73ライオネス領の夜明け
ライオネス侯爵直々に案内されて、イレイナたちは半分ほど崩壊した侯爵邸宅にお邪魔することになった。すっかり夜は更けていて、けれど魔王軍に与していたドラゴンの討伐という被災ぶりの明るいニュースに、町は今なお大いに盛り上がっていた。
あちこちで笑い声が響き、酒瓶を注いだグラスをぶつけ合う音が響く。酒に酔った者たちの陽気な歌が聞こえてきて、それに合わせて楽器が旋律を奏でる。魔法具の明かりがあちこちで光り、町はまるで眠る気配を見せていなかった。
ドラゴン素材の一部を入れた大きな革袋を肩に担いだイレイナを先頭に、ネストたちはライオネス侯爵邸宅に足を踏み入れた。
本館こそ大部分が魔物との戦いで壊れてしまっていたが、離れや使用人用の居住は無事で、イレイナたちは小さな――といっても男爵家が抱える本邸宅くらいの大きさはある――離れに案内された。
素朴ながらに味のある木造建築。落ち着いた居心地のいい部屋に案内されたイレイナは、沈むように柔らかなベッドに座り、そうして気づけば深い眠りに落ちていた。
それはネストやベルコット、アレイン、そしてスラシャも同じだった。
久しぶりに家に帰ってきたことに心から安堵したスラシャは誰よりもぐっすり眠り、だからこそまだ夜が明ける前にすっと目を覚ました。
「ふぁ……ああ、帰ってきたのでしたね」
軽く体を伸ばし、それから着の身着のまま眠ってしまっていたことを少し恥ずかしく思いながら部屋に用意されていた衣服に着替える。久しぶりに身を包んだ令嬢らしい服は、けれど今のスラシャには少しばかりきつかった。厳しい旅の中で全身に筋肉がつき、特に二の腕あたりが窮屈だった。腹部もまた筋肉がついたことによって一回りほど胴囲が大きくなっていて、その逆に胸元は少しゆるいように思えた。
勝手知ったる離れの中を歩き、現在父が寝泊まりをしているという離れの一階の奥にある執務室へと足を運ぶ。執務室とっても、そこはもともと書庫であり、無数の本棚とそれを埋め尽くすほどの本が並ぶ場所だった。その一角に机とベッドと用意して寝泊まりをしているというライオネス侯爵は、まだ外が暗いにも関わらず仕事をしていた。
「……お父様、もしかしてお休みになっていないのですか?」
「ああ、この好機を逃すわけにはいかないからね。町に活気が戻っている今のうちに防衛体制を構築しなおさないといけない。ドラゴンとの戦いの余波で崩れた外壁を補修して、あとは仮の家屋で暮らしている者たちが冬を越せるように備蓄を増やさないといけない。特に今年は例年以上に雪が多いようだからね。薪と毛皮が全く足りていないんだ」
「何か、できることはありますか?」
その声ににじむ苦悩を聞き取って、ライオネス侯爵はようやく顔を上げて娘の顔を見る。無力感をかみしめるように苦い表情をしているスラシャ。強く握られたこぶしは小さく震えていた。
ライオネス侯爵は町からドラゴンとの戦いを見ていた。グリフォンに乗って空をかけるイレイナの姿は、強く心に響くものがあった。これこそが英雄――脳裏に浮かぶ勇者(愚者)と多比しながら、かみしめるように考えた。そして、流星のように走るネストを、ドラゴンを仕留めたアレインを、弱いながらに自分のできることを精一杯にやっていたベルコットの行動を見ていた。
そんな中、娘のスラシャが遠くの岩陰に身をひそめることしかできていなかったことも、彼は見ていた。
ドラゴンを前にして逃げださなかっただけで十分だ――喉を出かかった励ましを飲み込む。そんな言葉を望んでいるわけではないことくらいは分かった。
代わりに、どうしようもなくため息が漏れた。
「……スラシャ、君は自分がどういう人間かわかっているかな?」
「私は……私が、どういう人間か、ですか?」
