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らいよ  作者: 枕ヶ星
1/1

前編

 零した涙の数だけ強くなれると云うのなら、なぜ私は弱者のままなのだろうか。この凄惨な悲劇を書き換えるためのペンは、誰が授けてくれるのだろうか。正義は必ず勝つのであれば、負け続ける私は悪だとでも云いたいのだろうか。短く言い表すと、彼女はそのようなことを考えていた。大振りの卓上ミラーに映る自分の顔を凝視する朝の時間。朝美は、それが少し苦手だった。仕事に向かう前の身支度をする間は、不思議と自分を俯瞰してしまうからである。“俯瞰”という漢字は手本を見ずには書けないけれど、その単語が持つ意味の雰囲気はなんとなく知っている。SNSで偶に目にする“メタ認知”なるものと似ているのだろう。要は、自分を他人として観察するみたいな。そんな事をしたところで、何かが改善するとは到底思えない。でも、強く瞼を引っ張り、まつ毛の付け根にアイラインを引いていると、「何でこんなことをしているんだっけ?」と時々考えてしまう。職場の誰かに見せる訳でも無いし、どうせ夜には洗い流すようなものに、描きやすさだとか発色の良さだとかを求めて、安くない金額を払っている。リビングの一角を陣取っているコスメティック製品の中には、未だ開封すらしていない口紅がある。使いかけのまま置きっぱなしになっている乳液がある。旅行をする度に増えるパックは、泊まったホテルや旅館のアメニティなのだ。置いてあるだけ持って帰るから、量としてはそれなりにある。しかし、近頃のSNSで「化粧品の消費期限」なる話題を知った朝美は、日常的に肌に触れるもの全般に対して、薄っすらと懐疑心を持つようになったのである。

六畳と少しのワンルームの中心で声を発さずにいると、まるで時間が止まっているかのような錯覚をする。このアパートに引っ越して来た当初は、その無機質な静寂が好きだった。五人姉弟の長女として生まれ育ち、また歳の離れた弟・妹たちがいたからか、良い意味でも悪い意味でも、家と云うのは“賑やか“な場所というイメージがあったのだ。高校卒業を機にひとりで暮らすことを決意し、実家から遠い地であるこの街に来て、まず、彼女が感じたものは、”自由“であった。学校帰りに弟の保育園に迎えに行かなくていい。妹の好き嫌いに合わせることなく、食べたいものを食べていい。家族団欒とか云う家事を気にせずに、友人との予定を入れてもいい。何年も煩わしく感じていた悩みは、「家を出る」という選択一つであっけなく解決した。

だが、彼女は分かっていなかった。

独り暮らしをするということは、一人で暮らすということ。朝美は、それの本当の意味を理解していなかった。いつも叱責して家の事を押し付けてくる母親は、パートをしながらも家事の大半を担ってくれていた。ほとんど家におらず無関心な父親は、安定した収入で生活水準を護ってくれた。ませた思春期の妹は、良き話し相手になってくれた。生意気でうるさい弟からは、癒しと元気をもらっていた。彼女は、家に帰ると必ずいる家族の誰かを鬱陶しく思う反面、家族の誰かが必ずいる家に助けられていた部分があるのだ。そんな大事なことを、家を出て地元を離れてからやっと知ったのだ。

まるで心にぽっかりと穴が空いてしまったかのように、朝美はずっと待ち望んでいた自分だけのスペースを、虚しく持て余している。

「あ、そいえば無いんだった。」

午前九時半、彼女はこの日初めて声を出した。日焼け止めクリームを切らしていたことを思い出したからである。わざわざ発声する必要は特に無いが、この頃、定期的に声を出さないと不安に駆られるようになっているのだ。

靴を履き、立ち上がった際に、郵便受けに入っている電気料金の収納票が目に入った。

目を逸らしながら「明日にしよ」と呟き、重い脚を引きずるようにして、家を後にした。ゴールデンウイークに浮足立っている道路の騒がしさが、より彼女の視界を曇らせたのである。


