82魔王軍四天王
突如現れた悪魔を前に、イレイナは強い警戒を続けていた。
「……あなたは?」
じっとりと掌の中に汗がにじむのを感じながら、イレイナはナイフを手に問いかける。そのわずかな初動も見逃さない――そう告げる瞳に燃える怒りを前に、悪魔は楽しそうに手をたたく。
「初めまして。私は悪魔ディアボロ。魔王様の元で【暗澹】の称号とともに四天王を襲名しております」
大仰にお辞儀をした悪魔はにっこりとイレイナに笑いかける。
「四天王……」
「ええ、ご存じでしょう?何しろあなた方が倒された堕精霊、アダマンゴーレム、そしてイヴィルドラゴンは地位を賜ったばかりの新参者とはいえ四天王の名をいただいたモノ。内通者を疑いたくなるほどの連続での撃破でしたね」
「内通者?」
「ええ、ええ。私ども悪魔は己の快楽に忠実なあまり、時として人類にわざと情報を漏らすこともありますゆえ……魔王様の右腕としましては恥ずべきことなのですがね」
オウム返しするネストに、悪魔ディアボロは大きくうなずき、痛む胸を押さえるようにして告げる。芝居がかったその振る舞いに気を抜くほど、ネストもイレイナも潜り抜けてきた死線は少なくない。
二人の経験が告げていた。気を抜いたその一瞬が、死ぬ時だと。
「それで、最後の四天王が何の用?」
「そろそろ鬱陶しい羽虫を駆除する頃合いかと思いまして。ですから、皆様にはここで死んでいただきましょう。我らが魔王陛下の波動の礎として、ね」
時は満ちた――そうディアボロは笑う。だが、時間稼ぎをしていたのはイレイナたちとて同じ。ディアボロに気付かれないように、この場に戦力のすべてが終結しつつあった。
住民の避難は終わった。そして、キグナスとアレインの治療も進んでいる。
英雄を傷つけた悪魔に、人類連合軍は殺意高くディアボロをにらんでいた。
涼しげな笑みを獰猛な肉食獣のそれに変えたディアボロが指を鳴らす。
それが、戦闘開始の合図。
その瞬間、イレイナたちの目の前からディアボロの姿が消え、同時に包囲網の一角から悲鳴が走った。
「ッチ、確定だ!こいつは空間魔法を使うぞ!」
エルフの男の叫びに動揺が広がる。そうしている間にも、ディアボロは何度も転移を繰り返し、神出鬼没に連合軍を翻弄する。
最初に狙われたのはセイレーン。防御力が低く、おなかつ歌が聞こえる範囲という広範囲に攻撃や回復、バフやデバフをまき散らすセイレーンはディアボロにとって相性の良くない相手だった。
セイレーンたちもまた、ディアボロとは相性が悪かった。
初動。勝敗を分けた一瞬の攻防はディアボロに軍配が上がった。
セイレーンたちが蹴散らされた連合軍の間に動揺が広がる。もとより英雄キグナスを精神的支柱としていた彼はキグナスなしにはまとまりに欠ける個々の集団と化す。
獣人の鋭利な爪も、エルフの弓矢や魔法も、ドワーフの槍も、ディアボロには届かなかった。
ただ、連続で転移と攻撃を繰り返すディアボロは、あっと今に連合軍を瓦解される。
放たれる空間魔法が世界を揺らし、そこにいた者の体を、脳を揺さぶる。
全身から血を吹き出して倒れる者、ディアボロの腕によって空間ごと切断されて上半身と下半身が断たれる者、誰だったかも判断できなかったほどにぐちゃぐちゃにされる者。
それはもはや戦いとも呼べない、文字通り一方的な“蹂躙”だった。
そんな中、イレイナはネストと背中合わせになって周囲をにらんでいた。
ディアボロが現れてから魔法の発動まで、一瞬のタイムラグがある。極度の集中状態にあるイレイナはわずかな魔法の発動を察知してディアボロの攻撃を防いでいた。
