76夜半の逢瀬
布団に入ってから、もうどれくらいの時間が経っただろう。
眠ろうとするほどに目は冴えてしまい、体が寝ることを拒んでいるようだった。
こうして実家の柔らかな布団の中にあると、最近の激動の日々がまるで幻だったように思えてくる。
私、スラシャ・ライオネスにとって、ここ最近の出来事は劇的で、鮮烈で、そして苦難ばかりの道だった。
騎士たちに守られながら、勇者レオニードから逃げる道を選んだ。そのことに、公開しない夜はなかった。
あの日私が逃げていなければ、私を守って騎士たちが死ぬことはなかった。そうすれば、悪魔に襲撃されたこの街の被害は、もっと小さく抑えられたかもしれない。私がこの場に残っていれば、一人でも多くの人を救えたかもしれない。勇者様が愛だとかそういったもので限界を超え、悪魔を打ち滅ぼしてくれたかもしれない……さすがに、それはない。私の中にあった勇者様への幻想は、すでに粉々に打ち砕かれてしまっている。
私は、逃げた。魔物に追われ、騎士を殺され、それでも逃げた。その先には、絶望しか待っていないはずだった。
なんの因果か、私はアレイン様のもとへとたどり着いた。それが本当に悪魔の魔法に巻き込まれたからなのかは、今でもわかっていない。運命だと、そんな言葉で自分をごまかしても問題はないだろう。
大事なのは、私は騎士に守られて、導かれるようにしてアレイン様に出会ったということ。そして、アレイン様とともに、勇者パーティの元メンバーであるイレイナ様とネスト様に出会えたこと。それだけが、すべてだった。
ああ、そうなのだ。私には、戦う力などない。私という人間の手はひどくちっぽけで、単純な力で言えば平民の女性にだって劣る。ひょっとしたら、私より幼い少女にだって及ばないかもしれない。
私は無力で、弱者だった。どうしようもなく弱くて、それでも街を、民を守るためには力が必要で。
だから、力を持った他者の存在を求めた。それなのに、対価を渋って逃げ出した。勇者様の要求を拒んだ。
そんな私は、再び、今度はイレイナ様やネスト様、ベルコット様を搾取しようとしている。アレイン様にただ守られていようとしている。
魔王との戦いから逃げだして、街に残る決断をした。そのこと自体が間違っているとは思わない。むしろ正しい選択だ。だって、私が魔王のところに向かっても何もできない。
それどころか、イレイナ様たちの足をひっぱるのがおちだった。
私は無力だ。私には戦う力がない。民を守ることができない。
無力で、弱者で、それなのに平穏を求める愚者だ。こんな私を、私は許せない――
目は冴えわたるばかりで、このままベッドの中にいたら、ベッドで眠るということにさえ拒否感を抱くようになってしまいそうだった。安穏の眠る私を、許せなくなりそうだった。
気分を変えようと、動くことにした。何かをしなければ、落ち着ける気がしなかった。
ネグリジェの上から一枚羽織って部屋の外に出る。すでに廊下の明かりは消えていて、黒々とした闇が広がっていた。
どこまでも続くように錯覚する廊下を一人歩きだす。手に持った魔法ランプを掲げれば、闇はその姿をあらわにする。
こんな、光のようになりたかった。絶望に沈む民を救いたいと、魔物や魔王という脅威におびえる人々を救いたいと、そう思っていた。
けれど、私にそんな力はなかった。
けれど、私には力があると、成果があると、父は語った。イレイナ様方と人脈を作ったことが大きな成果だと、そう告げた。
そうしてパイプをつないで、民を守る。弱い私には、そうすることしかできない。それしかできない。戦いを他人に任せて、自分は安全なところに引きこもる。
本当に、それでいいの……?
答えは見つからない。何しろ私の心は「よくない」と叫んでいるのだから。
「……眠れないの?」
キッチンの水桶のところに向かえば、その闇の中には先客がいた。料理人が腰を据えるための丸椅子に座って闇の中で水を飲んでいたのはアレイン様だった。
魔法ランプの明かりを反射する青い髪が闇の中に浮かび上がる。涼しい色合いの瞳が、気づかわしげに私を見る。
「アレイン様も眠れないのですか?」
出で口を覆うように持っているグラスを軽く揺らす。微苦笑を浮かべて、グラスに口をつける。やけ酒をしているときの父みたいな動きだったけれど、アルコールの匂いはしない。
「まあ、そうだな。眠れない。ここは戦場ではないと、そうわかっているつもりなんだけどな」
戦いの高揚が抜けないんだ。困ったように、アレイン様は告げる。
その腰には刀が提げられている。ベルコット様から押し付けるように渡されたドラゴン製の防具まで身に着けていて、完全武装だった。
あぁ、そうか。アレイン様にとって、この旅は“初めての旅”なのだ。悪魔サキュバスの後遺症で尽き欠けていた余命を取り戻すために、彼女は記憶を、経験を失った。
知識はあって、技は体が覚えていて、けれどどうしようもなく、今のアレイン様は幼かった。経験が足りていなかった。
「……私も、眠れそうにないんです」
「そう、だよな」
「はい」
近くにあった木のカップをもって、杓で水桶から水をすくう。冬の冷気で冷え切った水はひどく冷たい。休息に、高揚していた気持ちが冷めていく。
「……幼いころ、自分は何物にも慣れると思っていました。貴族の令嬢という立場は変えられなくても、その立場は、あらゆることに手を伸ばすことができる恵まれたものでした」
