2物体X
この世界では、神が人々に職業を与える。その「職業」に関する者は、驚くほどの成長率を持つ。
剣士の職業に就いたものは、職業についていない者の数倍の成長スピードで強くなる。それによって人類は魔物という脅威から身を守ってきており、勇者というのも最上位の成長補助が入る戦士職だった。
だから、イレイナが料理人になるというのは間違ったことではなかった。
職業という神の補助が、イレイナにとって何の意味も持たないことを考慮しなければ。
午後、イレイナはネストが泊まっているという宿に、大量の荷物が詰まった風呂敷を背負って押しかけた。
「ネスト!早速転職してきたよ!ほらみて、料理人だよ!」
身分証ともなる冒険者カード、そこに示された職業欄を指さしながら、イレイナは胸を張る。料理人の三文字を見るネストは、死んだ顔をしていた。
「ああ、そう……だね。料理人だね」
「もっと喜んでいいんだよ?新生イレイナはここから始まるんだから」
乾いた笑い声をあげるネストを不思議そうに見ながら、イレイナは早速荷物をほどき、大量に買い込んだ食材をテーブルの上に並べて見せる。
「ええと、イレイナ。それは何かな?」
「何って、食材だよ。ネスト大丈夫?なんか疲れてない?」
「うん、大丈夫……だよ。それで、どうしてここに食材を持ってきたの?」
「決まってるでしょ。料理をするためだよ!」
イレイナは、ネストが泊まる宿には確実にキッチンがあると予想していた。趣味で料理をするネストは、かつて勇者パーティに所属していた際は剣士兼料理担当だった。そんなネストの部屋にあがりこんだイレイナは、さっそくとばかりにいくつかの食材を持ってキッチンへと向かう。
「イレイナ?最初は僕の補助から始めない?ほら、初心者はまず熟練者を見て学ぶべきでしょ?」
「大丈夫だよ。私だって料理の経験がないわけじゃないんだし」
あれは料理じゃなくて毒物調合だったと思うけどね――そんなネストの言葉はイレイナの耳に届くことはなかった。
「ほら、体調が悪いネストは休んでて。私一人でできるから」
「本当に?本当に一人でいいの?」
「もちろんだって」
ぐいぐいと背中を押されてキッチンから追い出されたネストは、気が気でなかった。リビング兼寝室の小さな部屋に戻ったネストは、背中を冷や汗が伝うのを感じながら、時折聞こえてくる悲鳴や破裂音を耳にしつつ、じっとベッドに座ってその時を待ち続けた。
恐ろしい香りが漂ってきて、その臭いだけでネストは気絶してしまいそうだった。
やがて、絶望の声が掛けられ、ネストはふらりと起き上がった。
「……これ、は?」
テーブルに置かれた真っ黒な物体を見て、ネストは頬を引きつらせる。炭……であればまだいい。けれどその黒い個体からは、毒々しい紫の煙が立ち上っていた。
顔を上げれば、期待に目を輝かせるイレイナの顔があった。
覚悟を決め、ネストはフォークを手にその物体Xへと手を伸ばす。まるでゼリーを切ったような感触がした。
ふるふると揺れる漆黒の物体を、覚悟と共に口の中に放り込んで――
そこで、ネストの意識は消失した。
ゆっくりと目が覚める。眩しい朝日が昇っていた。
んん、と唸るような声がして、ネストはぼんやりとした頭のまま視線を動かした。
その先、ベッドにもたれるように眠っているイレイナの姿があって、ネストは一瞬にして眠気から解き放たれた。
「な、ぁえ……イレイナ!?」
「ん……おはよう、ネスト」
ふわりと気の抜けた顔で笑って見せるイレイナ、その胸元はボタンが外れ、押しつぶされた大きな双丘が深い陰影を刻んでいた。
体が熱を帯び、ネストは慌てて顔を逸らす――ことはできなかった。
がっちりと顔をつかまれたネストは、唇が触れそうなほど近くからしげしげとイレイナに観察される。呼吸が止まったネストをしばらく見つめたイレイナは「よし」とつぶやいて手を離した。
「だいぶ顔色がよくなったね。昨日は真っ青な顔をしていたから心配したんだよ。やっぱりかなり疲れてたんだね」
「……昨日?」
何かあっただろうかと、熱を帯びて空回りする思考をネストは必死に働かせる。レオニードがイレイナを追放したという事実を思い出して怒りがこみ上げ、料理人に転職を果たしたイレイナが調理を始めたことを思い出し、えぐみと苦みと粘性と臭気のコラボレーションを思い出し、ひどい吐き気がネストを襲う。
「大丈夫?やっぱり疲れてたよね。ご免ね、大変な時に気遣ってもらって」
「別にいいけど……イレイナはどうしてここに?」
「あ、うん。レオニードたちにパーティを追い出されて行くところもなかったし、とりあえず泊まらせてもらったんだ。ネストも早く次のパーティを見つけて一緒に行動したら?あまり体が強くないんだし、いざという時のことを考えると誰かと一緒に暮らした方がいいよ」
体が弱い――しょっちゅうネストが気を失っていた理由がイレイナの料理にあることを、彼女は知らない。イレイナには、自分が毒物を作っているという自覚がなかった。それはひとえに幼馴染たちの気遣いあってのことで。
「そうだ。私が一緒に暮らしてあげるよ。料理人になったことだし、食事は任せて!家事は役割分担でいいよね?」
「……いや、あ、うん、そうだね……」
イレイナと一緒に暮らせるという嬉しさと、食事は絶対に自分がやると告げるイレイナに対する絶望で混乱に陥ったネストは、ただ頷くことしかできなかった。
こうして、イレイナとネストの同棲が始まった。