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Valkyrie Panzer‐守りたい笑顔‐  作者: 雪代 真希奈
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第4章『心からの笑顔、イツワリノエガオ』

「鶴城さん、お話があるのですが、今よろしくて?」

 俺が社島に来てから一ヶ月ほど後の昼休み。声が聞こえた方を振り替えると、アナスタシアが俺の方を見ていることに気づく。

「アナスタシア…どうしたの?…あ、もしかして、何か生徒会の用事?」

 俺がそう問うと、アナスタシアはふるふると首を横に振ってから言う。

「いいえ、そうではありません。…クリスティナのことです。」

「クリスの?」

「ええ。彼女…クリスティナが、わたくしに特訓を手伝ってほしいと言ってきたのです。」

「え…?それって、ヴァルキリーとしての力を使って、ってこと?」

 俺はびっくりして、アナスタシアに向き直る。

 そりゃそうだ。だってクリスは、あんなに自分の力を使って人が傷つくのは嫌だって思っていたはずだ。なのに、どうして…?

「ええ、そうです。怪我をしないよう、学園の規則に則った空砲や模擬弾でのものですが。どういうわけかはわたくしには理解し難いところではありますが…あの子にとって、何か転機があったと考えるのが妥当でしょう。」

「…そう、なのかな。」

 あの日…クリスがいじめられていたことや辛い思いをしてきたことを知ったときから二、三週間ほどしか経っていないことを考えると、無理はさせられないような気もするが…。

「あ…。か…鶴城さん…アナスタシアちゃん…。」

 再び聞き覚えのある声が聞こえて振り返ると、クリスがもじもじしながらこちらを見て言った。

「お…お二人とも一緒にいたんですね…ちょうどよかったです…。その…今日もアナスタシアちゃんにお願いしたいな、って思って、それはアナスタシアちゃんには昨日お伝えしたんですけど…それで、あの…か…鶴城さんも、一緒に見ていただけないかな、って思ったんですが…。あ…も、もちろん、ご予定が合わないとかであればいいんですけど…!!」

「え…ええと、俺は大丈夫だけど…クリスは平気なの?無理とかしてない?誰かにやれって言われたとか、そういうことなら…。」

「あ…その…違います。違うんです…その…アナスタシアちゃんに特訓に付き合ってほしい、って言ったの、わたしなんです。誰にも何も言われてなくて…だから、大丈夫…です。多分…。」

「…あぁ、それならいいんだけど…。」

 クリスが決めたことというなら、俺にとやかく言う権利はないだろうが…それでも、少し不安はある。

 だが、あの日、俺はクリスを見守ると決めた。ならば、その不安は持ち合わせるべきものではないだろう。

「わかった、行くよ。どこでやってるの?」

「各グラウンドや体育館は部活動やサークル活動があることから、ブロックCの地下演習場を貸し切っています。フィアナと白鷺先生にも予め伝えてありますので、ご心配なく。」

 俺の問いに、アナスタシアが答える。

「ブロックCの地下演習場…オーケー、わかった。…とはいえ…一人でちゃんと行けるかな…俺、まだどこのブロックがどんなところなのか、いまいちわかってないし…。」

 …社島で過ごしてみて、俺ははじめてここに来たときの珀亜さんや重樹の言葉が冗談ではなかったことがなんとなく理解できてしまっていた。

 社島は、パンツァーとオーシャンの学舎、大学部の学舎、その他様々な施設が混在する社島本島と、エールの学舎があり、本島と海中トンネルで繋がる離れ小島、祠島(ほこらじま)の二つの島から成り、それらは伊豆・小笠原海溝のほぼ真上になるよう、地下ブロックから海の中に深く打ち込まれたたくさんの海中ポールで支えられている。そして、学園から離れているショッピングモールや各施設に行くためには、各地下ブロックを繋ぐモノレールを使うことになる上、モノレールから降りた後も場所によってはとんでもなく複雑に入り組んだ立地を以て俺たちを迎えてくれるものだから、道を覚えるのが本当に一苦労なのだ。

 …今のところ、俺は社島の中にある施設をあまり知らない。学園の中ですら行ったことがない場所がある上に、ショッピングモールにある、食材や日用品、本など自分が欲しいと思う嗜好品を買えるようなお店への行き方くらいしか覚えていないレベルだ。ついでに言えば、今日は最後の授業が学年合同の選択科目であるが故、帰りのホームルームがなく、帰りのホームルームでの連絡事項などは、学園が各生徒の部屋に設けた端末を通してメールで送られてくる日だ。敷地が広いことで教室でのホームルームに間に合わない生徒に対する気遣いなのだが…まさかそれが裏目に出ることになるとは。迷わずに行けるだろうか…。

「…あ、あの…鶴城さん、最後の時間、同じ授業ですし…わたし、何度も行って道は覚えているので…その…よかったら、一緒に行きませんか!!」

 クリスが大きな声で言うと同時に、俺は気がつく。

 そうだ、今日の最後の授業の選択科目。俺とクリスは同じ科目…家庭科を取っているのだった。料理や裁縫が好きなことも相まって割と適当に選んだ科目がこんなところで役に立つとは。

