79英雄
地獄だ――そんな言葉を、スラシャは唇をかんで飲み込む。
「大丈夫ですか!?」
代わりに、近くで倒れていた少女へと走り寄る。額からわずかに血を流し、片足は骨が折れている。けれど幸い、それ以外に目立った傷はなかった。
話しかければわずかにくぐもった返事が聞こえる。眉は苦悶にゆがみ、口は悲鳴をこらえるように固く引き結ばれている。
うすらと開かれた瞳が小さく揺れる。
スラシャは少女に肩を貸して立ち上がる。
歩き出した二人は逃げ惑う住民たちの集団の後方に混じる。
周囲からは血と煙、そしてわずかな獣臭さが漂う。つんとしたアンモニア臭がそこに混じる。
「う、ぁ……」
「大丈夫、大丈夫ですよ!」
少女に告げているのか、自分に言い聞かせているのか。わからないながらもスラシャは必死に歩く。
領主の館があった街の中心付近にい続けるのは危険だった。上空より飛来する魔族は、街の中心部ほどその数が多く、外延部に向かうほどに少ない。以前の襲撃によって大破した街の北側はいまだに復興途中であり、開けたその場所に向かおうものなら瞬く間に魔物の餌食になる。
北東部の仮居住スペースはすでに炎の海になっている。無数に乱立された木造家屋は瞬く間に火を広げ、そこにいた人間を焼き焦がす。そこには魔族さえも近づかず、むしろ炎を取り囲むように待ち構えて、火災から逃げてくる人々を襲っている。
ネストとアレインを先頭に一行が進むのは街の南西方向。先の戦いを乗り越えた石造りの家屋が多く並ぶそこは、身を守るための障害物が多い。何より、街の南東区画の中央付近には大きな避難場所がある。
北からやってきた魔族の大群に外壁が敗れた先に避難する地下ドーム。この街で最も頑丈に作られたその場所に逃げられれば助かる可能性はあった。
そこへ、逃げることができれば――
強烈な悪寒に、スラシャの足が止まる。
恐怖のせいで呼吸が荒くなる。うまく脳に酸素が送り込めないせいか、あるいは煙を吸い込んでしまったためか、視界がぐにゃりとゆがむ。
恐る恐る振り向いた先、緑の肌をした魔族が立っていた。他の魔族同様、二足歩行。炎の光に照らされる深緑の髪は柳のようで、眼窩にあるのは白目のない琥珀色の眼。黒々とした唇がひび割れ、頬が避けるほどに笑みを浮かべる。
その胸部に、亀裂が走る。縦に、横に、斜めに。花開くように、胸部に穴が生じる。その先には、無数に生えそろう白い牙と、その体の厚さからは予想もできない闇をたたえた穴が広がっていた。
ギヒァ――異様な音を響かせたそれが、口をふさいでいた肉を触手のように伸ばす。
とっさに、スラシャは少女とともに倒れるように地面に伏せる。
「うぁッ!?」
少女が苦悶の声を上げる。
二人の頭上を触手が走り抜ける。わずかに浮いた髪を数本巻き込みながら進んだ触手が、スラシャたちの先を走っていた女性の足をつかみ、その体を空に持ち上げる。
「いやああああああああ!?」
ヒステリックな悲鳴が響く。必死に手足をばたつかせる女性が、少年が、老人が、魔族の胸部の口へと引き寄せられる。
その口に、飲み込まれて。
バギグヂャボキゴリブチミチバリゴキジュチャ――身の毛がよだつ咀嚼音がスラシャの耳に届く。
「うわあああああああああっ!?」
集団後方は瞬時にパニックに陥った。少しでも前に逃げようとするも、前には先を行く人の姿があって、さらにその前ではネストたちが必死に道を切り開いている。
迫る魔族に、ベルコットが必死の形相で爆破物を投げる。
次々と捕らえられた人が、宙を舞い、あるいは地面を引きずられて魔族の口へと消えていく。
絶望が足を重くする。許容値を超えた恐怖が、涙となってスラシャの頬を濡らす。
それでもスラシャが歩き続けられたのは、その肩に一人の少女の命をのせていたから。
肩を貸す相手、まだ十歳にも満たないだろう少女は、しゃくりあげながらも前へと歩く。
生きたい、死にたくない――少女の強い思いが、スラシャの足を動かす。
先ほど倒れこんだ拍子に擦りむいた膝がじくじくと痛んだ。すぐ横を走り抜けていく触手を見て、心臓が嫌な鼓動を刻む。
そうして、その時はやってきた。
突如、体に強い衝撃が走った。体が前へと投げ出される。
背中に何かがぶつかった――スラシャが理解したその瞬間、胴体に緑の触手が絡みつく。
それはまさしく肉の鞭。骨のない筋肉だけの軟体はスラシャの体をがっしりとからめとり、恐るべき力で背後へと引き寄せる。
拮抗などできるはずがなかった。踏ん張ることもむなしく、スラシャはずるずると背後へと引きずられていく。
