3話
少年の物語の脳内上映が終わる。太陽はいまだ中天に留まっていた。
「(油断した。)」
短時間に流れ込んできた大量の情報によって混乱した頭を押さえながら、今度こそ立ち上がる。水に濡れてずっしりと重く、肌触りの悪い衣服が纏わりついて不快だった。
一回り小さくなった勝手の違う身体を何とか動かし、どうにか川岸に上がる。肉体に残る少年の意識が家に帰りたいと喚くのを無視して、丸石だらけの川岸に仰向けになって寝転がる。
雲一つない空から降り注ぐ春の日差しが、じんわりと身体を温めるのを感じながら、脳内を整理し始める。
「..魔法盤。」
「(くそっ。やらかした、やらかした、やらかした!!)」
間抜けな自分への怒りが、情報の洪水に押し流されてなお湧きたつ。
結論からいうと異世界に転生した。意識あるいは魂が、死んだ少年の肉体に憑依する形で。転生したこの世界は、前世で言うところの異世界あるいは、ファンタジーの世界。つまり、魔法やスキルこそあれ、文明レベルは中世~近代ヨーロッパなのである。最悪だった。貴族や裕福な商家はともかく、この肉体の以前の主は辺境の開拓村にあるアイテム屋の一人息子だった。従って、家を捨てて成り上がりなどできる訳もなく、後継者として開拓村の貧しい家に生涯縛られ続けることが確定しており、実際に後継としての育成もすでに始まっている。
「(せっかく、第一段階まで来ていたってのに...。悪い夢なら今すぐに覚めてくれ。)」
現実を受け止めつつある男の怒りは落胆へと変わる。
死んだところを拾ってもらった自覚はある。しかし、二度目の生を与えられたとはいえ、この村で元の生活と比較して天と地ほど差のある低水準な生活を永遠に続けるなど堪ったものではなかった。
肉体の記憶から判断するに、この世界の平民の生活水準は元の世界の健康で文化的な最低限度の生活を遥かに下回る。肌触りの悪い粗末な衣服でさえ貴重品で、食事は昼と夕方に固くてぼそぼそしたパンと、まれに村周りの森で狩ったウサギや鹿に似た魔物の肉が入る、味付けのされていない野菜くずのスープだけ。食事の量も回数も少なく、間食に甘味やスナック菓子、お茶、コーヒーなどの嗜好品が辺境の村で楽しめるはずもない。住んでいる家も、現代建築と比べることすら憚られる粗末な建付けで、夏は熱気が籠り、冬はすきま風の冷気を薄っぺらい布団で耐え凌ぐ。娯楽に関しても、年に一度の収穫祭を除けば、村に伝わる歌と父や行商人が話す都会の傭兵たちの英雄譚が関の山。本当に食い扶持を繋ぐのに精一杯の毎日で、得られたお金は最低限の糧に消え、わずかな余剰なお金も貯蓄に消える。唯一の救いは、村の教会に派遣された僧侶のおかげで医療と衛生の水準が比較的高いということだろう。
「(元の世界の基準で言えば日本の一般家庭の中でも恵まれた境遇だったさ。それでも、胡坐をかくことなく、積み上げ続けて満足のいく人生を掴み取ったのに...。)」
「(これまで積み上げてきたすべてを捨てて、この手札でゼロから始めろと?)」
耐えられるわけがない。美食と娯楽の最先端、日本。そこそこ裕福な家庭に生まれ、惜しみなく愛情を注がれて成長し、独り立ちした後もそこそこの収入を得ながら一人暮らしをしていた人間に。
そして何より、元の世界にはたくさんの未練がある。人生の伴侶こそいないものの、仕事で成果を上げるごとに喜んでくれる親兄弟、学生時代からの旧友や、趣味を通じて最近できた友人。酒を酌み交わしながら下らない話で盛り上がり、夜を明かすたった一人の親友。そして、未だ途上の目標。
確かに異世界でしか得られない経験はあるだろう。物が貧しくとも、隣人と身を寄せ合いながら心豊かに過ごす人生もまた幸福なのだろう。しかし、家族は、友人は、親友は、仕事は元の世界にしか存在しない。すべてが唯一無二の存在だった。稼いだ金のおかげで元の世界でも高品質な物に囲まれ、親と出会いに恵まれたおかげで心も豊かな人生は、この世界では到底得られない至上に近い幸福なものだった。元の世界で築き上げた全てを擲ってまで、こちらの世界で生きたいかと問われれば、この世界にそこまでの魅力はないというのが男の答えだった。例え転移時の補償があったとしても、男の結論は覆らなかった。
異世界への転移を望んでいないからといって、請い願えば元の世界に戻してくれるわけではない。厚顔無恥にも、元の世界での日常を諦めることができない男は元の世界への帰還する方法を思案する。
「(元の世界に帰る方法か。肉体の記憶には手掛かりなしだな。それに、元の世界に戻れたとしても国籍レベルで身体が変わったし、めちゃくちゃ若返ったから身分の証明も不可能に近いぞ。)」
男は世界を渡る転移の手段だけではなく、身体を戻すための錬金術か何かが必要であると結論付ける。
「(転移と錬金術か。全く分からん。情報の集まる場所で情報収集をする必要があるな。)」
そして、帰還の鍵を握るであろう二つの情報を得るには、間違いなく少年の故郷を出なければならない。
「(流石に、今すぐ帰還方法を探す旅に出るのは無謀すぎる。ポーチと短剣の鞘だけを持って街に行っても、境遇は良くて孤児院の孤児だろう。となると、跡継ぎを別の誰かに託して、後腐れなく村を出る方がマシだ。)」
「(よし、決まった。別の後継者が生まれるまでは辺境の開拓村での生活に耐えてから、帰還方法を探す旅に出る。一刻も早く帰りたいが、焦りは禁物だ。少年の二の舞になるだけだからな。時間はたっぷりとある。)」
目標は決まった。手札は授けられ、受け継いだ。脳内で暴れていた大量の情報を整理し、行動指針を大まかに固めた少年は、村の自宅へと歩き始める。
太陽は東へ傾き始めていた。
魔法盤...自身の情報を可視化する。魔法盤で確認できる情報は名前、性別、年齢、種族、レベル、状態、ステータス、スキルといった自身の能力のほか、加護や称号が存在する。
レベル...自身の位階を示す。人族の場合、倒した魔物が持っていた存在力の一部を取り込み続け、取り込んだ存在力の量が一定値に達することで位階が高まり、レベルが上がる。魔物を倒した際に得られる存在力の量は倒した魔物のレベルにのみ依存する。
ステータス...自身の様々な潜在能力を可視化した数値。各数値はレベルが1上昇するごとに一定数上昇する。数値の上昇幅は1~100であり、個人の資質によって異なる。スキルによる一時的な数値の上昇や低下は可能であるが、恒久的な数値の上昇はレベルアップ時のみ起きる。
スキル...自身が習得した技術と技量が列記されている。スキルの習得のしやすさや、上達速度には個人差がある。また、スキルには誰もが習得できる"通常スキル"と、才に恵まれた者だけが先天的に習得している"固有スキル"が存在する。
加護...世界を見守る神から寵愛を受けている証。美徳は更なる加護を、悪徳は加護の消失を招くと言われている。
称号...この世界で成し遂げた偉業を称える証。称号の中には、所持することで何らかの恩恵を受けることができるものが存在する。