「ありがとう、クリス。じゃあ、道案内、お願いするよ。」

「は、はい…頑張ります…!!」

 顔を真っ赤にしながら、ぐっと手をグーの形に握りしめるクリス。

「決まりのようね。では、また放課後に。」

 そう言って、優雅に踵を返して去っていくアナスタシアを見ていると、クリスがぽつりと呟く。

 

「…頑張らなきゃ。」 


 …その言葉が、どういう意味を持っているのかは、俺にはまだわからない。俺がどうして必要なのかもわからない。オーディンが必要なのか、それとも何か別の理由があるのか。

 心の転機になったことは何なのか、教えてもらえるのだろうか。

 …いや、違うな。

 それは俺が無理に聞き出すことではない。ならば、クリスが話してくれるその日までしっかり待ってあげるのが、俺のするべきことだろうと思う。

 時計を見ると、お昼休み終了10分前。

 ゆっくりと、少しずつ進む時計をもどかしく思いながら、俺はお昼休みの残りを過ごしていった。



 最後の授業の時間の家庭科室。

「よし…二人とも、こっちは焼けたみたいだよ。」

 普段使っているエプロンを纏った俺がオーブンの蓋をゆっくりと開けると、甘い香りがふわっと立ち込めてくる。

「おお…鶴城君、やるじゃない!重樹くんから聞いてたけど、お料理本当に得意なんだ~!」

 隣の班のアニヤが、ミトンをはめた俺がオーブンから取り出した天板の上に乗ったマドレーヌたちを見て手を叩きながらそう言うと、隣にいた女子生徒------確か重樹やアニヤと同じパンツァーβ所属のヴァルキリーで、アリーヌ・モランと言ったはずだ------がこちらに気づいたように寄ってきて言う。

「本当ね…男の子って、お料理やお裁縫は苦手っていうイメージがあったけれど、そんなことはないのね。」

「ありがとう。まあ、マドレーヌは実家なんかでもよく作ってたから。それより二人ともごめんね、クッキーの方、ほとんど全部二人に任せちゃって。」

 俺が同じ班のクリスとリゼットにそう言うと、リゼットが俺に向かって言ってくる。

「いえいえ、こちらもほとんどクリスちゃんがやってくれたので、私は型抜きをしたくらいなんですよ。ね、クリスちゃん。」

「ふぇ…リゼットちゃん、そんなことないの…。わたしもお片付けとか、たくさんお手伝いしてもらったし…その…無理とかしてなかった…?」

 クリスの言葉に、リゼットはにこりと笑顔を見せて言う。

「大丈夫ですよ、クリスちゃん。それよりも、ありがとうございます。私に振ってくれた作業…粉っぽいものが飛び散らないようなものばかりでしたし、クリスちゃんの手つきも、できるだけそういったことにならないようにしてくれたんだと思いますから。わたしの体のこと、ちゃんと考えてくれたんだと思ったんです。」

 …そうか。たかが小麦粉ではないかと言われるかもしれないが、しかし喘息を持っているリゼットにとっては、小麦粉を間違って吸い込んでしまうだけでも発作の原因になるかもしれないんだ。クリスはそれをわかっていて、リゼットのできそうな作業をしてもらっていたのだろう。その気遣い、本当に脱帽ものだ。

 そう考えながら、作ったクッキーとマドレーヌを、クリスとリゼットが二人で選んできてくれたというかわいい袋とリボンでラッピングし始める俺たち。そのうちのいくつかは、担任である珀亜さんとαのみんな、そして重樹たちβのメンバー、そしてフィアナさんにあげることを事前に約束している。重樹などはやたらと楽しみにしてくれていて、部屋が隣ということで帰ってから渡すことを伝えてある。…前に重樹は選択科目は高鶴さんの薦めで美術にしたはいいものの、結局授業が眠すぎて困るなんて言っていたから、甘いものを食べることは多少なりとも頭をすっきりさせてくれることだろう。…いや、万年眠そうにしている重樹のことだ、実際どうなるかはわからないけど。


「…アンネとアナスタシアちゃんも、喜んでくれるといいな。」


 クリスがぽつりと呟く。

 実は、俺たちは当初作る予定だった数よりも小さなものを多く作ることにしていた。もう一人、これらを渡したい生徒が出てきたからだ。

 聞けば、クリスはあの日------俺がクリスの力の使い方について彼女と話した後、すぐにアナスタシアに特訓したいという旨を伝えたらしく、何だかんだあってOKをくれたアナスタシアに何かお礼をしたいと思っていたとのことで、予定外の人数分を限りのある材料で、ということであれば、ひとつ辺りの量を減らすことが現実的と考え、今回の形に至った、というわけだ。

