77強襲
ライオネスの街に、冷たい風が吹く。
人々が寝静まった街にはしんしんと雪が降り続けていて、簡易の建物の屋根が小さく悲鳴を上げていた。
そんな街に、その存在は降り立った。
頭頂部には捻じれた一対二本の角。背中には蝙蝠のそれによく似た翼。癖の強い黒髪に、灰色の肌。双眸にはルビーのような赤い輝きが狂気の色を帯びていた。
彼こそは魔王軍四天王【暗澹】の悪魔、ディアボロ。
翼膜で風をつかんでライオネスの街の上空に滞空する彼の目は、けれど街はずれの荒れ果てた大地へと向かっていた。
「……【浸食】、【平定】に続いて【暴君】が倒れるというのは想定外でしたね。やはり空いた穴を埋めるには格が足りませんでしたか」
魔王軍四天王。最初から魔王に忠誠を誓っていた最強格は、今ではディアボロだけになっていた。
あらゆる土地の植物を支配し、種や水、栄養さえあればそこを森という自然に帰る【浸食】の四天王。堕ちた精霊は、同じ精霊によって阻まれた。
立ちはだかるすべてを押しつぶし、破壊し、土地を均して進む【平定】のアダマンゴーレム。山と見まがう巨体をしていた怪物は、カースゴーレムに至ってなお英雄たちに阻まれた。
そして、魔王に支配された、堕ちたドラゴンもまた、同じ英雄によって殺された。
偶然とはいえ短期間に穴埋め要員が連続で殺されていく状況は、当然ディアボロにとって好ましいものではなかった。
悪魔は一枚岩ではない。それどころか、魔王に忠誠を誓う種の中で最も個人主義の種族だった。
他者を蹴落とすのにためらいなんてない。弱いほうが、蹴落とされるほうが悪い。悪魔とはそういう存在だ。自分の欲求に正直、あるいは欲求を抑えるということを知らない。
生物としては完全に破綻していて。けれどこうして餌場があることで、悪魔という種族はかろうじて存続を続けていた。
そんな状態で、横並びの悪魔たちの中で頭一つ抜けた存在。それが、魔王によって四天王に任命されたディアボロという人物だった。
連続した四天王の死は、その格を落とした。このままいけば四天王の看板は完全に無意味なもの、あるいは蔑称となり、ディアボロの権力は失墜する。すると、どうなるか。
悪魔のリーダーという立場を保っていたディアボロの命令を一切聞き入れない悪魔たちがこれまで以上に単独行動を繰り返す。すでに各地でこっそりと餌(人類)をかすめ取る者が出ていたが、今後はその比ではなくなる。
現状に、ディアボロは激しい危機感を抱いていた。
「これ以上四天王の名を落とすわけにはいきませんからね。こちらも本気で臨むとしましょうか」
街を見下ろしながら、ディアボロはうすらと笑う。それはまさに悪魔にふさわしい、喜悦と狂気を内包したものだった。
パチンと指を鳴らす。風が吹く。それは、ディアボロが体から放出した莫大な魔力に起因するもの。普通の人間たちはこの時点で目を覚まし、けれどその強烈な圧にすくみ上る。体が言うことを聞かず、中には粗相をしてしまうものもいた。
街のあちこちで広がる恐怖と絶望の感情に舌なめずりするディアボロが大きく両腕を広げる。その先、ライオネス領都の空を覆いつくすほどの巨大な魔方陣が出現した。
血のように赤いそれが、空を塗りつぶす。降りしきる雪が、赤く輝く。
まるで、空が血を流しているかのようだった。
「さぁ、始めましょう。せいぜい踊り狂ってください」
慇懃な礼をしたディアボロの姿がそこから消える。
それと同時に、空に無数の魔物が出現して地上へと落下していった。
魔王軍四天王が一人【暗澹】のディアボロ。彼は空間魔法を得意とする唯一といって差し支えない悪魔だった。
悪魔としての優れた魔法能力を軽く超越し、ディアボロは神にも等しい領域へとその指をかけていた。
――何を隠そう、異界の魔法がこの世界に来ることができたのは、悪魔ディアボロの空間魔法を用いたからだった。
世界さえ渡るディアボロの空間魔法にあらがえる街など存在しない。どれほど強い魔物であろうと、彼の空間魔法で移動できないはずがない。
空から降るのは、無数の魔物たち。ただ、それらは正確には魔物ではなく「魔族」。
魔物の進化個体、特殊発現個体、イレギュラー個体。呼び方はいろいろあるだろうか、端的に言えば魔物の上位の存在。
優れた知能と高い戦闘能力を有する怪物たち。とりわけ同種族の中で切磋琢磨し、他者の肉を食らい血を啜って生きてきた怪物たちは歴戦の猛者と呼んでふさわしい能力を有していた。
