95ギルベルギアス
体高五メートル。手足は丸太のように太く、指先から延びる爪は一つ一つがイレイナの掌ほどの大きさがある。
鋭利な爪は足場の岩に鋭い爪痕を刻む。その爪で切り裂かれればイレイナとてただでは済まない。
けれど、イレイナはあくまでも冷静にギルベルギアスの攻撃をさばいていく。
もとより、イレイナが最も得意とする相手は二足歩行の、高い知性を持った相手だ。ドラゴンだ精霊だゴーレムだと、怪物とばかり戦ってきたが、イレイナの真価はそこにはない。
イレイナは元斥候だ。あるいは、今もその体には斥候として力が染みついている。
目に映るすべてを瞬時に捕らえる洞察力と観察眼、動体視力。
ナイフを使った手数を重視する戦い。
弱いながらに魔物戦い続けて手に入れた軽いフットワークと、巧みに相手をすきを突く動き。
これまで発揮されていなかったそれらが、ギルベルギアス相手にピタリとはまっていた。
何より、イレイナはギルベルギアスが宿す神の力に畏怖していない。むしろ神なんてこんなものかと拍子抜けするほどだった。
イレイナは「神」を知っている。竜神――そう呼ばれた怪物は、肉体を失ってなお完全に死ぬことはなく、再び世界によみがえった。肉体なくして恐るべき戦闘能力を発揮した竜神に勝利したイレイナにとって、ギルベルギアスは小物――下級神といった程度だった。
確かに、ギルベルギアスは強い。その膂力は目を見張るものがあるし、鋭利な爪や牙はイレイナの肌を貫通して余りある。その動体視力は並外れているし、戦闘経験だって決して少なくない。
けれど、それだけ。
竜神のように周囲一帯の土地を破壊するような強力な魔法を扱うわけでも、逃げることもできないくらいに無数の攻撃を叩き込んでくることもない。
四本の手足と牙。それ以外に警戒するところもないのだから、イレイナからしてみればただ少しばかり体が大きくて力が強いだけの人類に過ぎなかった。
そんな余裕を、ギルベルギアスは肌で感じていた。
「なぜだ。なぜ避けられる。なぜ当たらない。……お前は、何だ?」
その目には、わずかな恐怖があった。理解できない怪物。勝てない相手。これまで、ギルベルギアスが知らなかった存在が、目の前にいた。
「私は人間よ」
それ以外の何に見えるのかと、片方の眉を挙げて告げたイレイナの姿がその場から消える。
次の瞬間には、イレイナはギルベルギアスの脇を走り抜け、その背後五メートルほどのところに立っていた。
ブシュ、とギルベルギアスの左腕から血しぶきが飛び散る。ゆっくりと傷口が滑り、やがてギルベルぎスタの片腕が地面に落ちた。
「あ、ああああああああああああ!?」
痛みと、困惑と、恐怖と、怒り。ぐちゃぐちゃに感情が混ざった悲鳴を上げたギルベルギアスはがむしゃらにイレイナへと攻撃を繰り出す。
そんな単調な攻撃など、イレイナに当たるはずがない。
軽く振りぬかれたナイフは瞬時にその刃を伸ばす。イヴィルドラゴンの闇魔法の効果を有したナイフは、魔力を消費して瞬時に闇の刃を作り出す。
伸びた刃が、ギルベルギアスの指を切り飛ばす。五指を、手を、二の腕を、細切れに変えていく。
とっさに背後に飛び乗ったギルベルギアスの喉元を、イレイナのナイフが浅く切り裂く。
首から胸へと流れる血を感じながら、ギルベルギアスは怒りと恐怖にがちがちと牙を鳴らす。
こんなはずではなかった。自分は神の力を宿しており、戦闘の果てにその力を高め、神に至ったはずだった。
たかが人間ごときに敗れるはずがない――そんな思考は、生き残っていた最後の同胞の断末魔にさえぎられる。
「……ああ、そうか」
倒れる仲間の姿を見ながら、ギルベルギアスは幼いころの記憶を呼び起こしていた。
それはまだ彼が物心ついたばかりの頃のこと。
親に連れられて穴倉から地上へと出た先で、ギルベルギアスは一面を雪に覆われた世界を見た。そこは十分な食料がなく、寒く、少ない獲物を取り合う魔物たちがひしめき合う危険な世界だった。
『これこそが大自然だ。自然の中の唯一の法則は“弱肉強食”なんだよ』
そんな父の言葉が耳の奥で響く。その父も、魔族に殺されて死んだ。
弱肉強食、それは唯一絶対の自然の法則。強いものが生き残り、弱いものが死ぬ。
強くても、弱者を侮れば死ぬ――違う。黒狼は、強くなかったから人間に殺されたのだ。
