75闇の中で
夜に沈む町には、しんしんと雪が降り続けていた。
故郷の山間ではあまり雪が降ることはなかったため、その景色はとても新鮮で、少しだけ高揚する自分がいた。
レオニードと旅をしていた間、当然だけれど僕たちの活動範囲は主に大陸中部から北部にかけてだった。北一帯を魔王に支配され、その地域は他とは比べてたくさんの魔物の存在があった。ゆえに北の地は魔王軍という驚異に加えて、統率も何もない魔物たちによる襲撃の危機をも抱えていた。
大量の魔物たちはなわばりを争い、敗北した手負いの魔物が断続的に街を襲う。
分厚い外壁を持った大都市はその魔物の脅威に耐え続けることができた。けれど村はそうはいかなかった。ただでさえ寒さが厳しい中、短いあたたかな間に必死になって農作業をしても魔物に踏み荒らされ、あるいは人的な被害も出た。
そんな村を回ることも、僕たちの仕事だった。
雪が降り始めると、村人が村の外に出ることはほとんどなくなる。雪の積もった道を進むというのはひどく困難かつ大きな危険をはらんでいた。村の間を行き来する行商だって命あっての物種で、多くのものは冬には大都市にとどまる。そういった商人に高額の報酬を払うことで各地の村に不足物資を届けるのが冬の領主の仕事だった。
冬の間に移動する商人たちに同行して村の間の行き来した経験はそれなりにある。雪が積もった街道を、オオカミにそりを引かせて進む。足がとられる場所では馬は役に立たなくて、普通の荷馬車では新雪に車輪がとられて動かなくなる。そうして手ひどい失敗をしたのも、今はもうずいぶんと昔のことだ。
新雪を踏みしめ、荷物を引きずりながら歩いた。銀世界は美しくて、そしてそれは残酷なまでに厳しい環境だった。
あの銀世界と違って、雪が積もった街には温かみがある。人の営みがある。人の活動によって、街に熱がかよっているのとを感じていた。
あの日見た、どこまでも白一生の悪夢のような世界。それを思い出しながらも、僕は落ち着いて作業を進めていた。
離れの外、騎士たちが詰め所として使っている建物の横に僕はいた。
吹き付ける寒風にかじかむ手で湿った布を握り、虚空から読みだした竜滅剣を吹いていく。いや、それに液体をしみこませていく。
立ち込めるのは血の匂い。凝固防止剤を入れられたドラゴンの血を含ませた布で、僕は何度も剣を拭く。
竜滅剣はドラゴンを滅ぼすための剣だ。その方法は、ドラゴンの力を利用することによる。
昔から、ドラゴンの体は霊薬あるいは神薬の素材になるといわれてきた。幻獣にして世界最強の生物、ドラゴン。その神秘性を求める者は多く、けれどドラゴンはその牙をもって、爪によって、ブレスや魔法を使って、襲い来る者たちを滅ぼした。
それでも、人はあきらめなかった。
不治の病に侵された家族を救うために、己を救うために、たくさんの者がドラゴンを求めた。その血肉を、臓器を、骨を。
さらなる力を求める戦士が、ドラゴンの骨を、爪を、牙を求めた。
魔女が、己の研究を完成させるためにドラゴンの心臓を、眼を、血を求めた。
その果てに、人は得物の切っ先をドラゴンに届かせた。
それこそが竜滅剣。それこそが、竜を殺すための剣。
切ったドラゴンの力の一部を吸収することでドラゴン殺しをなす武器。
それを万全にするためには、ドラゴンの力を取り込ませる必要があるということだった。
だから、僕はドラゴンの血で刃を濡らす。その血に宿るドラゴンの力を剣に込めていく。
たった十数秒、その強化によって、剣に宿っていた竜神の力は尽きた。それでいて、僕はドラゴンを殺せなかった。
これから、ドラゴンを超える敵が出てくるのは確実と思われた。魔王という正体不明の敵に、僕たちは勝利しないといけない。
本当に、勝利しないといけないのだろうか?僕たちが戦う意味がどこにある?
