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呪われし料理音痴イレイナの挑戦  作者: 雨足怜


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94黒狼獣人

 かつて、北の地には土地神がいた。

 雪の中、その存在を主張するような黒毛の狼。体高四メートル近く、全長は十メートルに近い巨大な狼。

 それは、雪の中に生きるすべての生物の畏怖を集めていた。

 それに、呼び名はなかった。ただ「黒狼(コクロウ)」と、そう呼ばれていた。

 雪の中、それは恐るべき戦闘能力を持って、自らの支配領域を狂わせようとやってくる外敵に牙をむいた。

 それは魔物であり、精霊であり、ドラゴンであることもあった。

 彼はただ、自らが暮らす世界によそ者が踏み入ることを許容しなかった。その牙、その爪は外敵を駆るためだけに振るわれた。そうして、雪の世界は守られていた。

 ある時、彼の元に獣人の集団がたどり着いた。魔女に襲われ、血を流す獣人たち。

 雪に同化するような真っ白な毛皮はどす黒い赤色に染まっていた。

 満身創痍で、それでも立ち止まることなく歩き続けた彼らは、黒狼の領域に一歩踏み入れ、そこで力尽きて倒れこんだ。

 黒狼はこれまで、自分の領域で暴れようとする外敵を殺して来た。その爪で切り裂き、その牙で食らってきた。

 黒狼は、倒れ伏した狼獣人たちを見て考えた。目の前の彼らは、果たして己が倒すべき敵なのかと。

 それらは、黒狼に攻撃することはなかった。それらは、起き上がることもなかった。支配領域で無遠慮に獣を狩り始めることもなかった。

 ただ、倒れていた。それだけ。それは、もはや排除すべき敵ではなかった。

 黒狼は、彼らを殺さなかった。それどころか、己の遠い類縁にある彼らを己の領域に受け入れた。

 黒狼はこれまで敵に食らいついてきた牙を、己の前足に突き立てた。そこから流れ落ちる血で、倒れ伏した獣人たちを染めた。

 それは、神と畏れられ、崇められ、神に至った守護獣の祝福だった。

 血でどす黒く染まっていた白狼獣人たちの毛皮は、黒狼の血を浴びた部分から一瞬にして黒く染まった。

 そうして、銀世界の中に黒狼獣人が誕生した。


 黒狼獣人たちは、自らを救った黒狼を一族の神と崇め、その地を新たな繁栄の地とした。

 そこは厳しい世界だった。長い冬は多量の降雪をもたらし、世界は白銀に染まり、あらゆる木々が葉を落とした。短い夏は寒く、動き出す動物の総数自体が少なかった。

 獣人たちは必死になって食いつないだ。木々の皮を剥いで食らい、わずかな動物を仕留めて骨の髄までしゃぶりつくし、砕いた骨紛を薬として飲んだ。

 幸いだったのは、黒狼獣人たちは寒さに耐性があったということ。そして黒狼を狙う外敵が多数存在したこと。

 神としてその存在が広まっていた黒狼を狙う敵は多かった。それらの敵は、けれど黒狼によって殺され、その血肉の一部が獣人たちの糧となった。黒狼も、己の杭の腰を回収していく自分の子どものような種族に怒りを向けることはなかった。

 そうした共生が続いたある日、黒狼の支配領域に人間が足を踏み入れた。

 黒狼に遭遇した人間は、武器を向けた。

 だから、黒狼はその人間たちを殺した。

 やがて、黒狼を殺すべく、たくさんの人間が北の地に足を運ぶようになった。黒狼は、ただひたすらに人間を殺していった。

 黒狼には、不満があった。

 それは、自らが守護する獣人たちが、人の血肉を食わないこと。人間の遺体は回収されず、黒狼が食べずに置いたそれらは時にゾンビ化して腐臭をまき散らし、北の地に二次被害をもたらした。黒狼にしても、人間は骨っぽいうえに金属などという余計なものを身に着けていることが多く、あまり好んで食べようとは思わない相手だった。