朝美の仕事場は、自宅近くの停留所からバスに乗って十分、湖妻駅近くのビジネスホテルである。県庁所在地であるこの街は、地方ではあるものの沢山の人間が訪れる。当然、駅前には観光客や出張・営業を目的に来たビジネスマンをターゲットとするホテルが乱立している。その中の一つ、『ホテル・ニューコヅマ』は朝美が清掃員として働くビジネスホテルである。宿泊料が比較的リーズナブルな価格帯のため、老若男女の様々な客が訪れるのだ。

ホテルの従業員は、決して表口からは入らない。例に漏れず、このホテルにも裏口がある。従業員や業者専用の裏口から入ると、同僚の西本と出くわした。西本は中年の女性で、朝美よりも五年も歴が上である。

「増田さん、おはよう。」

「おはようございます。」

「私たち、今日ペアだって。よろしくね。」

「はい、よろしくです。」

薄い生地のTシャツに、グレーのスウェットズボンを履く西本を、いつも新鮮な目で見てしまう。なぜなら、西本の右肘には擦り切れたブランドもののバッグがぶら下がっているからだ。一つ数十万は下らない高級な鞄と、着易さのみを重視したような寄せ集めの服装の間には、異質なコントラストがある。孔雀と鼠を同時に視るような、工事現場に流れるクラシックを聴くような。全く調和をしていない両者は、お互いの持ち味を排除しようとしている。何故、そんなことをするのだろうと朝美は考えた。現代的な価値観における「武士は食わねど高楊枝」であるのかも知れない。

更衣室に入ると、冷たい空気が彼女たちを迎えた。空調設備は無い。高層の建物同士が初夏の日光を遮るせいで、この空間はいつも冷淡なムードなのだ。その上、仕事終わりの人間と仕事始めの人間はどこか殺気立っているので、ホテル・ニューコヅマの女性職員らの間には「更衣室で会話するべからず」という暗黙の了解が在るのだ。誰がそんなルールを作ったのか、また、そのルールが生まれた原因は何なのだろうか。これらの一部始終を知る者たちはすでに退職したため、形骸化してもおかしくはなかった。だが、パートのベテラン職員や主任クラスのホテルマンたちは、「出退勤前に精神統一をするため」であったり、「世俗の感情を殺してお客様に向かうため」であったりと、意識の高い理由を後付けすることで、暗黙の伝統を脈々と受け継いでいるのだ。勿論、朝美もこのルールを知っている。十八歳四月の初出勤日に、同期と禁忌を犯してしまったため、所属会社の上長からやんわりと叱責をされたからである。以来、更衣室で声を出すことはなくなったが、あの日の屈辱は現在も同等の濃さで息をしているのだ。

朝美が更衣室を素早く出ると、後を追うように西本が出てきた。辻褄の合ってない先ほどの格好が、水色の作業服に画一されたお陰で、幾分マシにみえた。

タイムカードを切り、道具をワンセット揃えたら、二人一組になって一つの部屋を清掃する。二〇一号室が終わったら、二〇二号室へ。二二〇号室が終わったら、三〇一号室へ。利用があった部屋を転々と清掃し、割り当てられた階数を全てこなす。

彼女たちは、この部屋に宿泊した客について何も知らされない。ホテルマンに聞いても、「個人情報ですので…。」とはぐらかされる。しかし例え客の姿を見ずとも、名前や年齢を聞かずとも、部屋に残る一晩の形跡は、客の人間性を雄弁に語るのだ。

それは、三〇七号室の清掃を始めて三分も経っていない頃のこと。

「ねぇねぇ、増田さん。ちょっと見てよ。」

洗面所の鏡を磨いていた朝美に、興奮した西本が声をかける。

「昨日ここに泊まってたの、絶対カップルよ。」

「何でそう思ったんですか?」

「ほら、コレコレ!」

西本がゴミ箱を斜めにして、底の方を指差した。黒いプラスチック製のゴミ箱の底に、コンドームの容器があった。そして、それより浅瀬の方には、真っ赤に染色されたティッシュが幾つかある。