「そう言われると…ちょっと不安になってくるな…。」

 俺はクリスの言葉を聞いて、今音楽の授業を受けているはずのアナスタシアの顔を思い浮かべ、少し苦い顔をする。

 そりゃそうだ。アナスタシアは正真正銘のお嬢様。ド庶民の俺たちよりも遥かに美味しいものをたくさん食べてきているだろう。…学食や教室でもご飯を食べてる姿は見たことがないし、どこでどんなものを食べてるのか、正直想像もつかない。生徒の噂を聞くと、目に見えないところで専属のお手伝いさんがどうにかしているのではとか、アナスタシアの家が学園に彼女専用の食事と食事場所を確保させているのではとか、いろいろな憶測が飛び交っているのだが…それが真実なのかも誰も知らないらしいので、その辺りはもう、考えるだけ無駄な気がする。

「…よし、全部できた。じゃあ二人とも、好きなの持っていって。」

 最後のラッピングを済ませると、俺はアニヤとアリーヌに向き直り、テーブルの上に置かれた袋を右手で指し示す。

「三人ともありがと~♪美味しくいただくね。」

「ええ。私もいただくわ。ありがとう。」

 アニヤとアリーヌが各々好きな袋を取った時、終業のチャイムが鳴る。

「あ…もう時間か。クリス、行こうか。」

「は…はい、行きましょう。あの…リゼットちゃん、ありがとう。お菓子、みんなに配ってくれるって言ってくれたから…。」

 クリスが小さな声で言う。作ったお菓子を配るのは、俺が渡す予定になっている重樹の分と、今から渡す予定のアナスタシアの分、それからクリスが渡す予定のフィアナさんの分とアンネの分を除いて、リゼットに事前にお願いしている。クリスにとって、リゼットにお願いしたのはまだ少し抵抗があるようだ。

「いえいえ、大丈夫ですよ。…二人とも、頑張ってくださいね。」

 そう言ってくれるリゼットに感謝しつつ、俺たちは残った片付けを済ませて家庭科準備室に戻り、作ったお菓子…重樹の分を俺が、アナスタシアの分をクリスが、それぞれ教室から事前に持ってきていた鞄の中に仕舞う。

「よし…ブロックCだと、確か校門前のモノレールに乗ってから左回りだったよね?」

 リゼットと別れ、廊下を歩きながら、俺はクリスに聞く。

「ええと…はい、そうです。お借りしている地下演習場は、そこからエレベーターとエスカレーターを乗り継いで、かなり下の方になるんですけど…。」

 そんな話をしながら歩いていると、モノレールの駅の入口が見えてきた。定期券としての役割もある学生証を改札のICカードリーダーにかざして改札を抜け、ホームでモノレールを待っている間、俺は気になっていたことを聞いてみる。

「そういえば…クリス、アナスタシアとの特訓、って、どんなことしてるの?」

「あ…ええと、とりあえず、今は音を怖がらないようにすることと、目を瞑らないようにする、っていうところからやっているんです。…その、わたしの場合、そもそもの問題がそこからなので…。」

「そっか…ところで、なんでアナスタシアに?αのみんなも、話したら手伝ってくれると思うんだけど。」

「あ…あの、違うんです。最初はαのみんなにお願いしようかな、って思ったんですけど、みんな優しいので…無理しないで、って言ってくれると思うんです。でも、それじゃ駄目って思って…。」

 顔を赤くしてもじもじしつつも、ちゃんと答えを返してくれるクリス。

 理由はわからないけど…クリスは、自分に今できることを、一生懸命にやろうとしているんだな。

 到着したモノレールに乗り、ドアに背中を預けながら、俺はそう考える。と、

「あうっ…。」

 モノレールが揺れたことで、クリスがふらっと体勢を崩す。俺は咄嗟に手を伸ばし、クリスの右手を握りしめていた。

「…クリス、大丈夫?」

「あ…はうっ…!ごめんなさい…!」

 びっくりして飛び退くクリス。

「い、いや、俺もごめん…。いきなりだったし、びっくりしたよね?…大丈夫だった?」

「は…はい…大丈夫です…。」

 …よかった。いろんな意味で。

 クリスが何ともないこともそうだが…ここはモノレールの車内だ。最初に会ったときみたいに、びっくりした拍子にヴァルキリーの力を使ってしまった、なんてなったら、俺だけでなく他の人にも被害が及んでしまう。いかに国連から手厚い保護を受けることが約束されるヴァルキリーであっても、法の裁きからは逃れることができない。無闇な力の行使をしてはいけないという部分からしても割とグレーゾーンだというのに、もしも事故であっても人を傷つけてしまったら…。それに…もしも奇跡が働いて何も咎めがなかったとしても、クリスの性格から考えて、きっと人を傷つけてしまったとしたら、そのことを本当に深く深く悔やむだろう。

 (…そんなときが…これからまったくないとも言えないだろうな。その時、オーディンとしてできること…そんな悩みを抱えるヴァルキリーのケアなんかもできればいいのかな。…でも、どうすればいいんだろう。話を聞く?でも、それでも駄目だったら…。俺は、何ができるんだろう…何をしてあげればいいんだろう…?)