それは、常に僕の中にあった疑問だった。
レオニードは、勇者だから魔王を殺すといった。
イレイナは、精霊に頼まれて魔王討伐を目指して動き出した。
じゃあ、僕は?僕は、ただ流されるままに二人についていっているだけだ。今も、昔も。
僕が旅に同行する理由が、ないわけではない。
旅の中、見たくないものを山ほど見た。悲劇が悲劇と思えぬほどに量産された、そんな地獄を見てきた。人の悪意よりも何倍もおぞましい悪魔の暴虐を見た。死んでいく戦士を、市民を見届けた。
彼らのためにも、戦わないといけない。この戦いを終わらせないといけない。
――そんな正義感で動けるほど、僕は強い人間じゃない。
そもそもイレイナだって、別にこうして己の命をなげうつように過酷な戦いをする必要なんてないはずなのだ。精霊に頼まれたからどうしたというのだろう。精霊や幻獣に倒せない存在をただの人が倒そうとすることに無理があるんだ。そんなもの、次の勇者にでも任せておけばいいんだ。
ああ、そうだ。
僕はただ、イレイナに死んでほしくない。それだけだった。
だから心の中で女々しく、戦わなくていい理由を探していた。イレイナがこれ以上危険に飛び込む必要はないんじゃないかと考えていた。イレイナを守らないといけないと思って、僕がイレイナの代わりになれたらと考えて、イレイナの刃として活躍することを望んだ。
だから、僕は今ここにいる。寒空の下、こうして竜滅剣の手入れをしている。
壁に背中を預け、地面に直に座って胡坐をかいた足の上に剣をのせて、血で拭き続ける。
視界を雪がちらつく。町の明かりを反射してきらめく降り積もった雪は幻想的だった。この景色が、けれどいつ消滅してもわからない状況にあるとは信じられなかった。あるいは、そんな儚さを内包しているからこそその景色が心に響くのだろうか。
僕たちが魔王に勝てなければ、たぶんこの町は消える。この街にはもう、これ以上戦い続ける力はない。住民はすでに心が折れかけていて、度重なる襲撃に疲労がたまっていて、物資だって従前とはいいがたい。
だからこそ、彼らはやってきた僕たちを歓迎した。ドラゴンを倒した英雄が、魔王をも倒してくれることを期待しながら。
足音が聞こえた。誰か、顔を上げなくてもわかる。
「まだやっていたんですか?」
あきれをにじませた声でベルコットが告げる。じっと僕を見下ろす彼女のせいで手元に影が落ちる。繊細な作業ではないけれど、手元が暗くなるのは都合が悪かった。
顔を上げれば、ベルコットはわずかに目を細め、それから無言で僕の隣に並んで座った。
露出した石畳に直で腰を下ろし、冷たい、と文句を言う。
「……寒いですね」
「外套の要求?」
「それもありますけれど、別に奪うつもりはありませんよ。……一緒に使いましょう?」
にやりと笑うベルコットだけれど、その頬や耳は赤い。それはきっと、寒さのせいだけではなかった。
「……ほら」
外套の袖から片腕を抜いてベルコットへと伸ばす。内側に鎧なんかを着た状態でも使えるようにかなり大きめに作ってあるそれは、ぴったりと寄り添えば人二人を包み込むのに十分な大きさをしていた。
足を組み替え、剣を立てた膝で支えるように持つ。
僕の片腕に密着して、ベルコットが抱き着いてくる。
「……寒い」
「それなら部屋の中に入ればいいのに。……イレイナはもう寝ているの?」
「夜遊びのお誘いですか?」
「……違うよ」
からかうように告げるベルコット。見上げてのぞき込むように僕を見てくるその瞳は思っていたよりもずっと近くにあって、心臓が強く鼓動を刻んだ。
くすくすと笑ったベルコットだけど、すぐに気落ちしたように溜息をもらす。
「あーあ。せっかくイレイナが早く寝てしまって、チャンスだと思ったんですけどね。ネストさんがなびかないんじゃ意味がないですよね」
「僕は二人の女性を愛せるほど要領がいいわけでも器が大きいわけでもないんだよ」
「勇者の仲間……英雄でも、ですか?」
「僕は英雄じゃないよ」