彼女たちは、昨晩この部屋で行われた何かを察した。だが、その行為の名を口にするようなことは決してせずに、お互いの中で共通の単語を思い浮かべた。もはや、「言わない」ことが「言っている」ようなものである。

「この部屋、壁が薄いのによくやるわね、若い子なのかな。」

「さ、さぁ。」

「あっ! パック使ってる! ほらぁ、ゼッタイ若い子よ。私みたいなおばさんは置いてるの全部持って帰るもん!」

「そうですね。」

「てことはシーツも? ほらぁー。」

「…。」

正直に言って、西本の探偵の真似事癖が苦手だった。そもそも、この仕事自体、未だ慣れていない。朝美は、人間の「生物らしい」部分に向き合うことが嫌いなのだ。妹たちのオムツの取り替えですら、何度やっても嫌悪感が消える事はなかった。先ほどのことも、西本が気付きさえしなければ、自分の作業がいくらか楽になる。だって、シーツのアレがシたことで出たのであれば、当然、お互いの体に付着する。であれば、風呂でアレを洗い流そうということにもなるだろう。なら、自分が今立っているこのユニットバスの床には、体液交じりのアレが洗い流されたということになる。そのように連想すると、使用済みのタオルや床のタイルが途端に汚らわしく感じてしまうのだ。

「私がやっちゃうね! 大丈夫、慣れてるからっ。」

陽気な言い方をする西本に、朝美は「当然だろ」と内心言い返した。

もしかしたら、清掃を進めているうちに自力で感づいていたのかも知れない。でも、知らされていなければ、“今は”気付かないでいられたのだ。シーツのアレを、鼻血だと錯覚できたかも知れない。洗面所にほんのり残るピンク色の水垢を、カビと見間違えられたかも知れない。コンドームの殻に関しては、気付く事すらなかったのかも知れない。ゴミ箱に残っているであろう使用済みゴムの存在を、知ることなく清掃を終えられた可能性があったのにも関わらず、西本のお節介な推理は朝美の心身に、生々しく不快な疲労感を蓄積させたのであった。

最後の部屋を清掃している際に、西本が次の話題を持ちよった。

「増田さんは夢とかあるの?」

「夢ですか?」

ベッドのシーツ交換をしていた最中に、急に始まった会話である。

「うん。将来こうなってたいなーみたいなやつ。」

「んー、すぐには出てこれないですね。西本さんは何かあんですか?」

「うん。私ね、ここの正社員になりたいの。」

「ここのって、ホテルのですか?」

「そうそう。スタイリッシュでカッコいい姿を近くで見てたらさぁ、やってみたいなと思うようになったのね。」

「でも、大変そうじゃないです? 更衣室でみる人、みんな目が死んでますよ。」

「うん、すっごく辛いのは分かってる。でもそれ以上にやりがいのある仕事だって、桜庭さんから聞いたの。あ、桜庭さんって、ほらぁ、受付の最近入った若い人よ。」

「でもぉ、今さら入ったところでじゃないすか?」

朝美の言葉に西本は少し黙った。数秒後、静かに口を開く。

「私ね、親の反対を押し切って、半分駆け落ちみたいな形でこの街に来たのよ。でも、旦那もいなくなっちゃって。頑張って子供二人を育ててるけど、もうこのままだと生きていけないのね。だから、福利厚生とか収入がしっかりしてる仕事に就こうって最近思うようになったのよ。ごめんね、こんな暗い話しちゃって。」

