45燻製
魔物相手に無双して心を静めたイレイナが返ってきたのは実に一時間後のこと。
その体は魔物の返り血で真っ赤に染まっていて、血の奥で爛々と輝く空色の瞳には、けれど先ほどまでの剣呑さはなかった。
赤髪は血で一層赤黒く染まり、イレイナはわずかないら立ちを見せながら髪を水で洗う。ただ、持ってきた少量の水で洗い流せるような汚れではなく、イレイナは血生臭さに耐える必要があった。
「……それで、二人は大丈夫なんですか?」
「正直わからない。サキュバスに憑かれていた青髪の人は間違いなく寿命を食われていると思う。ただ、サキュバスを殺したことによってどうなったのかわからない。ひょっとしたら寿命が戻る……かもしれない」
その曖昧な回答がすべてだった。魔物に食われた寿命がもとに戻るなんていう奇跡は、おそらくは起こらない。実際、青髪の女性――アレインは今もひどく顔色が悪く、その呼吸は浅い。体は冷たく、一瞬死体に触っているのではないかと思ったほどだった。
「なんとか、ならないんですか?」
「……寿命を延ばす薬がないわけじゃない。霊薬とか神薬と呼ばれる類だけど……でも」
「おばあちゃんやイレイナでも無理ですかね?」
「……わからない。そもそも素材が見つかるかも怪しい」
「イレイナの料理は?不味くても栄養満点な料理で寿命を延ばすなんてことは――」
「わからない。というか、イメージができない。とりあえず……燻す?」
「…………はい?」
シリアスな空気が吹き飛ぶような突拍子もない発言に、ベルコットは目を点にして首をひねる。今イレイナは何を言ったのかと、頭の中で必死に考える。
「あの、聞き間違いじゃなければ『燻す』って言いました?」
「そうだけど?煙には厄払いの効果があるから、ひょっとしたら煙でいぶすことでサキュバスの影響がなくなるかも?」
全く信じてはいなかったものの、こと料理におけるイレイナの奇想天外さをいやというほど知っているベルコットは万に一つの可能性があるのではないかと思ってしまった。
ベルコットは疲れていたのだ。突如として毒キノコ狩りに連れていかれて森の中をさまよい歩き、かと思えばイレイナが暴走し、全力の殺意を浴びせられた。
肉体的にも精神的にも疲れ果てていたベルコットが我に返ったのは、実に三十分後のこと。
「けほ、こほっ」
煙の中からせき込む音が聞こえてくる。棒にロープでぐるぐる巻きにされていぶされている青髪の女性アレインがむせる姿を見て、ようやくベルコットは正気を取り戻した。
「イレイナ、何をやっているんですか!?」
「……厄払い?」
そうだった自分は納得してしまったのだったと、ベルコットは額に手を当てて空を仰ぐ。どこまでも青い空。草原を吹き抜ける柔らかな風が頬を撫でる。
現実逃避も一瞬のこと、毒々しい煙を見て、ベルコットは慌ててアレインの救出を始めた。
全身が鉛のように重かった。体は熱を帯び、息はひどく熱い。
焼けるような痛みが腕を走る。苦悶に呻けば、意識はすぐに覚醒していく。
「……アレイン様!」
緑髪を揺らして跳ね起きたスラシャは全身の痛みと倦怠感に顔をしかめ、慌てて恩人の姿を探して。
――現在進行形でロープで棒に縛られようとしているアレインの姿を見つけた。
呆然と見つめる。何事かと肩をはねさせたベルコットは、恐る恐る背後を見る。
ベルコットは、アレインを救出してロープを外しているところだった。だが、先ほどまでアレインが燻されていたことを知らないスラシャにとって、その姿は誘拐をもくろむ犯罪者のそれだった。
「何をしているのですかッ」
まなじりを吊り上げ、義憤に叫ぶ。自分の恩人をそのような目には合わせないと、痛みを忘れたように立ち上がる。
ふらつきながらも一歩を踏み出して。けれど貧血による立ち眩みに座り込む。
「くっ……売りさばこうとでもいうのなら、彼女ではなく私にしなさい!」
その献身にベルコットはひどく慌てる。ようやくスラシャの勘違いに気づいたベルコットは蒼白になりながらも必死に言葉を重ねて誤解を解きにかかった。
「……そう、ですか。イレイナ様の凶行を止めていたと……イレイナ、様?」
自分の勘違いに気づいて羞恥に顔を赤くし、あるいは実際にアレインが狂った行為を受けていたことを知って憤るスラシャは、キッと鋭い目でイレイナをにらむ。それからふと、イレイナという名前に引っ掛かりを覚えて首をかしげる。
当のイレイナはといえば、スラシャに意識を向けることなくアレインの触診を続けていた。
冒険者として、あるいは勇者パーティの一員として各地を渡り歩いて培った経験でスラシャの状態を調べる。とはいってもイレイナは斥候であって回復魔法使いや医者、薬師というわけではない。少しだけ容体が落ち着いたということしかわからなかった。