私の前にはたくさんの選択肢があった。ライオネス家を守るために、剣や魔法を収めること。優秀な武家の人と家のつながりを持つことができるように、令嬢に求められるすべてを収めて、型にはまった人生を送ること。薬師として人を助ける力を身に着けること。王女殿下や王妃陛下の使用人になり、国に意見できる立場に収まって国のかじを取ること。
たくさんの選択肢の中から、私はありふれた貴族令嬢としての道を選んだ。娘が平穏に生きることを両親が求めていたからであり、自分に、民を守ろうだとかいう思いが希薄だったことも影響していた。
結局、私は選択肢を間違えたのだと思う。だから、今こうしてここで、無力感に苦悩することになっている。
「剣を握っておけばよかったと、何度も後悔しました。魔法を身に着けていれば守れた命があったのにと、絶望したこともありました。みんな、私を守って、私を助けて死んでいくんです。無事でよかったと、そう笑いながら血だまりに倒れるんです」
「……力、か」
そう、力だ。私は、今になって力を求めていた。夫より強い女性は嫌われる――そんな習慣にとらわれて、私は努力をしてこなかった。女性が強くなることが、悪いことのはずがないのに。
「私には力はなくて、そして今更力を求めたところで、目指す頂にはたどり着けません。アレイン様やイレイナ様のようにはなれません。だから、守るために、あらゆる手を尽くすと、そう誓いました。そうしなければ、私のために命を散らした人達が報われない……っ」
私のために死んでいってしまった人たちのためにも、その人たちの帰りを待っていた民のためにも、私は戦わないといけない。私の戦場で、手を尽くさないといけない。それが、私の戦い。
――それでも、自分の手で敵を打ち払いたいと、迫る魔の手を、己の手で防ぎたいと、そう思うのは望みすぎなのだろうか。
テーブルに置かれたグラスが小さく音を立てる。テーブルに肘をつき、天井を見上げながらアレイン様は小さく息を吐く。白い息は、すぐに闇に紛れて見えなくなる。
「私は、生まれながらに武器を取った人間だ。今のこの私だって、昔の私だって、たぶん変わらない。生まれた時から武器がそばにあって、戦うのが当たり前で、戦い続けて、勝って、負けて、今、ここにいる」
アレイン様は、負けた。悪魔に負けて、死にかけた。私も、死にかけた。
死ななかったのは、イレイナ様が間に合ったからだった。
「私とて、力を求めている。もっと、もっとと、際限なく手を伸ばして、けれどどれだけ強くなったところで、私の体にはこの小さな手しかない。二本の手では、どうやったところで世界中に救いの手を伸ばすことは不可能だ。力があったところで、どうにもならない未来がある」
どうすればいいんだろうな――誰へともなく告げたアレイン様は、立ち上がって壁へと向かう。窓を開く。そこには、闇に沈む街が広がっていく。私が守るべき街。ライオネス領の、街の一つ。
「……私は、さ。限界を感じていたんだと思う。剣聖の娘だなんだともてはやされて、けれど勇者には選ばれない。なまじ幼いころから祖父の剣をすぐそばで見てきたせいで目が鍛えられてしまって、いやというほど自分の才能のなさがわかってしまう。己の限界があることが、理解できてしまう。その壁を、乗り越えられないことがわかってしまう。……だから私は、あんなところにいたんじゃないか?」
人目を忍ぶように、逃げるように、森の中にいた。私と出会ったアレイン様が、あの場所にいた理由。
それが正しいかは、わからない。それらはすべて、記憶を失った今のアレイン様が積み重ねた考察だ。記憶を持たない彼女に、かつての彼女を完璧に推し量ることはできない。
それでも――彼女は告げる。夜の闇の先へと、手を伸ばして。つかんだ手を開いて、その中に何も握れていないことを確かめてから、くるりと私のほうに振り返って、闇の中の街を背負って両手を広げる。
「それでも、この手が届く距離に救える人が、救うべき人がいるのなら、私はこれからも刀を振るう。そうやって、生きていくんだ」
それは、今のアレイン様の、人生の方針。その手が届く範囲にいる人を救う。届かない者の死を嘆くのではなく、届く者を守り続ける。
「私は、スラシャ殿を守るために、そして逆境に立たされながらも絶望に足を止めることなく生き続ける尊いこの街の人を守るために、ここへ残るんだ」
「私も、守ります。この街を、民を……アレイン様を」
お互いに頑張ろう――アレイン様がこぶしを突き出す。
その拳に、固く握った拳を軽くぶつける。
ニッとアレイン様が笑う。
私も、覚悟を決めて笑みを浮かべる。貴族の仮面を、身に着ける。
この手が届く範囲で――ああ、それは確かに現実的な選択肢だった。
けれど、手が届くならば救えるというのは傲慢だった。
私には力がない。アレイン様でさえ、力が足りないという。
であれば、もし手に追えない怪物が襲い掛かってきたら――
強い風が、外からキッチンの中に吹き込む。冷たい風。それは、風が冷えているというわけではなく、風を浴びた私たちの心に冷や水を浴びせるような、背筋に寒気を走らせるような、そんなおぞましさをはらんでいたという意味。
ライオネスの街に、不吉な風が吹く。
その風と共に、空に淡い光が浮かび上がった。
もつれる足脚で、窓際に向かう。その先、空で形を成していく幾何学模様に、体が震える。心が、悲鳴を上げる。
「魔法陣……」
唇をわななかせ、のどから絞り出すように告げる。
それは、絶望の再来を告げるものだった。