なんておこがましい夢だろう。

誰からも頼まれていないのに子供を孕んで、誰からも頼まれていないのに子供を産んで、誰からも頼まれていないのに離婚して、誰からも頼まれていないのにシングルマザ―になった話をいくら聞いたところで、「だから?」という感想しか浮かばない。自業自得の要素を多く含む不幸話は、酷くイライラする。「こんなに大変でも挫けず頑張る、あたしは。」という嫌味ったらしい自惚れがどこからか聞こえてきそうだ。そんなに給与や福利厚生が欲しかったのであるなら、非正規の清掃員なんかにならずに、最初からもっと良い職業を受ければ良かったじゃないか。使用済みのシーツを折りながら、言い換えてみたところこのようなことを、朝美は考えていた。懐に忍ばせていた或るミニスプレーを自身へ向けて噴霧し、四二〇号室を後にする。

西本と同じ空間にいたくなかった朝美は、仕事が終わるなり駅の方へ早足で歩き始めた。


 湖妻駅の構内には、チェーンの喫茶店がある。朝美は月に数度、この喫茶店へ訪れてキャラメル・ラテを飲む。駅のテナントとは言えど、平日の夕方にもなると人が疎らになる。その少ない客の中に、朝美の知っている顔があった。

「桜庭さんですか?」

「えっ? あ、はい。そうですが…。」

「あっ、私、ニューコヅマの清掃員やっててぇ。」

「あー、そういうことなんですね。」

「年が近そうだなって思って。隣いいですか?」

「え、あーもちろん! いいですよ。」

グレーのパーカーにジーンズを履き、黒縁の眼鏡をした桜庭の姿は、朝美がいつも廊下や更衣室ですれ違う凛とした雰囲気とは異なるものだった。受付けでの様子とは違う少し乱れた姿勢は、むしろ可愛らしささえ醸し出していた。

「何歳ですか?」

「私は今二十二で、再来月に二十三になります。」

「二十二? わっかぁ!」

「え、そうですかね。ありがとうございます。」

「桜庭ちゃんは知ってる? 更衣室のルール。」

「あれですか? しゃべっちゃダメ?みたいな。」

「そーそー! ヤバいよねぇ。校則みたいだよね!」

「そ、そうですねぇ。」

「あ、ウチね、朝美っていうの。よろしくね。」

「朝美さんですね、よろしくお願いします。」

「緊張してるぅ? 大丈夫だよ。そういえば、何読んでたの?」

「あっ、これは。」

桜庭は表紙を見せながら言った。

「今度受ける資格の勉強してました。」

「えー! 真面目ぇ。凄いなぁ。ウチそんなことできんもん。」

「私も、元々はこういうの全然続きませんでしたよ。でも、彼氏が凄い努力をする人で、それを見てたら、自分も頑張らないとなぁって思うようになりました。」

「え! 桜庭ちゃん彼氏いんの?」

「あ、はい。」

「へぇー、そーなんだぁ。どこで出会ったの?」

「学生時代の先輩です。」

「うわぁ、青春だなー。いいなぁ、ウチもおったわぁ。桜庭ちゃん、気を付けてね!」

「何をですか?」

「男って、急に変わるから。ほんとに。」

「変わる、というのは?」

「最初の方は会ってくれてたのに、なーんか急に忙しいとかなんとか言って、誘ってあげても仕事がぁって断るんだよ? 酷くない?」

「うーん、そうですねぇ。」

「ウチだって働いてんのにさ、「夜会いたいって言っても時間作れないなんて結局その程度なんでしょっ。」って言ったら、急に別れようって連絡来てさ。腹立ったからブロックしてやったよ。」

「へーぇ。」

「あー話してたらムカついてきた。そうだ。」

朝美は、鞄から昼間にも使用したミニスプレーを取り出し、自分とその周辺に向かってこまめに噴射した。

「え、それなんですか?」

「コレ? これはね、悪い空気とか嫌いな人とかを遠ざける効果があるんだよ。えーと、確か、浄めた塩?とイオン化した水?みたいなのが混ざってて、国際特許も取得してんだよぉ。やってみる?」