 黒狼は侵攻をやめない人間に怒り、初めて北の地から遠征に臨んだ。

 自らの支配領域を汚す不遜な羽虫を殺すために、彼は立ち上がった。

 人間にあらがうすべはなかった。崇められ、その信仰によって神に至った黒狼は殺戮を続けた。

 その地域の人間たちに残された道は、滅亡だけしかないと思われた。

 黒狼の領域の傍にあった最後の街は、黒狼の怒りを収めて助かる道を選んだ。

 えりすぐりの石工たちに、黒狼の像を掘らせた。その像を街のいたるところに飾り、黒狼の信仰を命じた。

 畏れから、あるいは恐れから、人々は黒狼に祈りをささげた。

 どうか、荒ぶる心をお鎮めください――

 果たして、信仰は届いた。

 黒狼は自らに恭順を誓った人間を殺さなかった。北の地から人間が消えることはなかった。

 けれど、黒狼獣人たちはそれに怒りを覚えた。

 黒狼に対して矛を向けておきながら、滅亡しそうになったからあわてて尻尾を振った人間を許せなかった。何より、かつて自分たちが逃げなければならない原因を作った人間が、同じ黒狼を信仰するということに耐えられなかった。

 だが、黒狼獣人には力がなかった。恵みのすくない北の地で生まれ育った彼らは生きるのに必死だった。十分な鍛錬を積むことはできず、そもそも肉体を作るような食事ができない。やせ細った数の少ない黒狼獣人には、人間に復讐するだけの力がなかった。

