幕間3悪魔との邂逅
未明。
冷気を帯びた霧が漂う森の中をレオニードは歩いていた。
木々の枝を払い、滑る木の根をよけて大地を踏みしめる。まだ夜明け前だからか虫の類も少なく、森は静まり返っていた。
便意をもよおしたレオニードの隣には、さすがに誰もいない。衣服に香るわずかな悪臭に眉をひそめたレオニードは唾を吐き、戦士とは程遠い粗野な動きで茂みに向かって。
何かを感じて、レオニードが動きを止める。腐ってもレオニードは勇者だ。つみ重ねた経験がもたらす直感を頼りに、レオニードは険しい表情で周囲を見回す。
故郷の王国の国宝、銀色の聖剣の柄に片手を当て、油断なく周囲を見回す。
誰もいない――ことはなかった。
「そこかッ」
一閃。振りぬいた聖剣に確かな手ごたえが感じられた。何もないと思われたその場所に、裂傷があった。まるで空間が切り裂かれたような不思議な横一文字の斬撃を中心に、空間に亀裂が走り、ガラスのように割れる。
それは、幻惑の魔法を切り裂いた感覚だった。
砕け散った景色の向こう、何の変哲もない森の中に、一人の男が立っていた。人類とは程遠い、灰色の肌をした男。年は人間を基準に二十代前半、ウェーブのかかった黒髪を掻き上げる男の頭頂部には、左右一対のねじ曲がった漆黒の角が生えていた。そして背中には蝙蝠のものと思しき翼。
魔王軍に在籍する魔族の一種、悪魔。魔族の中でも高い知能を備えた悪魔たちは、時に魔法で、時に甘言で、時に剣術で人間を圧倒した。
魔力親和性の高い肉体は体内に存在する魔力によって常時恐ろしいほどの強化が施されており、並の剣士ではその皮膚を切り裂くこともかなわない。
血が凝縮したような真っ赤な瞳をした悪魔は、その目をすっと細めてレオニードの様子を観察する。
一方、相手を見抜こうとしているのはレオニードも同じだった。
(コイツ、隙がねぇ……ッ)
ひょうひょうとした態度とは裏腹に、目の前の悪魔には隙という隙が存在しなかった。レオニードほどの実力者でなければそのことにすら気づけないほどに自然体な悪魔は、レオニードと目を見合わせてにっこりと笑った。
「ふ、ふふ、いい、実にいいですね貴方!」
「……何がだよ。気持ち悪いんだよ」
「ふむ?私は男色というわけではありませんよ。ただ悪魔の私にとって、貴方という存在は非常に好ましい」
「俺は勇者だぞ!」
「それが何か?」
人類の剣、魔王を倒す者。勇者だと名乗るレオニードを前にした悪魔は少しも警戒したそぶりを見せない。まるで、レオニードなど敵ではないというように。そのことがレオニードの神経を逆なでする。怒りにとらわれたレオニードを前に、悪魔はやっぱり満足そうに口の端を吊り上げる。
「いい、実に好ましい……!素晴らしい逸材ですな!」
「なんの話だ?」
「ふむ、ふむ?お気づきではない?私の眼には、貴方という男が王の器に映っているのですよ」
「王の、器……?」
ふざけたことを抜かすようなら今すぐ切り捨ててやると内心で意気込んでいたレオニードは、虚を突かれて悪魔の言葉をオウム返しする。そんなレオニードを前に、悪魔は大仰に両手を広げ、恍惚の表情を浮かべる。
「ああ、このようなところでわが至高の存在に並ぶ方を見つけられるとは!魔王陛下に匹敵する器の持ち主と出会えて感激でございます!」
「はっ、何を言い出したかと思えば、当たり前だろ?俺は勇者だ。魔王を倒す俺が、魔王に及ばないわけがないだろ」
「ふむ、私が言いたいのは、貴方の武力のことではありませんぞ?貴方の器、要は気質、精神性、覇気、求心力、そのようなことを言っているのです」
「……つまり、何が言いたい?」