「あ、いえ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。」

「おっけぇ、あ、さっきの話だけど、彼氏の前では強気でいないと! 捨てられるよ!」

「分かりましたぁ。気を付けますね。」

「うんうん。」

「あっ、私そろそろ行きますね。」

「予定あんの?」

「私、今から出勤なんですよ。」

「え、まだ早くない?」

「今日はちょっと早出しないといけなくてぇ。」

「そっかぁ、ホテルマンって大変だもんね。」

「えぇ、そうなんです。それではまた。」

「はーい、バイバーイ。」

席を立ち、歩き出した桜庭の背中には、芯が通っていた。彼女が去った後の静かな喫茶店で小一時間過ごした後、朝美は家路を辿った。バスの中で、桜庭と連絡先を交換しなかったことを後悔しながら。


午後九時頃、外は完全に夜になりきっている。

照明が消えた、薄ぼんやりと明るい部屋の天井を見つめつつ、西本の発言を頭の中で何度も反芻した。

「このままだと生きていけない。」スルーをしていたが、その言葉が含む現実感は鉛のように重かった。自分の今の収入から考えると、シングルマザーとして二人の子供を育てるなんて、明らかに不可能だ。月に十四万弱の今の収入では、自分一人が生きていくので精一杯。なのに、多少歴が長いからといって、西本はどうして今まで生活が成り立っていたのだろう。それに、このままの生活ではダメだと云うのは、何が原因なのだろう。考えても分からない事ばかりで、頭が痛くなる。自分の未来を想像しているようで嫌だ。

逃げるようにスマートフォンでSNSを見ていた朝美は、気になる投稿を目にする。

「『手放してはいけない男の特徴』かぁ。」

該当の投稿曰く、「8153」という奇跡の数字があるのだそうだ。それら四つの数字を一回ずつ使用して、誕生月と誕生日をそれぞれ表すことができる男は、神に愛された人物であるという。その人物のことを、投稿の中では「星」と呼称している。例えば、生年月日が6月17日である場合、6は「1+5」と表せられ、17は「18-5÷3」と表すことができるから、この男は「星」なのだそうだ。そこで朝美は、試しに今までに付き合ったことのある元カレの生年月日を当てはめてみた。

「3月19日は、3はあるけど、19は、んー、できないな。7月30日は、7の方は8-1でできるけど、30わぁ、んー、あーできんなぁ。11月27日は、わぁ、8+3と、27、27、うーできない。」

深いため息の後、朝美は零した。

「そっかぁ、今までウチが彼氏と上手くいかないのって、アイツらが「星」じゃないからかぁ。」

カーテンの隙間から漏れる隣の家屋の灯りを、彼女は神妙な面持ちで見つめた。本人は誕生日を忘れているのかも知れないが、きっと西本の元旦那も「星」じゃないのだろう。子供を二人も孕ませて、その上捨てるだなんて、「星」の名を冠する男がするはずが無い。西本は出逢う男を間違えたのだ。でも自分は、出会う男が「星」か、「星」じゃないかを見抜く術を手に入れた。

待てよ。

西本はシングルマザーだからあぁなのだ。だったら、自分は良い仕事に就いていて、性格も良い人について行けば、あんな年になるまで働かずに済む。「生きていけない」みたいな惨めな言葉を、二十も年が若い人間に吐かずに済む。長い間恋愛から遠ざかっていたけれど、自分なら、きっと良い人を捕まえられる。かつて灰を被る生活をしていたシンデレラを、才貌両全な王子様が拾い上げたように。嫌と言うほどに毎日続く、井戸の底のような生活を、誰かが終わらせてくれる日がいつか来るだろう。悲劇的な状況の中でひたむきに努力する自分を、幸福へと誘ってくれる王子様がいつか現れるだろう。自分はそれを「8153」で見定めながら、心待ちにしよう。

朝美の導き出した「夢」は、昼頃に西本が問うた「夢」とは違った。それよりもずっと非現実的で、言ってしまえば一種のスピリチュアルに該当するものであった。けれど、彼女はうつらうつらと休息に向かう思考の中で、西本よりも巨大で輝かしい夢があることを勝ち誇っていたのである。