 そんなことを考えていると。


「------Next station is block C.」

 

 英語でのアナウンスが流れ、モノレールが止まる。

 開いたドアからモノレールから降りると、クリスが口を開いた。

「え…ええと…鶴城さん、こっちです。」

 彼女の指差した先には、小さなエスカレーターがある。どうやら、あれを使うらしい。

 俺たちがそちらへと行こうとした時。

「…ん?」

 俺たちが乗ろうとしていた下向きのエスカレーターとは逆、こちらへと登ってくるエスカレーターから、誰かの声が聞こえてくる。

 

「…ったく、ついてないねぇ…。ここの地下演習場もだめなんてさ。」

 

「……っ。」

「…クリス?」

 息を止めたクリスに俺が声をかけたと同時に、登りのエスカレーターから声の主らしい、大柄で女子にしてはかなり筋肉質な女子生徒が姿を見せた。

「…あん?誰かと思えば、ローレライの姉の方じゃないか。」

「こ…こんにちは、ヴァネッサさん…。」

 震える声で、クリスが彼女に挨拶すると、そのまま俺の方を向いて言葉を続ける。

「あ…鶴城さんはお会いするのははじめてですよね…この人はヴァネッサ・ゴルトライヒさん…フィアお姉ちゃんと同じ、高等部三年生のヴァルキリーの方…です。ヴァネッサさん、こ、こちら、わたしたちのオーディンの方で、鶴城 誠さん…です…。」

 ヴァネッサ・ゴルトライヒ先輩。

 今まで頭の片隅に放り出していたが、その名前は覚えがある。確か、俺が社島に来て、ヴァルホルに通い始めた初日、俺たちのところに来たアナスタシアやヴィクトリカがその名前を出していたはずだ。

 ゴルトライヒ先輩は、尻すぼみになるクリスの言葉を聞くなり妙な物を見るような目をして言った。

「それはいいけどさ、あんたこんなところで男連れて一体全体何してんのさ?ここは地下演習場への道なりだよ。弱虫のポンコツはさっさと寮に戻っておねんねしてな。それとも、またドジを踏んで迷いこんだとかかい?」

「…あ、あの、違うんです。わたし、アナスタシアちゃんとこれから練習を…。」

「シャシコワと練習?何だいあんた、ようやくヴァルキリーとしての力を使う気になったのかい?」

「あの…使う気になったって言うよりも…その…。」

 しどろもどろになるクリスに、ゴルトライヒ先輩はふん、と鼻を鳴らす。

「ま、どうせあんたのことだ、自分の砲の音すらまともに聞けないところからのスタートだろうからね。あたしが気持ちよくぶっ放せる場を奪ってまで特訓するんだ、そのニーベルングの環に浮かんだ数字と、名戦車ティーガーⅠの名を汚したままにしないよう、精々頑張りな。」

 そう挑発的に言って、クリスの隣の俺のことなどほとんど見ずに、ゴルトライヒ先輩は去っていく。

「……ごめんなさい、鶴城さん。わたし、また鶴城さんにご迷惑なことをしてしまったかも…。」

 少しずつ声が萎むクリス。

「あぁ、いや、気にしないでよ。俺も全然気にしてないし、そもそも気にするようなことも思い浮かばないし…。」

 俺がそう言うと、クリスは小さく呟くように続ける。

「…あの人は、アナスタシアちゃんのチーム…パンツァーΩのヴァルキリーなんです。第二位ヴァルキリーで、おまけにすごく好戦的で…アナスタシアちゃんのチームを作ったのも、あの人がアナスタシアちゃんと試合をして負けて、その強さに惹かれたから、って言われてます。」

「あー…。」

 そういえば、パンツァーΩはアナスタシアを持ち上げたい人が勝手に作ったとか何とか言ってたっけ。その筆頭が彼女ってことか。

 …まあ、でも。

「とりあえず行こう。先輩の話じゃ、どうやらアナスタシアもまだ来てないみたいだし。少しでもウォーミングアップしておこうよ。ね?」

 俺はクリスが何かを言葉にする前に、少しでも前向きな言葉をかけてみる。

 …今のゴルトライヒ先輩の言葉を考えるに、放っておくとクリスはまた、小さく小さく萎んでしまうだろう。俺が前向きな言葉をかけてクリスがどう思うかはわからないが、アナスタシアへの特訓のお願いをすることは、クリスが自分の意思で決めたこと。ならば、今俺ができることは、クリスがその意思をしっかりと持ち続けられるように、少しでも支えることだけだ。

 (…クリスは、自分を少しでも変えるために頑張っているんだ。俺も、今できることをしよう。)

