5揺れるマッシュポテト
相変わらず冒険者組合併設の食堂にて、頭を抱えたネストが呻いていた。
「どうする……どうすれば」
考えるのは、いかにしてイレイナの料理スキルを上達させるか。そこでイレイナに料理を諦めさせるという選択肢が浮かばないのが、ネストがネストである所以である。
惚れた相手に弱いネストには、イレイナを止めることはできない。何より、イレイナを捨てた勇者パーティに対して目に物を見せてやりたいという思いから、イレイナが料理上手になること自体は賛成だった。――本当に料理が上手くなれば、だが。
「よ、ネスト。どした?」
そんなネストに声を掛けたのは、茶髪茶目の地味な少女。整った顔立ちにもかかわらず周囲に埋没しそうな彼女はアンジェラ。ネストが勇者パーティを離れてから一時期共に活動をしていた冒険者仲間である。
「……アンジェラ」
「いや、まって。ほんとどしたの?」
テーブルから顔を上げたネストの目は闇を湛えており、アンジェラはぎょっと目を剥いた。ただ事ではない様子に、貴族の面倒な依頼でも押し付けられたかと考えた。
ぽん、と肩に手を置き、精一杯励ますも、ネストの顔色は良くならない。むっとしたアンジェラが後頭部を叩けば、ネストは勢いよくテーブルに額を打ち付けた。
「痛い……」
「あ、あはは。その、ごめんね?」
少しだけ申し訳なさそうに頬を掻いたアンジェラは、ネストの対面に座ってじっと彼を観察する。ことの詳細を問うその視線にさらされて、ネストは重い口を開いた。
「どうすれば料理が上手くなると思う?」
「え……料理?」
完全に想定外の言葉に、アンジェラは大きく目を瞬かせる。やがてにぃ、と笑ったのは、ネストの恋を予感してのことだった。
アンジェラたちの間では、ネストが誰かを一途に思い続けていることは公然の秘密となっていた。恋人の胃袋をつかみたい――そんな発言だと思ったアンジェラは、張り詰めていた警戒の糸をほどきながら組んだ手に顎を乗せて思索する。
「そうだねぇ……まずは料理上手な人の弟子になるとか?あとはやっぱり、愛情かな?」
きゃー、と女性らしく甲高い歓声を上げるアンジェラだが、ネストの反応はない。てっきりからかうなと、頬を赤くして文句を言って来ると思っていたため、拍子抜けだった。
まるで蛇の抜け殻のようにしなびたネストを観察して、アンジェラは少し頬をひきつらせた。
「ええっと、ネストってそんなに料理が下手だっけ?あんまり覚えてないけど、ローテーションで作った時にも特に不味いとは思わなかったよ?」
「ああ……僕じゃなくてイレイナ、友人の話なんだけどね」
「イレイナさんっていうんだ!へぇ」
目を輝かせたアンジェラだったが、続くネストの言葉に今度こそ驚愕を隠せなくなる。
曰く、呪われているように料理ができない。料理人に転職したはいいが、職業の恩恵の大きさを理解せずロックゴーレムなどという岩を食おうとした。焼けば炭が出来上がるどころか悪臭のする未知の物体が誕生し、芋を潰すのさえ不器用ゆえにままならない。
そんなイレイナの話を聞いて、半目になったアンジェラが告げるのは一言。
「……イレイナさんが料理上手になるのって、不可能じゃない?」
「やっぱりそう思うよね。でもイレイナの中でパーティを追放された際に元仲間から言われた言葉がしこりになってるみたいでさ。だからせめて、何とか食べられる料理だけでも作れるようにさせてあげたいな、と」
「……そんなに考えてくれてたんだ」
「およ?」
頭上から響いてきた声に顔を上げれば、アンジェラの目の前に見知らぬ女性、イレイナが立っていた。話に上ったネストの想い人だと瞬時に判断したアンジェラはまずは第一印象を、と笑みを湛えて挨拶しようとして。
「……おおう?」
むわ、と漂って来る臭気に顔をしかめ、アンジェラはイレイナの手元を見る。四角い箱。弁当箱だと思われるそれは、緊張のせいかカタカタと震えていた。
いや、イレイナは震えてなどいなかった。弁当箱そのものが――弁当の中身が、なぜか震動していた。
かぱ、とお重のような見た目の弁当箱が開く。その奥、深淵と見紛う絶望の中身は、淡い黄色と赤色のマーブル模様をした物体Xだった。
「ええと、それは何、かな?」
「マッシュポテトでしょ。ネストが煮るところまでしてくれたんでしょ」
ネストの疑問に、イレイナは不思議そうに小首を傾げながら答える。瞬間、ネストとアンジェラの顔はこれ以上なく引きつった。
ここにきてようやく、アンジェラはネストの体調不良の真相を悟った。すなわち、食あたり。あるいは毒を食らったと表現してもいいかもしれなかった。
弁当箱の隙間から覗く、生物のように蠢く何か。それは少なくとも、アンジェラの目には「マッシュポテト」には見えなかった。
虚空を見つめながら、ネストが「美味しいよ。すごくおいしいよおじいちゃん」とつぶやく。亡くなったネストの祖父は名の知れた料理屋の店主だった。
そのつぶやきを聞き、アンジェラが慌ててテーブルに身を乗り出してネストの肩を揺さぶる。