そう。僕は英雄じゃない。レオニードのパーティに入っていたのだって、彼が幼馴染だったからに過ぎない。もしレオニードが勇者になっていなければ、レオニードと仲良くなければ、僕はきっと今でも、あの故郷の村で、魔王の脅威など知らずにのんびり過ごしていたんじゃないかと思う。たまに村の近くで目撃する弱い魔物に決死の覚悟で戦いを挑んだり、降水量で一喜一憂して、嵐から作物を守るために奔走して――そんな日常を送っていたんじゃないかと思う。
父のようなその人生が悪いものだとは思わない。むしろ、今となっては心から尊いものだと思える。
けれどあの日、僕が村を発ってレオニードともに旅をすることにしたのは、きっとそんな平凡な農家の父のようにはなりたくないと思ったから。そんな平穏な人生が、どれだけの人の活躍があって成り立っているのか、どれだけの人は、その平凡を求めて血を流してきたか、その意味をかつての僕は知らなかったのだ。
旅の中、戦いの中、僕は嫌というほど思い知らされた。
日常というものの尊さを、平凡な人生というものの偉大さを。
あの日、道を踏み外した僕は、一度は平穏な日々を過ごし、けれど気づけばまた、こうして最前線に戻ってきていた。
「平穏な日々、か」
「突然どうしたんですか?」
「何でもないよ」
何でもないようには見えませんよ――答えを言うまで逃がさないとばかりに睨むベルコットから視線を外し、僕は竜滅剣を血で濡らす作業に戻る。ベルコットもまた、僕の手元へと視線を向け、今更血の匂いに気付いたのか、盛大に顔をしかめて見せる。
平穏な、日常。料理音痴なイレイナの壊滅料理をどうにかしようと模索し、胃痛に悩まされながら過ごしたあの日々は、宝物のような時間だった。僕が望んでいた日常だった。
あの日々は、他の誰かから見れば平凡とも平穏とも言い難いものだっただろう。僕だって、そう思っていた。毎日が文字通り刺激的で、変わらない日々に飽きることはなかった。
あの日々を愛していた。あの日々が、今の僕の日常だった。
僕がいて、イレイナがいて。その生活に、気づけばベルコットがいることが当たり前になっていた。
隣にいる彼女に一瞬だけ目を向ける。僕の腕に頭を預けた彼女は、じっと僕の手を見ている。竜滅剣を触るその手を、じっと見ている。
右腕を通じて、ぬくもりが僕の体を温めていく。僕の心に、熱がしみこむ。
ずいぶん冷えていた体は、けれど気づけば寒さを感じることはなくなっていた。
「……私は、今、すごく楽しいんです」
「戦い、好きだっけ?」
「わかってますよね?私が楽しいと言っているのは、あの町の、あの家での日々ですよ。冒険者組合の受付嬢なんて立場では想像もできなかったこの日々が、心から愛おしいと思います。ずっと続けばいいと、思っていました」
それが過去形なのは、この魔王との戦いでどうしようもなく形をゆがめてしまったといいたいのか、あるいは。
「人と人の関係なんて、すぐに変わっていきます。変わって、しまうんです。……私の居場所は、まだあの拠点に……ネストさんの隣に、ありますか?」
「…………」
僕は、それにこたえられない。今、そんな言葉を言うわけにはいかない。
ベルコットだってわかっていた。だって、先ほどその質問に対する答えになりうることを、僕はすでに口に出していたんだから。
僕は、二人を愛せるほど要領のいい人間じゃないんだ。
「……意気地なし」
ぼそりとつぶやいたベルコットが勢いよく立ち上がる。
めくれ上がった外套の隙間に風が吹き込み、一瞬にして体が冷え切った。
視界に、影が落ちる。柔らかな髪が僕の頬を撫でた。
「……死なないで、下さいよ」
精一杯に笑みを浮かべたベルコットの顔がすぐ目の前にあった。額にはまだ、熱が残っていた。
つややかな唇を指で軽く撫でた彼女は、恥ずかしそうにうつむき、足早に歩き去っていく。
闇の向こうにその姿が消えてもまだ、僕は動き出すこともできずにそこにいた。
どれくらいそうしていただろうか。
気づけば雪は一層激しく降っていて、体は大きく震えた。
全身に寒さがしみこんでしまったようだった。手が動かなかった。ドラゴンの血も、凍ってしまっていた。
血の入った瓶のふたを閉じる。凍ってぱりぱりになった古布を握り、剣を虚空に戻す。
立ち上がり、小さく伸びをして。
僕は明日への一歩を踏み出した。