 俺は心の中で、静かにそう呟いた。



「…あら、お二人とも、早いのですね。」

 俺たちが演習場に入って五分ほど経った頃、アナスタシアが演習場へとやって来た。

「あ…アナスタシアちゃん…今日も、よ、よろしくお願いします…。それから、こ、これ、よかったら食べてください!」

 クリスが、アナスタシアにぺこりと頭を下げて、さっき作ったお菓子の袋を取り出し、アナスタシアに手渡す。

「…これは?」

 首をかしげるアナスタシアに、クリスが一生懸命に答える。

「そ…その、最近、ずっとアナスタシアちゃんに練習、付き合ってもらって、何かお礼…したいな、って…でも、こんなのしか思いつかなくて…。」

「…そう。後ほどいただくわ。」

 そう言って、アナスタシアはその袋を鞄に仕舞う。

「あ…あの、クッキーはわたしとリゼットちゃんで一緒に作ったもので、マドレーヌは鶴城さんが作ってくれたもの…なんです。あ…これ…別に伝えなくてもよかったのかな…自慢みたいになってたりしないかな…。うぅ…誰が作ったか言わなくちゃって思ってたけど、やっぱり言わなきゃよかったような…。」

「…鶴城さんも…?」

 俺の方を向いて、アナスタシアが問う。

「あぁ、うん。ほら、俺、クリスと同じ家庭科の選択だからさ。それに、お菓子とか結構作るの好きで、昔から作ってたんだ。…さすがに、アナスタシアの口に合うかはわからないけど…よかったら、クリスたちが作ってくれたクッキーと一緒に食べてくれたら、嬉しいかな。」

 アナスタシアは、「そうですか。」と、少し考える素振りを見せてから、お菓子を仕舞った鞄を傍らに置いて言った。

「では、さっそく始めましょう。鶴城さん、一先ずは少し離れて見ていてくださるかしら。」

「あ、うん、わかった。」

 俺はアナスタシアに頷いて、邪魔にならなそうなところに下がった時。

 

「------Возьми меня в ледяной мир」

 

 アナスタシアが小さく呟いたその瞬間、彼女の体を覆ったスヴェル。それは、映画で何度か見たことのある、旧ソビエト連邦軍の軍服をアレンジしたものだ。その各所には、ぱっと見るだけでもかなり厚い深緑色の装甲が散りばめられ、右腕の装甲についている砲塔は、華奢なアナスタシアが持ち上げられるものなのかと思うほどに大きなものだ。

(……これがアナスタシアの…IS-7のヴァルキリーとしての力…か。)

 俺は、今まで調べたり聞いたりした知識を引きずり出して、ヴァルキリーとしての力を発現させたアナスタシアの姿を見る。

『IS-7』。

 ソビエト連邦が、ティーガーシリーズをはじめとしたドイツ軍機甲部隊に苦しめられた経験を基に開発を進め、機動性、火力、防御力、それらすべてを兼ね備えたという、まさに最強と名高いアナスタシアの力に相応しい重戦車。

 おもむろに、アナスタシアがその右腕の巨大な砲身を持ち上げたと思うと------


 ーーーーードオォォォォォンーーーーー!!


 瞬間、アナスタシアの砲身から耳をつんざく爆発音が轟き、俺は咄嗟に耳を手で塞いでいた。 

 アナスタシアの近くにいたクリスの方を振り向くと。

「…う…うぅ…。駄目…怖がっちゃ…駄目…!!」

 震えながらぽろぽろと涙を溢しながらも、クリスは耳を塞ぐことなく、元いたところと同じところに立っている。

「…どうやら、音への恐怖心は少しでも緩和されたようね。」 

 未だ硝煙が漂う砲身を下ろし、アナスタシアが言う。

「…え、ええと、アナスタシア、これ、何だったの?今の…。」

 さすがにいきなりグングニルを撃つと思わなかった俺は、そうアナスタシアに問う。すると、代わりにクリスが答えてくれる。

「…あ、あの、鶴城さん…これ、一日どこかで必ずやるんです。わたしの近くでアナスタシアちゃんが空砲を撃って、わたしがその日、怖がるか怖がらないか、って。…昨日は終わる直前、その前は時間の真ん中あたりでした。」

 …あぁ、来るときに言っていたやつか。

 そんなことを考えていると、アナスタシアがクリスに目を向ける。

「クリスティナ、次はあなたの番です。自分のグングニルの音、しっかりと目を開けて聞きなさい。」

「は、は…はい!!」

 クリスが、目を閉じる。

「------っ…!!」

 そのままクリスが息を大きく吸い込んだ時、クリスの全身を、これまた映画などで見たことのある、旧ドイツ陸軍の軍服と帽子を可愛らしくアレンジしたような衣装が包み込む。そして、その服の各所に現れたサンドブラウンの装甲と、右腕に現れた、アナスタシアのものほどの大きさはないものの、それでも無骨かつ長大な砲身。

(ティーガーⅠのヴァルキリーとしてのクリスの力…実際に見るのはほとんどはじめてだな。)

