたくない。ページをめくれば、僕はどこにだって行ける。時代だって飛び越えられる。僕が調べる郷土史だって、どこかで秀忠と繋がってるかもしれない。そう考えると、眠るのが惜しくなる。
机の上に置いたノートに、今後、調べたいことを少しだけ書き足した。「秀忠 子供の頃」「江戸初期 武家屋敷の形」「雫野原 屋敷跡」。明日は学校で弓道だ。
伝記を閉じて、本棚に戻すとき、背表紙を撫でた。木の匂いと、紙の匂い。大丈夫だ。僕は一人じゃない。
あの侍の助けはありがたい。だけど自力でなんとかしたいし、して来たつもりだ。
あの、光子さんの綺麗で自然な弓を目指そう。もし夢に侍が出てきたら、ちゃんと胸を張って言おう。「助けはいらない。大丈夫、僕は一人でやれる」って
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