97オイル漬け
魔王軍の様子が不気味だ――それは、昔の戦線を知るものが共通して抱く思いだった。
最前線を長く見てきたエルフは、魔王軍が積極的に攻めてきていないだけではないかと考えていた。
魔王が世界に現れてから最初の五年。大陸を飲み込むような速度で暴威をふるった魔王軍の勢いは、今ではすっかり衰えていた。
人類もまた、かつてより戦力が増えている。国同士が手を取り合って戦いに望んでいる。それでも、魔王は倒せていない。それでも、魔王軍は北の一帯から大侵攻をしてこない。
ただ不気味に息をひそめるばかり。
まるで、機を狙っているようだった。
魔王軍の侵攻は止まっている。大陸はまだ征服されていない。魔王軍との戦いによって、人類の中に強者が多く生まれている。魔物の数だけ、人は強くなる。
皮肉なことに、魔王軍の存在が人類を強くしていた。
そうして強くなった者の一人であるイレイナは現在、ネストたち三人と焚火を囲んでいた。
夕食を終えて、これから交代で眠ろうというところで、真剣な顔をしたガウルから話があると告げられた。
当人のガウルは、腰を押し付けた三人が話を待つ中、じっと焚火の光を見ていた。
「……話は?」
しびれを切らしたベルコットの問いかけによって、ようやくガウルは顔を上げる。鞄から、古びた紙を取り出す。羊皮紙を、隣にいたネストへと手渡す。
「これは……調査報告書?」
「ああ。黒狼族が、魔王軍に関して調べていた情報だ」
その言葉に目を見開いたネストは食い入るように内容を読み始める。立ち上がったイレイナとベルコットが、ネストの両肩越しに内容を読む。
三人が読み終わるまで、ガウルは握りこんだ拳を反対の手の平で包み込んでじっと待つ。
黒狼族を滅ぼしたことは間違っていなかったと、ガウルはそう思っている。けれど、だからといって黒狼族がただの悪としてガウルの記憶の中にあるかといえばそうではない。
悪逆非道。けれどその書類が、黒狼族への認識を変えた。
他の誰にもなせていないことを、黒狼族はなして見せた。
すなわち、魔王に関する情報収集。
そこには、魔族たちが語る魔王についての情報が書かれている。見た目や強さ、戦い方。それはイレイナたちが望んでいた、敵の首魁の情報だった。
「……魔王は、悪魔の一種である?」
顎に手を当てながらイレイナが告げる。
悪魔――その単語から真っ先に連想するのは、つい先日戦った悪魔ディアボロのこと。空間魔法を使い、恐るべき戦闘能力を見せた怪物。
彼は強かった。下手をすれば竜神以上に強かった。
イレイナが勝利したのは、ひとえにディアボロが己の長所を捨てたからだ。
ディアボロの最大の強みは、その移動能力にある。
空間魔法による瞬間移動で大陸のあちこちに移動できるディアボロは、それだけで殺される確率はずっと小さなものになる。神出鬼没に世界を渡り歩いては街に魔物を降らせる。
そんなヒットアンドアウェイを繰り返していれば、人類に対処することはできなかっただろう。
けれど、ディアボロはあくまでも真っ向からの戦いを挑んだ。そして、イレイナが勝利した。
「黒い蝙蝠のごとき翼、灰色の肌に、巨大な角、真っ赤な瞳。そして、あらゆる魔法を使う……かぁ」
「過去、魔王の侵攻を防ぐことができなかったのはそれが理由なのよね。人類側を圧倒する魔法攻撃によっていくつもの街の城壁が破られた――この街のように」
「遠距離から攻撃されると対処が難しいからなぁ……この中で、遠距離でも戦える人っている?」
ネストの問いかけに手を挙げるものはない。
イレイナもネストもガウルも接近戦だ。ベルコットとイレイナは投擲による攻撃こそ可能だが、それが魔王に通じると考えるのは楽観が過ぎる。
「遠距離攻撃、あるいはそれに対処する方法、か……僕も一回の戦いで一度くらいなら遠距離で強力な攻撃が放てるんだけどね」
「なにそれ」