 俺は、スヴェルに身を包んだクリスの姿を見て、そんなことを考えていた。

 実は、以前寮のお風呂の壁をぶっ飛ばした時以外に、俺はクリスのヴァルキリーとしての力を目の当たりにしたことはなかった。社島に来てから、何度か授業の中でαのメンバーのスヴェルは見たことがあったし、シャーリーやヴィクトリカ、エレーナ、それに飛鳥とは、実際にビフレストの接続もしたことがある。だが、いつもクリスはリゼットと見学組に回っている。それゆえ、クリスとリゼットのスヴェルは、実際に見る機会がほとんどなかったのだ。

(…しかし、最初に見たときは何とも思わなかったけど…フィアナさんの言ってた通り、クリス、本当にルーンを唱える必要がないんだな…。)

 俺はいつかのフィアナさんとの会話を思い出し、また頭の中で呟いていた。

 クリスは------ルーンの詠唱なしに力を引き出すことのできる、唯一無二のヴァルキリー。その上、最上位ヴァルキリーであること、ティーガーⅠというかなり名の知れた戦車の力を宿すこと…あの時、フィアナさんから聞いた話を考えると、周りの期待というのは本当に大きかったのだろう。そして、自分はその力は怖いものと思いつつも、周りの期待には応えなくてはと思い続けたクリスの心の苦しみも、それと比例するように大きくなっていったのだろうということも、なんとなく理解できてしまったと思う。

 …クリスの性格を考えると、本来ならこの姿になることも抵抗があるのかもしれない。スヴェルの大部分のデザイン自体は、ブレザータイプである学園の制服とそれほど変わりはないものの、同い年の女の子が…それもクリスみたいな優しい女の子が、装甲や武装を各所に施した軍服調の戦闘服を着ているのだから、側から見ている俺からしても、やはり、違和感をすべて拭うことはできない。

 …でも。

(クリスは、真剣なんだ。なら…俺がするべきことは、今のクリスの格好に違和感を覚えることじゃない。クリスの成長を、目の前で見守ることだけだ。)

 俺がそう思った時。

「準備はよくて?ではクリスティナ、先ほども言った通り、あなた自身でグングニルを撃ってごらんなさい。」

「は…はい…!」

 クリスが、右手のグングニル------おそらく、あれがティーガーⅠの主砲…「8.8センチ砲(アハト・アハト)」と呼ばれるものだろうーーーを、少しずつ持ち上げる。

「------っ…。」

 持ち上げた砲身が少しずつ震えを増し、クリスの緊張と、自分の掲げた砲から放たれる轟音を聞くことになる恐怖を如実に伝えてくる。

(クリス、頑張れ…頑張れ!)

 俺がクリスに心で呼びかけた時。

 

「う…うぅ…。」

 

「…クリス?」

 その場にぺたんと座り込んで泣き出してしまったクリスを見て、俺は呟いていた。

「…やはり、まだ怖いのね、クリスティナ。」

 アナスタシアが呟き、クリスの元へと歩き出す。

「クリスティナ、しっかりなさい。あなたは何のためにここにいるの?あなたに何があったのかはわからないけれど、何かを誓ったからここにいるのではなくて?その誓いは違えてもよいものなのかしら?」

「え…アナスタシア…。」

 俺は声を上げていた。さすがに泣いているクリスに、その口調は強すぎるのではと思ってしまったのだ。

 そんな俺に、アナスタシアが俺に視線を向けて言う。

「鶴城さん…あなたにとって、強さとは一体どういうものかしら。敵を倒す強さがすべて?それとも何か別のものかしら。」

「…え?」

 いきなりの質問に、俺は戸惑ってしまう。アナスタシアはそのまま続ける。

「わたくしは今まで、敵を倒し、片端から排除することそのものが、強さそのものであると考えてきました。わたくしのヴァルキリーとしての力…IS-7の力を宿した理由は、そのためにあるもの、と。

 もちろん、それが間違っているとは思いません。当然、クリスティナもそのための強さを身につけるために、わたくしに稽古をつけてほしいと頼んできたのかと、はじめは思いました。

 でも、どうやら違う…この子が破りたい殻はそんなものではない。確かに、わたくしにその真意はわからないけれども、この子がしたいことは、敵を倒すよりも遥かに難しいこと…自分自身に打ち勝ちたい、強き心を持ちたい、と思うことなのはわかります。そこで、わたくしは感じたのです。この子の欲する強さ…心の強さというものもまた、ひとつの強さの形なのだと。

 しかし、物理的な強さも、心の強さというものも、それを得るために必要なことはほぼ同じ…周りから優しさを向けられるだけではない…その中で、相応の厳しさも向けられなくてはならない…わたくしはそう考えているのです。」

「でも------」

「鶴城さん。大丈夫です。」

 クリスが、俺の言葉を絶ってから続ける。

「アナスタシアちゃん…。わたし、もう一回頑張ってみます。…見ていてくれますか…?」

「ええ。もう一度やってごらんなさい。」

 アナスタシアの言葉に頷き、クリスは立ち上がり、また砲身を持ち上げる。

 