「単純に疑問なのですよ。貴方ともあろうものが、一介の戦士に収まっていることが不思議でならないのです!」
ずい、と身を乗り出した悪魔がレオニードの瞳をすぐそばから見つめる。その紅玉の瞳が怪しく輝く。
気圧されたレオニードが一歩後退りする。
「俺は勇者だ、たかが戦士と一緒にするな!」
「ええ、ええ!もちろんわかっておりますとも。ですがまあ、貴方はどこまで行っても究極の戦士でしかありませんよ?貴方を遣わす王侯貴族とは違って、ね」
「当たり前だろ。俺は勇者であって貴族じゃねぇ」
「なるほど、貴方は勇者であることに誇りがあるご様子。ですが自分の立場を、胸に手を当てて考えてみてください。こうして文明的というにはほど遠い森の中に追いやられて魔物を追い立てて殺すような立場が、貴方にふさわしいですか?貴方に命令する王国貴族は、祖国でぬくぬくとふんぞり返っているのに?どうして貴方は勇者でありながらこのような泥臭いことをしているのでしょう」
「……俺が、勇者だからだ」
「勇者!はは、なるほど、貴方は勇者でしたか。私には王の器であるように見えるのですがね」
「また王の器、か。結局何が言いたい?」
すでに戦意を喪失したレオニードは、ただまっすぐ悪魔をにらむ。その視線をそよ風のように流しながら、悪魔は悪辣な笑みを浮かべて告げる。
「己は勇者だと告げる貴方は、王になれる存在だと言っているのですよ。魔族たちから人類を守った英雄王。その武威は大陸中に轟き、人類は貴方を神のごとくあがめるでしょう!」
耳障りのいい言葉が、するりとレオニードの頭の中に入ってくる。その言葉は積み重なり、いつしかレオニードの中で当然のように思えてくる。
「ああ、ああ、そうだ。俺は勇者だ。俺は最強の男だ。この俺が戦士?冗談じゃねぇ。どうして俺が王じゃない!?」
「それは貴方の武威を民が知らないからですよ。民は苦戦し、絶望したその先に見えた希望に歓喜するのです。それはまるで、英雄譚につづられる華麗な逆転劇のように。つまり、人類は苦戦しなければならないのです。魔物に追いやられ、危機に涙するとき、貴方は人類を救うために現れるのです!」
「そうだ。すべての人間が俺をあがめないといけない!そのためにはもっと危機感が必要だ!」
「ええ、ですから此度の戦い、貴方は魔物の集団を見逃し……失敬、魔物の集団が貴方を避けるように街に向かい、街では勇者なく魔物の軍勢と戦うのです。あと少しで外壁が落とされる!その絶望の中帰還した貴方が魔物を撃退し、英雄と崇拝されるのですッ」
唾を飛ばす勢いでまくしたてられた言葉に、レオニードは自分の中にくすぶっていた炎が燃え上がるのを感じた。不満だった。勇者でありながら、自分になびかない女がいた。姫を勇者に差し出さない腐った国があった。俺は勇者だ。最強の男だ。この世界は俺が支配するべきものだ。
「さぁ、行くのです勇者よ!人類を救い、大陸を統べる英雄王となるのです!」
悪魔の激励を背に浴びながら、レオニードはその目に狂気を宿しながら歩きだす。彼の眼には、自分がすべてを手に入れた世界が見えていた。消えたイレイナもスラシャも自分の前にひざまずき、自ら英雄王の寵愛を求めるのだ――
「貴様ごときが魔王陛下と並び立つ存在?はっ、話になりませんね」
レオニードの背が見えなくなった瞬間。悪魔はそれまで張り付けていた笑みを消し去り、汚物を見るような目で吐き捨てた。
その赤い目はもう怪しい光を帯びてはいなかった。
くるりと背を向けた悪魔は、レオニードとは反対側、魔王軍が支配する土地の奥に向かって歩き出した。