 或る日曜日の午前、朝美は在来線八十八子駅方面の電車に乗り、向かい合わせとなっている四人掛け席の隅っこに座った。特筆するような目的は無い。彼女にとって、住み慣れたいつもの街にいるというのは、どこか息が詰りそうなほど退屈なことであったのだった。見慣れた道路、見慣れた住宅街、見慣れた商店、五年もの月日が経過してもほとんど変わり映えの無い街並みは、これから数十年先も一切変化しないことを宣言している様で、酷く閉塞感がある。「面白いことが起こらないかな。」とぼんやり考えながら、車窓に次々と映る田圃や湖を眺めていた。終点までには、駅があと四つほどある。彼女は椅子の背もたれに頭を預けては、壁や床から伝う振動の心地よさに任せ、ゆっくりと瞼を下ろした。十五分ほど経過しただろうか。ドアの開閉音と車内に響くアナウンスによって、彼女は目を覚ました。

「くちやぁえきぃ~、口屋駅ぃ~。えーご降車の際は、段差にお気をつけ下さいませ。」

終点でないと分かり、すぐに目を閉じる。

彼女のいる車両からは、数人ほど乗客が下車をした。その後、すぐにホームから人が入り込んで来る。一人が、向かい合わせとなった彼女の対角の席に座った。気配でなんとなくそれを感じた彼女は、「どんな人が座ったんだろう。」と、瞼を薄っすらと開けて確認した。

「えっ!」

思わず声が漏れ、両手で顔を覆い塞ぐ。別に知り合いでも、職場の人という訳でもない。ただシンプルに、朝美の前に座った男性が、朝美のタイプの顔立ちをしていたからだ。滑らかで高さのある鼻筋にパッチリとした二重は、SNSで偶に目にするようなアイドルを彷彿させ、本を掴んでいる手は妖艶な血管が数本ほど浮き出ている。思わず見とれ、しばらく青年の顔を眺めた。

「あの、すみません。何か顔に付いてますか?」

前触れなく生まれた会話のチャンスを逃すまいと、朝美は言葉を綴った。

「あっ、すみません! どんな本を読んでるのか気になって。」

「そういうことですか。これはですね。」

青年は膝上に伏せていた本を起こし、朝美へタイトルを見せた。オレンジ色を基調とする厳かな表紙の、ひと際目を惹く部分に『天体の回転について』と記されていた。

「本を読むのが好きなんですか?」

「うーん、気に入ったタイトルを摘んで読む程度ですね。」

ポカンとした顔で「へぇ。」ともらす朝美は、「天体」から連想を開始して一番に思いついたことを、次の会話の種にした。

「宇宙、とか好きなんですか?」

本の表紙を指差し、首を少し傾けながら尋ねる。青年は、「あぁ」と小さく声を漏らし、手元に収まったそれを見つめた。

「うん、天文学は好きですよ。でも、僕がこの本を好きな理由は、もっと広義での知見を得られると言いますか、ある種の哲学らしさを見出しているからですね。」

「哲学…。」

背を延ばしつつ、男性が放った言葉を復唱した。最後の「く」の母音を吐息混じりに発音した時、長らく畳んでいた光景を思い出した。そうだ、高校二年生の冬。選択授業について悩んでいた自分たちに、担任の水下先生が発した言葉。クラスの男子が問いかけた質問。