 …結局、クリスの砲は一発も火を噴くことなく、今日の特訓は終わりを迎えたのだった。



 特訓を終えた後、クリスはフィアナさんとアンネにお菓子を渡してこなくては、と言って、足早に帰っていった。

「うわ…こんな暗くなっちゃったよ…。」

 アナスタシアとモノレールに乗り、学園と寮の最寄り駅で降りた俺は、外が完全に真っ暗になっているのを見て、そう口に出していた。

「アナスタシア、いつもこんなに暗くまでやってるの?」

 俺が傍らのアナスタシアに問うと、

「いつもではありません。双方都合の悪い時もあります。その度に遅くなるわけにはいきませんので。」

 …そりゃそうか。

 アナスタシアと一緒に、寮への道を歩く。

 …そういえば、アナスタシアとこの道を歩くのははじめてだな。新鮮ではあるが…ただ、相手はヴァルホル随一の有名人だ。その辺の男共に見つかって袋叩きに遭わなければいいのだが…。

「鶴城さん。」

「え…な、何?」

 ふと声をかけられ、思わずびっくりしてしまう俺。

「…先ほどのわたくしへ渡したもの…あれには、どんな意味があって?」

「え…。」

 また、突拍子もない質問。俺は固まってしまう。その間にも、アナスタシアの言葉は続く。

「クリスティナは、先ほどこう言いました。『わたくしに礼がしたい』。あの子が礼をしたいと思うのは、どのわたくし?最上位ヴァルキリーとしてのわたくし?それともシャシコワ家の娘としての?」

「……。」

 俺がアナスタシアの言葉を、なかなか噛み砕けずにいたところ、アナスタシアが言った。

「クリスティナは…あの子は、わたくしに稽古を申し出てきたとき、こう言っていました。『友だから、信頼したいと思うから』と。そうであるなら、おそらく、先ほど渡してきたものは、友としての礼、ということなのでしょう。」

 え…?

 俺は少し考えた後、なぜ先ほどクリスが、自分を叱咤するアナスタシアの言葉を俺が咎めようとしたとき、「大丈夫」と言ったのかを知る。

 最上位ヴァルキリーとしてのアナスタシア。

 名家シャシコワ家の娘としてのアナスタシア。

 …多分、クリスが見ているのは、そのどちらでもない。クラスメイトとして、友達としてのアナスタシアなんだ。

 きっと、クリスはしっかりとわかっている。力を貸してくれて、優しさを向けてくれる人だけが友達じゃない。時には自分に対して厳しさを向けてくれる人もまた、一人の友達なのだということを。

 アナスタシアは、その紫の瞳でもう一度俺を見つめて言う。

「では、あなたは?あなたは、わたくしのことをどうご覧になられているのかしら。」

 俺はその問いに少し首を傾げ、やっぱりこれかな、と思ったものを告げる。

「…少なくとも、お嬢様とか、最上位ヴァルキリーとか、そういうのじゃないかな。それって、全部アナスタシアっていう一人の人間がいるから成り立つんだと思うし。ほら、そもそも、それだけでアナスタシアの全部がわかるわけじゃないしね。色々噂もあるみたいだけどさ、本当のアナスタシアがどんな人間なのかは、噂程度じゃわからないし。話してみて、その中で理解できることだってきっとあるはずだから。…どう言っていいのかわからないけど、友達って、そういうものだと思うんだ。」 


「…では、あの子を…クリスティナを見守りたいと思う気持ちを持っているわたくしたちは…。」


 アナスタシアがぽつりと呟いた時。

「…あ。」

 寮の明かりが、少しずつ近くなっている。

 アナスタシアが一瞬こちらを向いて、

「…では、わたくしは先に戻ります。ご機嫌よう。」 

「あ、うん。また明日、教室で。」

 早足で去っていくアナスタシアに、俺はそう返事を返し、遅れて寮への道を歩きだす。部屋に着いた後、鞄を机の脇に置き、冷蔵庫から夕飯のために作り置きしておいたタッパーを出してきてレンジで温めていると、

「…また明日、か。」

 そんな言葉が、口からこぼれ出していた。

 …そういえば、クリスは割と慌ただしく帰ってしまったが、ちゃんと帰れただろうか。また俺の見えないところでいじめを受けていなければいいが。

「おーーーい、誠…。」

 そんなことを考えていると、とんとんドアを叩く音と共に、重樹の声が力なく聞こえてきた。

「…あ。」

 しまった、部屋に入る前に重樹にお菓子渡すの忘れてた。

 俺は慌ててドアを開けると、重樹が勢いよく転がり込んできて、

「おお、帰ってきたみてーだな…。」

「いや、うん、遅くなっちゃってごめん…じゃなくて、どうしたの重樹…?」

「あぁ、菓子もらうついでに晩飯一緒に食おうかと思ったら、お前なかなか帰ってこねぇからよ、帰ってくるまで一眠りするかと思ったら食堂閉まっちまって…。」

 うわぁ、それは完全に連絡を入れなかった俺が悪い。

「と、とりあえず入って。簡単なものでよければ作るから。」

「お、おう、サンキュー…。」

 今にも空腹で倒れそうな重樹をテーブルに座らせ、フライパンを取り出した俺は、冷蔵庫にあるものを確認する。明日買い出しに行こうと思ってたからそれほどのものは残ってないが…よし、オムライスか炒飯は作れる。

