2話
苦しい。苦しい。いやだ。生存本能が鳴らす警鐘が眠っていた意識を呼び覚ます。
空気を。酸素を。上へ。魂の叫びが命令となって身体を動かし、両手で地面を押した反動で勢いよく上体を起こす。
「がはっごほっ。ぜぇーぜぇー。」気管まで侵入した水を吐き出すように大きくせき込みながら、深く、速く呼吸を繰り返す。
「すぅー...ふぅ。」呼吸が整うまで深呼吸を繰り返せば、真っ白に塗りつぶされた視界に色が戻り、混濁している意識も次第に鮮明になる。
「(生きてる...溺死もしないのか。素晴らしいな。)」
頭がズキリと強く痛む。
ーーー死んでない...背中も大丈夫そうだ。よかった。
意識を取り戻してから時間にして2~3分。生存への喜びもそこそこに、顔をあげてきょろきょろと忙しなく頭を動かし状況の把握を始める。
「(あまり寒くない...?昼だからか?)」未だ半身を包む水は、冬を溜め込み始めた氷点下に近い水というより、麗らかな春を含み始めたそれに近い。身体を濡らす水は、確かに身体を冷やし体温を奪っているが、含む冷気が季節と合致していないように感じられた。
「(いや、それよりここはどこだ?)」空を見上げれば、冷える身体をじんわりと温める太陽が天高く浮かんでいたが、視界に広がる青空の両端にはさわさわと揺れる枝葉があった。
周囲をぐるりと見渡せば、どうやら自分が座っている場所は波打ち際の真っ白な砂浜ではなく、両岸に木々が生い茂る深い森が広がる川の浅瀬らしい。
「...は?川?」
「(なぜ川に?俺は海に落ちたのに...。)」
頭がズキリと痛む。
ーーーああ、森の奥から川の遊び場まで流されたのか。
意識を失っていたため推測の域は出ないが、釣りに熱中しすぎて波に足を取られ、海に落ちたのだろう。どのくらい時間がたったのかは分からないが、潮に流されるままどこかに漂着したのであれば、それは間違いなく海岸の砂浜か磯の岩場のはずなのだ。
「(誘拐?遺棄?...分からんな。)」
だからこそ、川で倒れていたのが信じられなかった。川から海に流されることはあっても、その逆はあり得ない。しかし、腰には常に緩やかな川の弱い水流が当たり、涼やかな水の香りが鼻をくすぐるっている。であれば、誰かが意志を持ってここに運んだとしか考えらえないのだが、周囲を見回しても人の気配はおろか、獣の気配すら感じられなかった。
「(とにかく家に帰って準備をしたら、出社して研究に戻らないと。)」
頭が少し痛む。
ーーー早く村に帰って薬を作らないと。
現状に不可思議なことが多いものの、命を脅かす危機的状況に放り込まれたわけでもなければ、帰宅の難易度が跳ね上がったわけでもない。現状の考察を打ち切って、帰宅までのプランや、コストに思考を切り替える。
「(道に出て、そこから集落にたどり着ければ後は何とでもなる。)」
「よいしょっ。」とにかく家に帰る。帰宅までの算段を頭の中でつけると、行動を起こすべく川から上がるために腰を上げようとしてー。
「...は?」
水面に映った自身の顔を見て、驚きと疑問の混じった声が漏れる。
眉を顰めた金髪の少年の顔が川の揺れる水面からこちらを見つめていた。
そして、少年と目が合うと同時に、のどかな村で暮らす健気な少年の慎ましく幸福に満ちた短い人生が突如として脳内に流れ始めた。