強ければ、殺されない。強ければ生き延びられる。強ければ搾取する立場でいられる。
だから、ギルベルギアスは強くなった。けれど、まだ足りなかった。イレイナには届かない。両腕を失った。傷口からは今もなお命がこぼれていっている。
だが、自分は強者だ。だから勝つ。
ニヤリと、不敵な笑みを浮かべる。この期に及んで勝利を確信しているギルベルギアスに、イレイナは警戒を強める。
「ああ、そうだ。オレは強者だ。だから勝利する。勝利するから強者だ――オレは、すべてに勝る神だッ」
切り落とされた腕を、高く掲げる。それと同時に、周囲でうずくまっていた人間の少年少女がくぐもった声を漏らす。
その、次の瞬間。
子どもたち細い首につけられていた首が一瞬で収縮し、肉にめり込み、その首がはじけ飛んだ。
「……あ?」
突然の事態に、イレイナの思考が止まる。飛び散った血を浴びたギルベルギアスが嗤う。
「さぁ、刮目しろ。これが我らが黒狼の秘奥――呪殺王毒だッ」
その言葉とともに、倒れた首なしの遺体から黒々とした霧がギルベルギアスへと集まる。魔法具の光を遮る漆黒の霧は、異様な気配を放っていた。
「イレイナ、逃げて!」
焦燥をあらわにベルコットが叫ぶ。
ベルコットは、なぜだか直感していた。それは、彼女が積み重ねた経験がもたらしたひらめき。
――これは、魔女の呪いだ。
魔女を近くで見てきたベルコットは、そう看破した。
ギルベルギアスが発動したそれは、かつて神・黒狼を殺した呪いの毒、その製法を改良したもの。復讐に走った黒狼族は、神を殺した魔女を捕らえ、拷問し、その秘奥を聞き出した。
それこそが、この呪いの霧だった。
黒い霧が、ギルベルギアスの両腕に集まる。黒は収縮し、そこにあらゆる光を吸い込む漆黒の腕が生まれる。己の体に満ちる神の力が呪いと拮抗し、腕の断面付近でびりびりとした刺激が生じていた。
改良された呪い――己以外の、あらゆる生命を殺す必殺の毒。それを手中に収めたギルベルギアスは、勝利を確信して嗤う。
「さぁ、終幕と行こうか。――死を支配した新たな神の誕生だッ」
ギルベルギアスが、地面を蹴る。
その手が、まっすぐイレイナへと伸びる。
「……はぁ」
小さなため息一つ。イレイナは、何の気負いもなく、一歩前へと進む。
その手には、もはやナイフの一つさえ握られていない。そんな必要もない。
イレイナは確信していた。信用していた。
自分の料理の腕の向上を阻む魔力の悪質さを。呪いを跳ねのけるほどの強力な個性を有した魔力による防御力を。
ギルベルギアスを料理する――そんな思いをもって、イレイナは前に進む。
白魚のような手が漆黒の腕へと伸びる。
互いの手が、ぶつかる。
そして――ギルベルギアスの手が、はじけ飛んだ。
「……は?」
「それが呪いだというのなら、私には効かない――活け造りにしてあげるわ」
イレイナは、ギルベルギアスの反対の腕を握りつぶすと、その体を上空へと蹴り上げる。
巨大な地下空間の天井に衝突したギルベルギアスは血反吐をまき散らしながら落下を始める。
そこに、ナイフを持ったイレイナが飛び掛かる。
一閃。
ギルベルギアスの足が切り飛ばされる。毛皮がそぎ落とされ、腱が切られ、肉と骨が切り分けられる。
はらり、と一瞬にしてバラ肉に姿を変えたギルベルギアスの足が地面に落ちていく。
その肉片は、ひらひらと空中を舞い、倒れていた子どもたちの体に着地する。
「復讐したいならすればいい」
そうイレイナが告げるのと同時に、肉片がドクンと脈動する。
肉が伸び、少年少女の体とつながる。首なしの死体が、操り糸を括りつけられた人形のように、ゆらりと立ち上がる。
ギルベルギアスが地上に落ちる。そこへ、少年少女だったモノが近づいていく。
「な、ぁ……ッ!?」
首足の死体が迫る。それを前に、ギルベルギアスは思考が真っ白になる。
手足を失い、奥の手は全く通用せず、理解できない超常現象が目の前にある。
恐怖が、ギルベルギアスの心を縛る。それは、彼の敗北であり、彼が強者から転落した瞬間だった。
イレイナの“料理”によって一時の復活を果たした少年少女が、その手足をギルベルギアスに振り下ろす。
肉が打たれる音が無数に響く。無言で攻撃を続ける首なし死体たちは糸が切れたように倒れこむ。
その中心には、血まみれになって死んだ、ギルベルギアスだったものの姿が残されていた。