「そうだ。君の立場と表現してもいい」
「私は、貴族ですわ。スラシャ・ライオネス。いずれ婿を取ってこのライオネス家を守っていく人間です」
「そうだ。つまり、スラシャがなすべきは、考えるべきは、どうやってこの町を守っていくかということだ。確かにスラシャにはドラゴンを相手に活躍できるような力はない。それは私も同じだ。だが、戦闘能力がないからと何もしないわけにはいかない」
さらさらとペンを走らせたライオネスは近くに控えていた部下に書類を手渡し、改めてスラシャを見る。その目に宿る覚悟に、スラシャは息をのむ。
「私は、私たちは貴族だ。民を守る者であり、貴族だからこそ、できることがある。守るための戦力を鍛えること、大陸有数の英雄とつながりを持つこと、いざというときに住民を救えるための手段を模索し続けること。……ここが、私たちの戦場なんだよ」
書類の束を手にもって指ではじく。
「ここが、戦場」
「そうだ。ここが、私たちの戦う場所だ。民を守る方法は一つじゃない。武力以外が求めらえることがある。武力が求められることもある。そういう時に、民を守る者。それこそが、貴族というものだ」
だからこそ、スラシャはよくやったよ――目じりを下げて、ライオネスは娘を心から称賛する。立派になったと、どこかまぶしそうにしながら。
「……私は、何もしていません。何も、できていません」
「いいや。こうしてイレイナ様方をお連れしたことそのものが、スラシャの功績だ。もしその功績を負担に感じるのなら、これからもつながりを保つための努力をしなさい。少なくとも、私はスラシャがつないだ人の輪を大きな成果だと思っているよ」
精進しなさい。そう告げて、ライオネスは何を言うこともなく再び書類に視線を落とす。それは、彼なりの気遣いだった。
強くこぶしを握りながら、スラシャは天井にあるシャンデリア型の魔法具の明かりに目を細める。視界はにじみ、光が世界にあふれていた。
頬を、涙が伝う。
その涙は、ひどく温かかった。
外は少しずつ白み始めていく。町のどこかで起きだした人々が、新しい日を生きるために動き出す。
ライオネス侯爵家の敷地の端にある、雪が積もった訓練場。その中央で動き続けるイレイナのところで、壮年の騎士がゆっくりと近づいていく。
「……精が出ますね」
「早くに目が覚めてしまったもの。それにドラゴンの肉のせいか、どうにも体が動かしたかったから使わせてもらっているわ」
「ご自由にお使いください。英雄様方に使っていただければ、この訓練場にも箔がつくというものです」
言いながら、イレイナは鋭くナイフをふるう。その先、はらはらと振っていた雪が吹き飛ばされる。
風を切り裂く鋭い音。いつから訓練を続けていたのか、イレイナの体はひどく熱を帯び、汗が頬を伝って襟ぐりを濡らしていた。吐く息は真っ白で、その息も次の力強い動作によって一瞬でかき消される。
「……フッ」
鋭い呼吸とともに連撃が振るわれる。流れるように動き続けるイレイナは時折雪で足を滑らせそうになりながらも広い訓練場で動き続ける。
その様子をじっと見ていた壮年の騎士もまた、訓練場の端で剣を振り始める。肉体はすでに全盛期をとっくに過ぎており、けれど積み重ねた時間がもたらす動きはさらにさえわたっていた。
驚きに目を見張り、確認するように訓練の型をなぞる。そうして、彼は違和感の通り、やけに体が動くことに気づいた。
「これもドラゴン肉のおかげなのでしょうかね」
イレイナの言葉を思い出し、同時に昨日食べたドラゴン肉の甘い油の味が口の中によみがえる。途端につばがあふれ、ごくりと喉を鳴らす。
首を振って雑念を追い払った壮年の騎士はそれから朝食の時間になるまで剣をふるい続けた。