「みずっちぃー。倫理ってなに?」

黒板に文字を書いていた水下先生は面倒くさそうな顔をしながらも、その男子生徒の質問の返答をした。

「んー、俺は高校の時に倫理取らなかったから、めっちゃザックリの説明になるけど、えーまぁ、あれだよ。社会生活を送る上での行動規範みたいな。」

「へー、道徳とはなんか違うの?」

「道徳はぁ、何て言うんだ? あ、マナー、マナーだよ。倫理、わぁ、法律を作るための前提?かな。」

「ふーん、哲学とはちげーんだ?」

「哲学、てつがくかぁ。哲学は、生きる目的について考えたりとかだよ。」

「ほーん。」

「まぁ、お前らが学んでも身になるとは到底思えないけどなぁ。」

「わぁ、みずっちひどー。先生だってわかってねぇじゃーん。」

「うるせーなぁ、俺は数学の教師なの! ほんとに知りたいなら、教科担の溝内先生とこ聞きにいけっ。」

「えー! 倫理ってミゾウチかよぉ、ぜってぇやだぁ。」

クラスメイトたちの笑い声の中に、そのフレーズがあった。

「「生きる目的について考えること?」」

朝美は無自覚に、その台詞を口にしていた。ハッと気づき口元を抑えた彼女に、青年は笑みを浮かべながら応えた。

「その通りですね。確かに、生きる目的ともいえますね。」

「ですよね! 私も! 私もよく考えたりします。自分の生きる目標とか、夢とか、人間関係の法則とか、寝る前についつい考えちゃいます。」

「一緒です! この本も似てるんですよ。」

「何が似てるんですかぁ?」

「十五世紀以前は、地動説は過激な異端思想だと認められなかったじゃないですか。そんな理不尽で不遇な時代でも、彼らは研究を止めなかった。教科書や聖書に書かれていたことを妄信することなく疑い、絶命する直前まで真理を追究するというのは、人並み外れた知的好奇心や情熱、そして愛がないとできない。そこに哲学性があると僕は思うのです。」

「そう、ですね。」

「あっ、すみません。ちょっと語ってしまいましたね。」

青年は申し訳なさそうに肩をすくめた。

けれど、朝美は寧ろ素晴らしいとさえ思っていた。自分の好きなものについて熱く語ることができる人間に出遭ったことが、あまり無かったからである。中学・高校時代にも、彼のように何かしらに熱中している同級生はいた。けれど、その人たちが熱中していたのはゲームであったり、漫画やアニメであったりしていて、ハッキリ言って理解のできない気持ち悪いものであった。

「ううん! すごく分かるし、納得できます。」

「本当ですか! 嬉しいなぁ。珍しいですよ、こんなに分かって貰える人に会うのは。」

二人は八十八子駅までの間、哲学や宇宙の話に花を咲かせた。互いの興味に多少の差異があったが、それは朝美にとってはあまり重要ではなかった。改札を過ぎた頃、朝美は青年に提案を持ちかけた。

「あのぉ、これからどこかで話しませんか?」

「あーすみません、これから友達との予定があるんですよ。」

「そうですかぁ。」

朝美は残念そうにつま先を見つめる。けれども、彼女に備わっている恋愛における十分な自信が、さらに背中を押した。

「じゃぁ、連絡先! 連絡先教えて下さい。」

青年は少し空を見上げて考えたが、「いいですよ。」と承諾した。二台のスマートフォンを重ねながら、心の中で強くガッツポーズをする朝美は、「あっ、最後に一つ聞いてもいいですか?」と、もう一押しする。

「えぇ、どうぞ?」

「誕生日は、いつですか?」

青年は不思議そうな表情をしながらも、質問に答える。

「三週間後が誕生日です。二十五になります。それでは、また。」

手を振り遠ざかる彼を見つめ、朝美は頭を働かせる。三週間後ということは、彼の誕生日は5月26日ということか。

「「8153」だから、5はクリアで、26、26は、8×3+1か? んー、いや違うな。8+1+5+3でも17だから、工夫しないと。3×5+8+1は、15+9だから、えーと、24。んー、3+15+8はどうだろう。15+11だから、えーと、あ! 26だ! やった! 「星」だ!」

人が往来する駅前の広場で、やっと「星」に出逢えたことを彼女は歓喜した。毎朝「何のために?」と俯瞰をしていた化粧の意義は、この日のためにあったのだと思う。地元から離れて六年近くも独りで頑張っていたのは、今日のためだ。

湖妻駅方面へと向かう電車が出発し、朝美の背後で鉄を踏みしめる音を奏でている。久しく忘れていた情熱的な高揚感が、彼女の小柄な肉体を強く震わせるのであった。


[前編終わり]

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