そうすれば、ディアボロはイレイナを嘲笑うように、周囲の者を蹂躙していく。殺していく。破壊していく。
それはまるで無垢がゆえに虫で“遊ぶ”ことができる子どものごとく。人間を人間と思わず、生命を生命と思わず、ディアボロはただ楽しそうに破壊を続ける。
矢も魔法も剣も槍も爪も牙も爆発も呪いも、ディアボロには届かない。
「ふぅー……」
目を閉じ、息を吐く。余計な一切の情報がイレイナの中から消える。
斥候として培った感覚のすべてで周囲を探る。闇の中、感覚を広げていく。
一歩、イレイナは静かに足を踏み出す。
瞬間、大地を陥没させるほどに強く地面を踏みつけたイレイナが姿を消す。
そして、次の瞬間。
「はッ」
目の前に現れたディアボロの顔面にイレイナはナイフを突き出した。超人的な感覚と、転移を上回る加速。それは、イレイナだからこそなしうる奇襲だった。
眼を見張る。思考は動き続ける。冷や汗を浮かべながら、動揺を押し隠し、あくまでも笑みを張り付けたままディアボロはとっさにかがんで回避する。そのディアボロの顎を、イレイナは蹴り上げる。
顎の骨にヒビが入り、歯が数本舞う。放物線を描くディアボロへと連撃を繰り出そうとしたイレイナは、即座に別方向へとナイフを投擲する。
パァン、と衝撃波をまき散らしながら宙を走るナイフが灼熱化しながらディアボロの片腕を捉え、吹き飛ばす。
「は、ァ?」
さすがのディアボロも想定外の事態に笑みが凍り付く。その目の前に、イレイナのこぶしが迫る。
ナイフを握る時間も惜しいとばかりに、固く握りしめられたこぶしがディアボロの顔面を打つ。
水平にかっ飛んだディアボロは頭から焦げた民家の外壁に激突して、破壊しながらその奥に消える。すでに、そこにディアボロの気配はない。
イレイナはともすれば冷徹に見えるほど感情の消えた瞳で、近くの家屋の屋根に立つディアボロを見る。糸のように細められたその目に、ディアボロは言いようのない感覚が背筋に走るのを感じた。
その感覚の名は――恐怖。
「馬鹿、な」
悪魔である己がたかが人間に恐怖を覚えたこと。その事実にディアボロは激しく動揺する。そのすきを逃すほどイレイナは優しくない。
跳躍。一瞬にしてディアボロの前の眼に迫ったイレイナがその体を蹴り飛ばす。宙を舞うその体めがけて民家の壁を蹴り砕いて木片を散弾のように飛ばす。
転移。
目の前にイレイナの拳。
ディアボロの体が地面に叩きつけられる。ばれないように緻密な操作で周囲に広げていた魔力の網が揺らぐ。膨大な魔力が、イレイナの感知下に収まる。
視界が激しく揺れる。思考力の落ちたディアボロをイレイナは逃さない。
「はぁッ」
引き抜かれたナイフが五月雨のように降る。風が吹く。それはイレイナの連撃によるものであり、そしてディアボロの魔法によるもの。
ディアボロの体に無数の穴が開く――ことはなく。その体の目の前に、異空間へとつながる穴が開く。その穴は、かつて勇者を吸い込んだ穴。
目撃情報からそのことを知っていたイレイナは、即座に穴から離れる。
穴が消え、瓦礫の名からから血を流すディアボロが立ち上がる。
幽鬼のように表情が消え、人の模倣を手放したように、まるで機械じみた間接の動きをする。折れ曲がった首を無理やり元の位置に戻す。唇をぬぐえば、手の甲にべったりと血が付着する。
「ふ、ふふふふふふふふふ」
突然笑い始めたディアボロの全身からおそるべき量の魔力が吹き荒れる。それは、イレイナをしてそこへ踏み込むのをためらうほどの、嵐のごとき魔力の渦巻き。