「ちょっとキグナス師匠に助言をもらったんだ。まあ、あまり期待はしないで」
自分の知らない攻撃が可能だと告げるネストに、イレイナは不思議そうに首をひねる。とはいえキグナスが関わっているなら問題ないかと納得する。
「後は……料理?」
言いたくない――そんな副音声が聞こえてきそうな顔でイレイナが告げる。
苦渋に満ちた顔。これまでさんざん戦闘で利用しながら、それでもイレイナは自分の料理が兵器のごとく戦いの中で使えるものであることに納得がいっていなかった。
「料理で、どうするの?爆発させる?毒でも撒く?」
「……それって料理なのか?」
ガウルの問いかけに、イレイナたち三人はそろって黙り、視線を合わせる。
ベルコットが驚愕に瞳を揺らす。いつの間にかイレイナの料理を当たり前のように兵器として受け入れてしまっている事実に気づいて愕然としていた。
気が付けばベルコットはすっかりイレイナに染まっていた。
そんな中、ネストは立ち上がって荷物のほうへと向かう。鞄から取り出したのはイレイナ手製の保存食。豆のオイル漬け。
それを、ネストはずいとガウルの前に突き出す。
「……食べろってことか?」
恐る恐る取りかけるガウルに、ネストはにっこりと笑う。その透明な笑みに、なぜか寒気が走る。
わずかに気圧されながらもガウルは瓶の中身を見つめる。
油の中に浮かぶ豆。だが、よく見れば何やらおかしなものが視界に映った気がして――
「ほら、早く食べてみて」
ネストに急かされ、ガウルは観察をやめて瓶の蓋を開ける。
手渡されたスプーンで掬い、一粒口に運ぶ。
襲る襲る口に入れたそれは、おかしな味はしない。むしろ味自体がしない。油の味もせず、ただ粘性のある液体が口の中に広がる。
飴をなめるようにコロコロと口の中で豆を転がしたガウルはそのままかみ砕いて。
『ギエエエエエエエッ』
口の中から、そんな音が響いた。
ガウルの咀嚼が止まる。その手から、瓶の蓋が落ちる。
「……は?」
困惑しながらもう一噛みする。悲鳴は聞こえない。
ただの勘違いだったか――そう思いながら豆を飲み込む。飲み込んでしまう。
恐ろしいものを見るような目で自分を見ているベルコットの視線に気づく。一体何にそんなにおびえているのか――いぶかしみながら、ガウルは改めて瓶の中身を観察する。
視線の高さに持ち上げた瓶の中には、直径一センチほどの小さな真ん丸な豆がたくさん詰まっている。
色も、匂いも、おかしなところはない。ただ、その見た目に、わずかな違和感があった。
豆に刻まれた皺。三つ並ぶそれは、まるで目と口のように見えた。
そんなはずがない――そう思いながら、ガウルは新しいスプーンをネストから受け取って、豆の一つを瓶から取り出す。
油をきって、持ち上げる。
豆。小さな豆。ただの豆。
目の前に持ち上げて観察をする豆が小さく震える。恐怖しているかと考えるも、違う。
ガウルの腕が振るえたわけではない。ただ、その豆自体が少しだけ動いたのだ。
そして――豆が、目を見開く。青い目がガウルをとらえ、片頬を釣り上げてニヒルに笑う。
「……あ?」
思考が真っ白になったガウルが、無意識のままネストへと顔を向ける。そこには疲れ切った笑みを浮かべる男の姿があった。
ベルコットを見る。肩を竦められる。
イレイナを見る。まっすぐガウルを見つめるイレイナは、数度目をしばたたかせてから、ゆっくりとその口を開く。
「どう?」
「…………悪夢でも見ている気分だ」
絞り出すようにそう告げて、ガウルはスプーンの上に載っていた豆を瓶に戻る。
怒りをあらわにするように、豆が小さく声を上げる。
努めてその声から意識をそらしながら蓋をして、ネストに押し付ける。
急に吐き気がこみ上げる。胃のあたりを押えながら、ガウルは先ほど豆を一粒食べてしまったことを思い出す。
「冗談だろ……」
呆然と天井を見上げるガウルに掛ける言葉は、ネストとベルコットには見つけられなかった。