そんな魔王軍の奥の手たる魔族――その部隊が、領都に投下された。
イレイナは、ディアボロが空間魔法によって領都の上空に現れたその時から、その存在に気付いて目を覚ましていた。
素早く近くに置いてあった装備を身に着け、荷物を背負う。すでにいつ旅立っても大丈夫なように用意していただけあって、イレイナの用意は迅速だった。
けれど、悪魔の魔法発動のほうがイレイナよりも早かった。
離れの窓から顔をのぞかせたイレイナの瞳に、街の上空を埋め尽くすほど巨大な魔方陣が映る。そして、そこから生み出されるように魔族たちが現れ、地上へと落下していった。
かつて悪魔ディアボロが同じ方法でこの街を襲撃したとき、魔方陣によって上空に放り出された魔物の半数ほどが、落下とともに重傷を負うか命を散らした。その巨体をもって噴石のように家屋を押しつぶすだけにとどまった。
それでも十分な被害をもたらしたが、今回はその比ではなかった。
空中に放り出されたのは、そのどれもが魔族たち。高い知能を有する彼らは即座に己が置かれた状況を把握し、ディアボロに内心で罵倒を飛ばしながらそれぞれに着地準備に入った。
ある魔族は魔法を発動して衝撃を吸収し、ある魔族は振りかぶったこぶしで家屋ごと地面を粉砕することでクッションを作り、またある魔族はその体に生える触手を伸ばして地面に触れ、ゆっくりと地上に降り立った。
魔族たちは、ただの一体たりとも重傷を負うことなく地上に降り立っていく。その数は瞬く間に百を突破し、千に至ろうとしていた。
着地するためだけに、無数の家屋が吹き飛ぶ。木製の家が燃え上がり、炎が周囲へと広がっていく。
クッション代わりの瀑布が街を飲み込む。
雷撃が、毒混じりのエアクッションが、街を、人を襲う。
ようやくディアボロの威圧から解放された住民は、我を忘れて逃走を開始した。
押し合いへし合い、互いの腕がぶつかろうが肘が誰かの脇腹に刺さろうが、足を強く踏みつけようが気にすることなく、少しでも魔族から遠ざかろうと走り始める。
狭い通りは瞬く間に人で埋まり、「退け」という罵声が飛び交う。
逃げる先にも、魔族はいる。前方の者たちは目の前にいる魔族から逃れようと足を止めるが、背後から続く住民は魔族に気付かない。あるいは気づいてもさらに背後から押される。
倒れこみ、押しつぶされ、人の下敷きになって圧迫死するものが現れる。動きが止まった人の山に、魔族が攻撃を放つ。
むせかえるような血のにおいが、煙のにおいが、酸や毒のにおいが、街のあちこちで立ち上る。
逃げ惑う人たちを見下ろしながら、イレイナは表情を消して屋根の上を走る。
以前の襲撃を乗り越えた家屋の一つ、その屋根の上に葺かれた瓦を拾い上げ、全力で投擲する。
ナイフの代わりに投げられたそれはもろく、空中で砕けながらもまっすぐに飛翔する。割れた切っ先が、魔族の一体の頭部を強襲する。
雑魚の代表ともいわれるゴブリン。その中でも高い知性を得て魔法の才能を開花させたゴブリンメイジは炎の魔法で住民を焼いていたが、次の瞬間には頭部が爆ぜて絶命した。
屋根の上からイレイナは次々と魔族たちを倒していく。確かに魔族は強い。通常の魔物と比較すれば格が違う。そして最も特徴的なのは魔族の容姿だ。
魔族は、通常の魔物よりもそろって人間へと見た目が近づいている。背格好が似て、二足歩行が似て、腕が二本あることが似て――そういうガワだけが、まるで人間を参考するように決まった形になる。
遠くから見れば、魔族たちの姿は人間を襲っている人間のようにしか見えない。その光景を見た人間はその狂気的な光景に一層恐怖し、思考停止に陥る。
暗がりの中で魔族の姿も目撃しても、一目では人間ではないと判断できない。けれど、魔族はただの魔物だったころに由来する高性能な嗅覚や聴覚、視覚を有しており、相手が人間が魔族かを一瞬で看破する。そうして、魔族は一方的に攻撃し、戦える兵士は瞬く間に数を減らす。
けれど、観察眼はイレイナの専売特許だ。もとから斥候として多くの修羅場を潜り抜けてきたイレイナの洞察力は魔族が及ぶようなレベルではない。
能力が上昇した今となっては、煙る空気の先一キロくらいであれば詳細に魔物を把握できるようになっていた。
そうして、イレイナは走りながら魔族を減らしていく。時には落下する個体を、あるいは上空に現れたばかりの魔族を狙い撃ちすることでその数を減らす。
空に光る魔方陣から魔族が現れるまでの三十分、イレイナはただひたすら防戦を続けることとなった。