「……あの、アレイン様は大丈夫なのでしょうか?」
「正直に言えばわからない。ただ、あまり安心できる状態ではないと思う」
そんな、と悲痛な声が漏れる。ベルコットに支えてもらいながらアレインのそばへと近寄ったスラシャは、震える手をアレインへと伸ばす。
触れた頬はひどく冷たい。小さな呼吸によってわずかに上下する胸元がなければ、本当に死んでしまっていると錯覚しそうなほどだった。
青白い顔をしたアレインは、もう悪夢にはうなされていない。サキュバスは確実に屠ることができたとイレイナは判断した。
「サキュバスは殺せたけれど、それで奪われた寿命が戻ってくるわけではないみたいね」
「……どうにかなりませんか?私の、命の恩人なのです」
「どうにかしたいところではあるけれど、奪われた寿命を取り戻すというのは容易ではないでしょうね」
「あの、それは元勇者パーティの一員としてのお言葉ですか?」
ぴたりと、動きを止めたイレイナは改めてスラシャへと目を向ける。
ウェーブのかかった長い緑の髪は輝きを失っていた。やや淡い新緑のごとき色の瞳は絶望に涙を湛える。日に焼けていない白い肌、けれど手足は傷跡だらけでここまでの旅路の過酷さをうかがわせた。
おそらくは貴族。所作ににじむ気品や口調、世間慣れしていなさそうな雰囲気からスラシャの立場を察したイレイナは、内心で面倒だと溜息を洩らした。
平民が貴族に関わるなどたいていろくなことにならない。それを、イレイナは勇者パーティ時代に嫌というほど知っていた。
やっかみ、蔑み、罵詈雑言の嵐、姦計。権力のるつぼの中に飛び込む気力もその中で泳ぎ続けることも、イレイナにはできそうになかった。
ただ、恩人のためにできることを必死に模索する目の前の女性は、あまり貴族らしくはなかった。
「……神薬か霊薬の類があれば可能性はゼロじゃないかもしれない。ただ、ゼロじゃないというだけだけれど」
「どうすれば手に入りますか?」
「…………私の知る限り、霊薬を調合できるような薬師は人間社会にはいない。ただ、エルフに伝わる神薬なら可能性はあるかもしれない」
エルフ、その言葉に驚き、けれど同時にスラシャはその目に希望を宿した。
魔王による侵攻があるまで、人間は多種族を亜人と称してさげすんでいた。とりわけ見目麗しかったエルフは悪意を持った人間に襲われ、女子どもは奴隷にされた。
先代勇者によってエルフは人類として人間と手を組むに至ったが、二つの種族を隔てる心の壁はまだ分厚い。そんな状況で神薬を求めるなど不可能だとイレイナは感じていた。
ただスラシャは違う。求める相手がエルフであること、さらには神薬を使用するのがアレインであること。アレインの立場を知っているスラシャは、運命に、先代勇者に心から感謝をささげた。
「……助けていただいたうえで恐縮ではあるのですが、私たちをエルフの国に連れて行っていただけませんか?たどり着きさえすれば、彼女を救える可能性があるのです」
「…………根拠は?」
「そのお方が、アレイン様が、先代勇者キグナス・リシェント様のお孫様でいらっしゃるからです」
驚きに目を見張ったイレイナは驚くべき速度でアレインへと視線を戻す。
キグナス・リシェント。それはイレイナの師匠でもある。かつてレオニードとともに教えを乞うた初老の男性の姿が脳裏をよぎる。
やや灰色交じりの青髪、そして肉食獣のような強い輝きを秘めた戦士のまなざし。
アレインの海の色のような深い青色の髪は、確かに先代勇者を連想させるものだった。
「……わかったわ。行きましょうか、エルフの国へ」
かつては人間から逃れるために森の奥に隠れ潜んでいたエルフたちの村、現在では唯一にして最高のエルフの国になったエアリアル国へと向かう決断を下した。
……が、旅をするというのであればまずは準備だ。
素早く片づけをしながら焼いていたキノコを食べ始める食い意地のはったイレイナとベルコット。二人を見ていたスラシャのおなかがきゅるると小さく鳴る。
「……食べますか?」
「ありがとうございます」
頬を真っ赤にしながらもベルコットからキノコを受け取ったスラシャは芳醇な森の香り漂う自然の恵みに舌鼓を打つ。ふと、視線を向けた先、毒々しいキノコを口に放り込むイレイナの姿を見てベルコットはぎょっと目をむいた。
「ああ、いちいち気にしていると身が持ちませんよ。あれはもう毒じゃありません」
「…………はぁ」
明らかに猛毒、ひとかけらで致死量に至るようなキノコを口にするイレイナと、そんな彼女になんの反応も示さないベルコット。これが勇者パーティの一員なのかと驚き、そして一抹の不安を覚えながらスラシャは食事を進めた。