それは風を起こし、砂を巻き込み、ディアボロの体をかき消す。
その、砂嵐の向こうに、巨大な影が現れる。
高さ三メートルほど。
『ははハははははハハハハハッ』
高笑いをするディアボロは、もはや人とは程遠い異形の姿になっていた。
左右六対の腕には剣や槍が四本握られている。五メートル以上ありそうな巨大な翼。頭頂部の角は一層太く鋭利に変化した。顔には血のように赤い目が左右二つずつ、そして額に、魔法陣を内包する大きな目が一つ。全身の肌は灰色から黒に変化し、一部には長い毛が生えていた。臀部からは無数の矢じりを重ねたような金属質のしっぽが伸びる。
腕の一つを高らかに掲げたディアボロ――悪魔としての本来の姿をさらした魔王軍四天王【暗澹】が、本気をもってイレイナに襲い掛かる。
パチン――高く指が鳴り、それと同時にイレイナを取り囲むように、周囲全方位に魔法陣が出現する。
血のように赤い光を帯びたその魔法陣は、一瞬で効果を発動し、無数の武器がイレイナを襲う。
虚空より現れた剣や槍を目に、イレイナは魔法陣の包囲網の一角へと走り出す。全方位から迫る攻撃の中心に居続けるのは愚策。
前へと踏み込み、迫る武器をはじく。それは一撃一撃がひどく思い。空間魔法によって加速された武器は、その一つ一つが国宝にも匹敵する、あるいは聖剣に手をかけようかという強力な武器。中には炎や雷、毒と思しきまがまがしい霧をまとったものもあり、捌くのも困難だった。
それでもイレイナはその包囲を突破する。体から軽く血を流しながら、イレイナは止まらない。
全力で跳躍。その場から姿の消えたイレイナは、次の瞬間にはディアボロの足元に迫っており、そのナイフでディアボロの足を切り裂く。
「ッ!?」
刃は、ディアボロの体を覆う黒い体毛を数本切り裂くにとどまった。イレイナの攻撃力をもってしても歯が戦い防御力――だとすれば狙うのは目や耳などの急所。
だが三メートルはあるディアボロは、さらには悪魔としての本気を発揮したディアボロはそれを許さない。
ディアボロの指が鳴る。
飛び上がろうとしたイレイナだが、その片足がまるで地面についつけられたように動かない。
イレイナの足を空間に縫い留めたディアボロが握る槍をイレイナめがけて振り下ろす。
一直線に迫る槍の穂先を、イレイナは辛くもはじく。
バランスが崩れ、それでもやはり足は地面から離れない。
「こ、のッ」
片手でカバンの中に手を突き刺し、小瓶に詰めていた料理を足に叩きつける。
皮膚を軽くガラスが傷つけたが、その料理による呪いが、ディアボロの魔法からイレイナの足を開放する。
足を包み込んだスライムのごとき黒々とした料理のなれの果て。それを吹き飛ばすようにイレイナは足を振りぬく。
ディアボロは、とっさに転移してその正体不明のスライムを回避する。自分の魔法を解除したその物体を回避しないわけにはいかなかった。――実際には、それはディアボロに当たったとしても何の効果も及ぼさなかったが。
回避に思考を誘導させたイレイナは、同じくカバンから取り出した瓶の蓋を開け、黒々とした丸薬を口に放り込む。
飲み込むと同時に、カッと全身が熱くなる。心臓が鼓動を強め、体に力が満ちる。
獰猛に笑ったイレイナが、砂埃を巻き上げながらその場から姿を消す。
無数の連撃音だけがその場に響く。誰にも、ネストにさえも、ディアボロはもちろんイレイナの姿も見えない。見つけられない。
高速戦闘を繰り広げる両者は、残像と衝撃波と砂埃を巻き上げながら超常の戦いを続ける。