走馬灯が脳裏をよぎる。領地経営に魔物防衛に追われる中、それでも隙間をぬうようにして食事の席に顔を出してくれた両親との日常の一幕。幼い弟が病死してしまった時の絶望、魔法にあこがれ、魔法使いになりたいとせがんで両親を困らせて記憶。魔法の適性がなくて絶望する中、必死に励ましてくれた家族みたいな騎士の人たち。無数の笑顔が、泣き顔が、困った顔が、頭の中で浮かんでは消えていく。
ごめんなさい――心の中で詫びる。
先に逝きます。不孝者でごめんなさい。けれど、私は最後まで、お父様やお母様のような、民を守る貴族であります。
その宣言とともに、スラシャは腕を振りほどく。肩を貸していた少女を突き飛ばす。
驚愕に見開かれた空色の瞳と目が合う。揺らめく炎の光をたたえた目。その目に、スラシャは気丈に笑い返す。
どうか、生きて――
言葉は音にならず、ただ一滴の涙がその場に残る。
勢いよく引きずられる。
皮膚が傷つき、痛みが全身を襲う。おかげで、少しだけスラシャの中から恐怖が消えた。
気づけば目の前には闇があった。魔族の、口――そのことを意識から排除するように、スラシャは強く目を閉じた。
どうか、この苦痛が一瞬で終わりますように――
痛みは、いつまで経っても消えなかった。
熱を持った全身の擦過傷が存在を主張する。そこから、熱い血が流れ落ちるのを感じる。頬を伝うどろりとした液体。それがふくらはぎを伝い、足先に届く。
「……え?」
恐る恐る目を開く。
果たして、スラシャの眼に映ったのは、血のように赤い魔法陣と、その色が移ったように燃える世界。魔族の口内に放り込まれたはずの己の体は、今もなお燃え続ける街の中にあった。
地面に背中をついたまま、目だけを動かして周囲を観察する。
「――オオオオオオオオオ!」
声が、聞こえた。無数に重なりあい、津波のように響く力強い声。
街を震撼させたとどろく声は、すぐそばから響いていた。
無数の光がスラシャの視界を走る。まるで流星のごとく空を横切るその光は、赤、青、黄色、白と様々で、色はもちろんその形だって多種多様だった。
光に包まれた矢が、槍の形をした炎が、剣に似た形の光の集団が、きらめく流水が空を走る。
街のあちこちで悲鳴がとどろく。
けれどそれは、人の声ではなかった。
スラシャの視界の端、頭部を失った魔族が倒れる。
ジャリ、と砂を踏みしめる音がスラシャのすぐそばから聞こえた。
「……立てるか?」
静かな声。低くかすれているのになぜだかすっと耳に入る。
声をかけてきたのは、白髪の男。枯れ木の流木のようにつかみどころのない、けれどよく見れば鍛え上げられた肉体をした、なんとも不思議な空気を持つ老人。
その青い瞳が、じっとスラシャを見ていた。
震えながら伸ばした手が、しわくちゃで、けれど筋肉で分厚い掌に包まれる。
勢いよく引き起こされたスラシャは、改めてその老人の姿を見る。
夜空に紛れてしまいそうな色合いの着流し。腰に差すは大小一対の刀。黒い鞘に納められたそれらは、納められていてなお異様な気配を放っていた。
「あの――」
「む」
スラシャが口を開いたその時、わずかに眉をひそめた老人が小口に手をかける。片手がそっと柄に添えられて。
わずかな風が吹く。チン、と小口が鳴る。自然体で立ち続ける老人の視線の先で魔族の悲鳴が響く。
ゆっくりと振り向いた先、スラシャの目の前で縦に両断された魔族が地面に倒れていく。
「……え?」
「ひとまずこの狂乱を収めよう」
そう告げた老人が腰を下ろす。そっと柄に手を添え、睨むは頭上。天蓋のように広がる赤黒い魔法陣を見据え、剣聖は刀を振りぬく。
「フンッ」
一陣の風が吹く。その刀では、到底空に刃が届くことはない。刀の先に、かまいたちのようなものが生じたわけでもない。
ただ、それでも。空を覆いつくしていた災厄の証明――それに、まっすぐ金色の線が走る。老人が降りぬいた刀の延長線上に沿って。
魔法陣の光が強まる。けれどそれは不吉なものではない。
爆発するように強烈な光をまき散らした魔法陣は、ガラスが砕けるような甲高い音とともに魔法陣は砕け散った。
その立ち居振る舞いに、容姿に、既視感があった。刀を使う、超絶技巧の主、老齢の男、青い瞳、そして、一瞬だけ見えた黄金の光を帯びた刃。
後ろでくくった白髪をたなびかせる老人を見ながら、スラシャはある確信に至っていた。
「……キグナス・リシェント様」
片眉を吊り上げた老人が楽しそうに笑う。
彼こそはキグナス・リシェント。先代勇者にして、四天王の一体を斃した男。あるいは、人間と亜人を繋いだ人類の英雄。
一度は最前線を退いた男が、再び戦場に降り立った。
大勢の、仲間とともに。




