22竜王の踊り食い
大地が、小さく揺れた。
地上に、竜神だった骨が降る。えぐれ、荒れ果てた大地には竜神だった流水があふれ、無数の骨片が突き刺さる。
その死の大地の中、イレイナは倒れたネストへと聖剣を杖として歩く。
体のあちこちが痛くて、すぐにでも座り込んでしまいたくて。けれどネストの無事を確認するまで、死なないように治療するまで、イレイナは倒れるわけにはいかなかった。
たった一人の仲間。そう、イレイナにとって、ネストは唯一仲間と呼べる人間だった。
かつて勇者パーティに所属していた時にも、ネストだけがイレイナの仲間と呼べる存在だった。まっすぐ面と向かって議論を交わすことができ、互いの意見を受け止める懐を有していて、勝利を分かち合え、苦難を共にすることができる存在。無理難題を押し付け、斥候の仕事は斥候がやればいいと思考放棄した勇者たちは、イレイナにとっては仲間ではなかった。
「……ネスト」
その名を呼ぶ。幼馴染であり、友人であり、戦友である男の名を。その声にこもる熱は、思いは、けれど少しだけ変わっていた。そのことに、イレイナはまだ気づかない。
けれどそれでも、胸にある衝動がイレイナを突き動かした。こんなところでネストを失いたくないと、そんな心の叫びに従って。
脳裏に、ネストの背中が映る。いつだって、ネストはイレイナを守ろうと必死だった。最初のころの冒険の中、魔物の凶刃を前に震えることしかできなかったイレイナを、ネストはその身を盾にしてかばった。勇者パーティに新たに入ってきた魔法使いの心無い罵倒からイレイナを守った。レオニードの視線からイレイナを守り、その無茶ぶりを否定する立場に立った。竜神のブレスから、イレイナを守った。
いつだって、ネストはイレイナを守ろうと必死だった。
ネストは理解していない。イレイナが弱いままだった最大の理由は、過保護な己にあったことを。ネストはただ必死だったのだ。勇者パーティとしての活動が続くほどに戦いは苛烈なものが増え、仲間が傷つくことも指数関数的に増加した。そんな中でイレイナを失いたくないと、ネストは無茶を繰り返したのだ。
その果てに、ネストは心を壊し、勇者パーティを追放された。あるいはくじけ、勇者パーティから逃げるように去った。
ネストは心が弱かった。ネストは守ることしか知らなかった。けれど、今は違う。イレイナはネストよりも強くなった。ネストにとって、イレイナは守るべき存在ではなくなった。憧憬をもって見つめる存在になってしまった。その背中はあまりにも遠くて、その隣に並ぶのはあまりに困難で、けれどネストは諦められなかった。
もう一度、今度は並んで生きるために――その思いだけが、ネストを突き動かした。
そして変わったのはネストだけではなかった。
ネストという守護者を失ったイレイナはレオニードにいいように使われ、追放され、そこで心の中の何かが狂った。
壊れたように料理を望むイレイナは、けれどその中でネストとの穏やかな日々を手に入れた。料理(劇物)の味見をするネストにとってはそれはとても穏やかとは言えない日々だったが、それはともかく。
久しぶりに人間味ある生活に身を浸したイレイナは、酷使されてすり減っていた精神を回復させ、自ら戦いに臨んだ。
強くなって、それでも料理はまずくて。けれどその活動にはいつだってネストの存在があった。
自分の人間性を否定することなく、時に否定的なことを言いながらもなんだかんだ支えてくれる存在。
イレイナの中で、ネストの存在はとても大きなものになっていた。
心の中にある温かな思いを胸に、イレイナは新たな一歩を踏みしめる。
それは始まりへと続く歩み。それは、破滅を止めるための歩み。
「……?」
視界の端で、何かが動く。それは小さな、先ほどまでイレイナが戦っていた竜神に比べれば本当に小さな、イレイナと同じくらいの背丈の蛇のような存在だった。
流水のような透明感のある青のうろこ。空よりも青い瞳。
「……竜神ッ!」
それは、はじかれたブレスから周囲の流水へと移ったわずかな力をもとに再生した、小さな小さな竜神だった。
倒れこむように前へと体を傾けたイレイナが走り出す。
『グルァアアアアアアアッ』
怒りとも焦燥ともつかない声をあげ、竜神がイレイナを撃退するために動き出す。
振るわれた聖剣が竜神の片腕を切り飛ばす。
渾身の体当たりがイレイナの胴体を直撃し、骨を折り、その体を吹き飛ばす。
イレイナの手から聖剣が抜ける。竜神がイレイナにのしかかる。鋭利な牙が、イレイナへと近づく。それは小さくとも、あらゆるものを切り裂く竜の牙。
噛みつかれたが最後、イレイナは骨も肉も嚙み砕かれる。
迫る死を前に、けれどイレイナの脳裏をよぎるのはネストの顔だった。
ここで自分が死ねば、次に竜神の餌食になるのはネストだ――
激情が、イレイナの心の中で炎となって燃え上がる。
目を見開き、体に残っていたありったけの力をもって竜神をつかんで。
「あああああああッ」
イレイナは、竜神の首元にかみついた。
外見だけを整えた竜神のうろこは、イレイナの咬合力をもってたやすく砕けた。まるで固焼きせんべいのようなもろさのうろこの奥へと歯を進め、イレイナは竜神の肉を食いちぎる。
食らう存在であるはずが逆に食らわれた竜神は、イレイナへと攻撃するのも忘れてのたうち回る。だが、イレイナは竜神を逃さない。全力で組み付き、その肉へと歯を立てる。
引きちぎった肉を飲み込み、噛みつき、引きちぎり、飲み込む。
繰り返すほどに、イレイナの胃のあたりに熱がともる。腹から全身へ、その熱が駆け抜け、イレイナへと力を与える。
食らうことで竜の力を取り込んだイレイナの瞳は縦に裂け、異様なほどに八重歯が伸び、無理やり肉を食いちぎったことで抜けた歯が生えなおる。
鋭く伸びた爪を竜神の体に突き立て、イレイナは捕食を続ける。
竜神の踊り食い。そんな方法で竜神へと攻撃を仕掛けたのは間違いなくイレイナだけだった。だが、それは今の竜神にとって最良の方法だった。
竜神は滅びを知らない。たとえその身を砕かれようとも、わずかに残った力の残滓を増幅させることで復活を果たす。数千年もの時をかけて力を蓄えて、竜神は何度もよみがえる――はずで。けれど、残る力のすべてを、イレイナは食らっていく。
一体どこに入っていくのか、ブラックホールのような胃袋が、竜神を、その力ごと食らい、飲み込む。
『ガアアアァァァァ……』
声にならない断末魔を上げる竜神の存在が大気に溶けていく。光と化した竜神の力を分子一つに至るまで逃がしはしないと、イレイナはその光を吸い込み、体の中に収める。
ドクン、とひと際強く心臓が鼓動を刻む。目を閉じ、全神経を注いで体の中で暴れまわる力を必死に抑える。その熱が収まってしばらく、ようやくイレイナはその目を開けた。
「ふぅ……」
体を見下ろす。気づけばその体は癒えていて。
視線を上げる。竜神の力を取り込んだからかこれまで以上に開けた視界の先、血だまりに沈むネストの姿を見た。
絶望に心くじけそうになったイレイナの視界の端、ふと見覚えのある青がよぎって。
もう一度、傷の消えた手のひらを見下ろす。それからイレイナは、焦燥をにじませながら地面に転がるそれへと手を伸ばした。