 だから、彼らは姦計を巡らせた。それは気の長い計画。

 北の人間は黒狼を信仰している。その信仰を、少しずつ捻じ曲げてしまおうと。

 彼らは知っていた。人間は、喉元を過ぎればすぐに熱さを忘れる種族であると。懲りずにまた同じ道を歩むだろうと。

 彼らは時に人間社会に紛れ込んで噂を流し、黒狼を目にした人間を殺し、黒狼を模した像を破壊した。

 次第に、人間は黒狼を信仰しなくなった。畏れは消え、けれど恐れだけは残った。

 だから、人間は再び、今度こそ黒狼を排除する道を選んだ。

 その道で名を知らぬものはいないとされる凄腕の魔女に頼み込み、薬を用意した。それは、神と名高い黒狼さえも殺す呪いの毒。

 人間は、その毒を黒狼への捧げものに混ぜた。

 果たして、魔女の毒は黒狼を殺した。

 神は死に、人間は瞬く間に北の地に広がった。黒狼獣人は、人間への復讐を誓った。

 彼らは、黒狼に代わって人類に復讐する道を選んだ。

 黒狼の肉を食らい、神の血肉を体に取り込んだ。畏怖によって集まった神の力は、やせ細った黒狼獣人を強者へと変えた。

 そうして、神の化身として、神の代弁者として、彼らは人間に牙をむいた。

 やがて、彼らは北の地の人間たちを支配した。邪魔な魔女を殺し、人間を神へのいけにえにささげた。

 そのうちに、彼らは神に代わって人間を虐げる喜びに目覚めた。

 それから数百年の時が経ち、魔王によって北の地が滅ぼされてもなお、彼らは人間を飼い続けた。

 そうして、彼らは神として、北の地に足を踏み入れた者たちに牙をむいた。

 かつての、彼らの神のように――


 ギルベルギアスの爪が、ガウルの腕を浅く薙ぐ。

 灰色の毛と、赤黒い血が飛び散る。

「その程度か!その程度でこのオレを否定しようなどと考えたのかッ」

 あざ笑うように、なぶるようにギルベルギアスが爪を振るう。牙をふるう。

 かつての黒狼族とは違い、彼は己を鍛え続けた。幸い、この場には多数の強者がいた。魔王軍の支配下にある魔族と魔物。それらは実に都合のいい敵対者だった。

 爪で魔物を切り裂き、牙で肉を食いちぎった。そうして強くなったギルベルギアスが、たかが山奥の森の中で猟師として戦ってきた程度のガウルに劣るはずがなかった。

 ギルベルギアスの攻撃はガウルに届く。ガウルの攻撃はギルベルギアスには届かない。

 無数の魔物を屠って強くなったギルベルギアスは、その毛皮でさえ恐ろしい防御力を有する天然の鎧と化した。その毛は、ガウルの爪程度では切り裂かれない。

 ガウルの力程度の打撃では、その衝撃は完全に吸収される。

 あらゆる攻撃が通じない中、それでもガウルは戦うことをやめない。攻撃を止めない。

 止められない。

 ギルベルギアスを殺さなければならない――それだけが、ガウルの心を占めていた。

 ガウルは魔女が嫌いだ。人間が好きじゃない。自分たち獣人を非人道的に扱ってきた魔女を許せない。魔女はすべて滅べばいいと思っているし、獣人には魔女を滅ぼす大義があると思っていた。だからこそ、魔女の孫娘であるというベルコットに対して、一歩も引くことなく魔女の皆殺しを宣言できた。

 けれどその大義は一瞬で揺らいだ。

 かつて魔女が獣人に行ったことと同じくらいの非道が、獣人によって人間に対してなされていた。その事実は、獣人の悲劇を「喧嘩両成敗」で終わらせる。つまりは獣人もまた迫害されるような存在だったのだと、そういうことになってしまう。

 そうさせるわけには行けなかった。魔女殺しのために、ガウルは己の正義を証明しなければいけなかった。

 ギルベルギアスの腕をかいくぐり、前へと進む。

 神としての力を解放したギルベルギアスは身長五メートル近く。その膂力は圧倒的で、けれど大きくなったからこそどうしても行動は大振りになるし、視覚が増える。

 ギルベルギアスの腕に隠れるようにして、ガウルは全力で斜め前に跳躍する。ギルベルギアスの視覚から彼にとびかかり、その腰を足場にしてさらに跳躍する。

「ラァッ」

 その頭部へと、全力爪を振り下ろす。

 果たして、その爪はギルベルギアスの片耳を深く切り裂いた。

「ギイィァ……ッ、クソがッ」

 くぐもった悲鳴を漏らしながら、ギルベルギアスは空中にいるガウルを逃さない。

全力で振りぬいた爪で、ガウルの片足を深く切り裂く。

 激しく地面に衝突して転がっていくガウルは横たわったまま痙攣を繰り返す。

 怒りに血走った眼をしたギルベルギアスはガウルへと追撃するために一歩を踏み出して。

 何かが迫るのをその目に捕らえた。

 反射的に背後へと飛びのけば、ギルベルギアスの目があったところをナイフが高速で走り抜けていった。

 その先をにらみ――ギルベルギアスは目をむいた。

 それもそのはず。そこには自分の部下であり手足でもある黒狼族の精鋭たちが、血濡れになって山と積まれていたのだから。その前に立つイレイナは、冷たい目でギルベルギアスを見ていた。

 改めて地下空間を見回せば、そこで戦う同胞はもうたった一体しかいなかった。その一体も、ネストとベルコットを前に防戦一方になっていた。

「よくも、オレの同胞を殺してくれたな……ッ」

 ミチミチと全身の筋肉を張り詰めさせながらギルベルギアスが憤怒を叫ぶ。

 それに対して、イレイナは静かな目をギルベルギアスに向けていた。

 その手に握るナイフをくるりと手の中で回す。刃についていた血が飛び散り、魔法具の明かりに照らされて怪しく輝く。

「……死ぬ覚悟は決まった?」

「ぬかせ。死ぬのは貴様だッ」

 瞬間、イレイナとギルベルギアスはその場から姿を消し。

 互いの中間地点で、その爪とナイフをぶつけ合った。


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