44決死の逃走
「もう少し、もう少しですからね、アレイン様!」
癖の強い緑髪を振り乱しながら、スラシャ・ライオネスは転げるように森を走る。小さな体で必死に背負っているのは、青髪の女性。蒼白に顔を染める彼女は、息も絶え絶えだった。悪夢を見ているように呻く彼女は、実際に「悪夢」に囚われていた。
アレイン・リシェント。先代勇者の孫娘である彼女は、祖父の血を色濃く受け継いだ剣術、あるいは戦闘の天才だった。だが、相性というものはある。
アレインにとって、遭遇した魔物――魔族は、絶望的に相性が悪かった。
目を覚まさないアレインは全身から汗を流し、けれどその体はひどく冷たい。
もう手遅れかもしれない――そんな絶望が、スラシャの足をもつれさせた。
下り坂、勢いがついたままの体は止まらない。転がりだしたスラシャは、けれどアレインだけは守ってみせると、彼女の体を抱き寄せる。
やぶに飛び込み、幹に体をぶつける。体のどこかの骨が折れる音がやけに大きく頭の中に響く。
痛みに息が漏れる。意識が飛びそうになって、けれどアレインをつかむその腕には一層強く力を籠める。
ここまで自分を守ってくれたアレインに恩を返すためにも、何より、心許せる友人のように思える彼女を死なせないために。
だが、ただの男爵令嬢であるスラシャにできることなどたかが知れていた。
茂みに突っ込んで落下が止まった時にはもう、スラシャは満身創痍だった。
額が切れたのか、流れる血が目に入って視界の片方が赤く染まっていた。体を支えようとした片腕は、折れていたのかひどく痛んだ。
バランスを取れずに体が前のめりに倒れる。けれどそれでも、スラシャはアレインを肩に抱いて、引きずるように歩き出す。
もう、街道まですぐ近くのはずだった。そこまで出れば商人か誰かに出会える可能性がある。それから最寄りの街に運んでもらえればアレインが助かる可能性もある。
「ぐ、っぎぃ……ッ」
痛みに苦悶の声をあげながら、一歩、また一歩、スラシャは少しずつ歩いていく。
ふと、視界がかすみ、スラシャは軽く舌を噛んで意識が飛びそうになるのをこらえて、気づいた。
意識がかすれているからだと思っていたおかしな色の霧は、確かに現実にあった。
紫や黄色、そこに赤、緑、黒などが混じった気持ちの悪い色をした霧――煙。わずかに吸い込めばひどく喉が痛んだ。
目から涙があふれる。ここにきて毒かと、スラシャは己の不運を嘆いた。
街道まであともう少し。けれど、もう、体に力が入らなかった。
少しでも距離を稼ぐべく、前のめりに倒れる。
(ごめんなさい、アレイン様――)
冷たい友人に詫びながら、彼女はゆっくりと瞳を閉じていき――意識が途切れるその瞬間、スラシャは己の視界に人影を見た気がした。
イレイナは憤怒の形相で森を疾走した。わずか数秒。たったそれだけで彼女は目的の相手のところまでたどり着いた。
倒れている血だらけの少女が二人。どちらも重症。特に緑髪の女性のほうは片腕が完全におかしな方向に曲がっていて、体のあちこちから血を流すような状態だった。
だが、イレイナが強い反応を見せたのは比較的傷の少ない青髪の女性に対して。土気色をした彼女は、呻くように浅い呼吸を繰り返す。
その姿が、記憶の中の光景に重なる。
「ッ!」
怒りを鎮めるように、大きく息を吐く。それから、カバンから取り出した薬液を相棒のナイフに塗って振り上げる。
かつて、勇者パーティは強い挫折を味わった。助けを求める少女を救えなかった。村を一つ魔物に滅ぼせなかった。
その記憶は、当時勇者パーティに所属していた三人にとって決して色あせない敗北を刻んだ。
それ以来、三人はそれぞれに模索していくことになる。ただ武器を振るうだけでは倒せない敵を倒すための方法を。
勇者レオニードは、聖剣による奥義で実体があろうがなかろうがすべてを切り裂くことを選んだ。
狂戦士ネストは、死した竜の呪いを帯びた竜殺しの剣という、非実体の敵に対してもダメージが与えられる武器を手にした。
そして、イレイナは。
様々な毒を調合し、実体のない敵にだけ強烈なダメージを与える呪いを覚えた。
それは、霊体を穿つ至高の刺突。
「霊体殺し(ファントムエッジ)ッ」
逆手で振り下ろされたナイフは、目にも止まらぬ早業で女性の胸部を貫く。だが、その刃は女性の肉を切らない。代わりに、その体に、その意識の中に潜む魔物へと刃を届かせる。
「ギャアアアアアアアアア!?」
絶叫が響く。甲高い、女の声。
その声に、その気配に、イレイナは覚えがあった。かつて遭遇し、殺したはずの敵。聖剣の錆になったはずの精神に潜むモノ(サキュバス)が、アレインの体から飛び出す。
魔族に特有の灰色の肌に、燃えるような赤髪。男を惑わす豊満な体付きに扇情的な紅のドレス。頭部には羊のような黒の巻き角が生える。
色香を帯びた黒曜石のごとき瞳は憤怒に染まり、敵の姿を探す。その目が、イレイナを捉えて。
反撃するよりも早く、イレイナによる二度目の刺突がサキュバスの体に突き刺さった。
「今度こそ、貴女はここで殺すッ」
怒気をあらわに振るわれるイレイナのナイフは目にも止まらない。人の意識の中からはじき出されると実体を得てしまうサキュバスは、体に無数の風穴を開けられる。
だが、それでもまだイレイナは止まらない。大気を焼き焦がし、暴風のごとく風を巻き起こし、血の一滴、肉のひとかけらも残るのは許さないとばかりに連撃を繰り出す。
強く、早く、鋭く――
「イレイナ!」
背後から腰に抱き疲れたイレイナが硬直する。邪魔をしてくれるなと、憤怒に焦がした目を向けられて、ベルコットはすくみ上る。だがそれでも、彼女は声を震わせながら叫ぶ。
「もう敵はいません!それよりこの人たちを助けますよ!」
ぼんやりした目で見れば、確かにそこには数メートルほどえぐれた大地があるばかりで、かつて殺し損ねた敵は姿かたちもなかった。
わずかに香る血臭はサキュバスのものか女性たちのものか。
大きく息を吐き、頬をはたいて自分を取り戻したイレイナは、手持ちにあった最高級の回復薬を二人に浴びせた。
九死に一生を得た女性たちを森の外、仮の拠点に運んだ二人は、軽く二人の体をふいて清潔にして、治りきっていない骨折などを添え木で固定した。
そうして二人を寝かせてから、ベルコットはわずかにおびえながらもイレイナに尋ねる。
「イレイナ、さっきはどうしたのですか?」
「……昔殺し損ねた敵がいただけよ。噂をすれば影が差すってものね」
「それって、もしかしてさっき話していた?」
「そのサキュバスよ。殺せていなかったのね」
鋭い殺意を宿した目で見られて、ベルコットはすくみ上る。恐怖に体が震え、思わず己の身体を掻き抱いた。
「……ごめんなさい。少し気を紛らせて来るわ」
おもむろに立ち上がったイレイナは、ベルコットに二人を見ているように頼み、次の瞬間には森の奥へと姿を消した。
その数秒後、森の奥から魔物の絶叫が響き渡った。