「ネスト、ネスト!戻って来なきゃ!」
「はっ……そうか、地獄はここにあったのか」
いつの間にかネストの隣に座ったイレイナが弁当を開き、スプーンで中身を掬う。どうしてかゲル状に見える揺れるそれを見るネストの目から光が消える。
「ほら、ネスト。あーん」
かつてこれほど絶望的なあーんを見たことがあっただろうか――アンジェラはそう思いながら、ごくりと喉を鳴らした。惚れた弱みのせいか、ネストは抵抗することなく揺れる未知物体を口に入れ――
「ごはっ」
マーブル模様のゲルを口の端からこぼしながら、テーブルへと倒れこんだ。
「昇天するほど美味しかったの?もう、感想を言ってくれないと困るんだけど」
言いながら、イレイナはまんざらでもなさそうに笑う。
アンジェラは慌てて周囲を見回す。恐々とした面持ちでイレイナを観察していたいくつもの視線が、首を痛めるほどの勢いでそらされる。
「あ、よかったらどうです?」
改めてアンジェラを見たイレイナが、スプーンで掬った未知物体をアンジェラに突き出す。
アンジェラはここにきてようやく、自分がアンタッチャブルに触れてしまったことを悟った。
動かないアンジェラがあーんを恥ずかしがっていると解釈したイレイナが、容器ごとアンジェラの前に弁当を置く。
喧騒に満ちていたはずの冒険者組合内部が静まり返る。においだけで吐きそうな異物を前に、アンジェラはごくりと喉を鳴らす。
恐る恐る、イレイナを見る。無垢な瞳をした高身長の女性の姿が映る。不思議そうに首を傾げるイレイナを見てから、テーブルに伏したネストを見て――ままよ、とアンジェラはスプーンに載っていた謎物体を口に入れた。
固唾をのんで見守っていた者たちが息をのむ。
瞬間、アンジェラの意識が過去に飛ぶ。母と手を握って街を歩く少女。目に留まった出店の一つ、青色の星の髪飾りがどうしても欲しいと駄々をこね、困った顔をした母はしぶしぶそれを買い、幼いアンジェラの髪を留め――
「はっ!?」
頬に痛みを感じ、アンジェラは意識を覚醒させる。アンジェラの頬を抓っていたネストが、ほっと安堵の息を漏らした。
このまま昇天してしまうのではないかと考えていた周囲の観察者たちもまた胸を撫でおろした。
右を向けばネスト、左を向けば天然イレイナ。下を向けば狂気の物体。揺れるそれを見ているだけで、アンジェラは息苦しくなり、心臓が不規則なリズムをきざみ、脂汗がにじんだ。
「……この黄色いのは芋だとして、赤いのは何かな?」
「たぶんイレイナの血だよ。ちょっと不器用なんだ……」
それ以上は踏み込んではいけないとばかりに首を振るネストを見ながら、アンジェラはある結論に至る。
すなわち、イレイナは呪われていると。
時々いるのだ。どうしてそうなる!?と声を大にして叫びたくなるようなことをしでかす存在が。その理由は魔力にあるのではないかという説がある。曰く、体から微弱に発散されている魔力が大気中の魔力と反応するか、何からの理由で弱い魔法効果を帯びるのではないかと。あるいは、体内魔力の性質のせいで、呪いのような業を負う可能性を指摘する意見がある。
すなわち、イレイナの料理音痴は魔力のせい。料理に関してだけ極度に不器用なのも、なぜか作ったものがおかしな化学変化を引き起こして生物のような存在に化けるのも、全て魔力のせい。
そうに違いない、きっとそうだ――そう、アンジェラは思考放棄して考えた。
「……無理じゃない?」
「まだ、まだ方法があるかもしれないんだ。少しでも希望が見えるなら……」
盲目ここに極まれり、なネストを見て、アンジェラは友人のよしみで何とかネストを地獄の味見から救わんと思考を加速させた。
「血が混じるからおかしくなるのかな?」
「焼くだけでも駄目だよ。肉を焼けば紫色になって、刺激臭のある煙が立ち上るんだよ」
「マッシュポテトはさ、ほら、ひょっとしたら血が混じらなければ魔力の効果が薄れてましになるかもしれないし、さ」
そんな希望的観測は万に一つもありはしないだろうと思いながら、アンジェラはちらりとイレイナを見て。
そこには、大きく目を見開いたイレイナの姿があった。その顔は、まるで「目からうろこ」という言葉がぴったり当てはまるようだった。
「……つまり、血が出なくなればいい?」
「かもしれないというか、可能性はゼロじゃないというか……うん、がんば!」
叫ぶように告げたアンジェラは、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、冒険者組合の外へと走り出した。
そのお腹から響く異音を、誰もが聞かなかったことにした。
「ぶつけても血が出ないように……強くなる?」
イレイナのつぶやきは、ただ一人ネストの耳にだけ届いた。
頬をひきつらせたネストの顔を見て、また嵐が吹き荒れるぞ、と冒険者たちはささやきあった。普段であればここで賭けが始まったりバカ騒ぎに移るのだが、絶望を瞳に宿したネストがあまりにも可哀そうで、誰も野次を飛ばしたりはしなかった。