「重樹、オムライスと炒飯、どっちがいい?」

「あー、どうすっかな…よし、炒飯で頼む。」

「わかった。ちょっと待ってね。」

 そう言って、俺は黙々と炒飯を作り始める。

「…よし、こんなもんか。重樹、はい、炒飯お待たせ。」

 できた炒飯をお皿に盛って、レンゲと一緒に重樹の前に出すと、重樹は一心不乱に食べ始める。よほどお腹空いてたんだな…というか、いつも重樹の食べる量に合わせて作っちゃったけど、このあとお菓子食べられるのかな…。

「…あぁ、やっぱお前の飯はうめぇな!たまに弁当作って来るときも思うけどよ、食堂にも負けてねぇ。」

 重樹が食べながら言うが、俺は首を振りながら返す。

「いや、それは言い過ぎ…。食堂のご飯を見ると、やっぱり見劣りしちゃうよ。」

「ははっ、相変わらず謙虚だなお前は。ま、そこがお前らしいんだけどな。」

 笑いながらそんなことを言う重樹に、俺も笑いを返す。

「あ…。」

 俺はあることに気がつく。

 重樹曰く、食堂はもう閉まっている。ということは…クリスもアナスタシアも、夕飯はどうしたんだろう。クリスは料理をするらしいから大丈夫かもしれないが、万が一ということもある。アナスタシアは俺とほぼ同じ時間に帰ってきたわけで、ついでに言えば彼女が自分で料理をするとは聞いたことがない。今日一緒にいた時の感じからして、どうやら社島にお付きの人がいたりするわけでもないようだし…。

「…お腹、空かせてるよな。多分。」

 一応、さっき渡したお菓子はあるが、お世辞にもお腹を満たせるようなものではない。ショッピングモールまで行けば何か食べるものはあるはずだが、今から行くのはかなり時間がかかるはずだ。

 …様子、見に行ってみるか。

 俺は炒飯を掻き込む重樹に少し出かけてくることを伝え、部屋を出る。女子の階層はこの上の階からだ。階段を登ったところにある寮長室に声をかけ、寮長さんに許可をもらってから、俺は教えてもらったクリスとアナスタシアの部屋へ向かうべく爪先を向ける。さて、先にどちらに行くべきか…。

「あら?鶴城さん?」

「あらあら、本当ですわね。どうかなさったのですか?」

 ふと、後ろから声をかけられて振り向くと、フィアナさんと千代先輩が不思議そうな顔でこちらを見ていることに気がついた。

「あ…フィアナさん、千代先輩、こんばんは。」

 俺は二人に挨拶をしてから、事の経緯を説明する。

「なるほど…それで、クリスティナとシャシコワさんがお腹を空かせていないかどうかを確かめにきた、と。」

「はい。…変、ですかね?」

「まさか。鶴城さん、本当に気遣い上手ね。千代もそう思うでしょう?」

「ええ。とても。でも、アナスタシアさんのお食事は心配ありませんわ。彼女のお食事は、いつもわたくしの家が経営している料亭…ショッピングモールにお店を出させていただいていて、先生方もよくご利用されるのですけれど、そこでご用意させていただいているのです。ほら、その証拠に…。」

 そう言って千代先輩がふと顔を上げると、先ほど俺が向かおうとしていた先から、ドラマなどでよく見る板前さんのような格好をした若い男の人が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。彼は千代先輩に気づくと、こちらに近づいてきて、料理帽を取って深々と千代先輩に礼をする。

「これは千代お嬢様。お帰りなさいませ。」

「ご機嫌よう、大和(やまと)さん。本日もご苦労様ですわ。」

「いえ、そんなことは…。お嬢様のご友人のお食事を私どもに任せていただいているのです。まだまだ見習いの身ではありますが、毎日気の引き締まる思いです。…では、私は片付けがございますので、失礼いたします。おやすみなさいませ、お嬢様。」

 そんなやり取りをして、男の人が一礼して去っていく。

「…ね、驚かれたでしょうか?」

 千代先輩が言う。

「あ…ええ、まあ、驚きました、すごく。…でも、どうして千代先輩の家の系列のお店がアナスタシアの食事を…?」

 疑問に思ったことを、俺は素直に口に出す。

 千代先輩の家…峰風家が、服屋さんや飲食店、その他いろいろなお店を経営しているということは、おそらく大抵の日本人が常識レベルで知っている。生徒会の手伝いの合間に本人やフィアナさんから聞いた話によれば、千代先輩の家は社島やヴァルホルとの関係も深く、制服の制作やショッピングモールに入っているお店のいくつかの経営は千代先輩の家で行っているのだという。

 …だが、それにしてもなぜ、千代先輩の家で経営している料理屋さんがアナスタシアの食事を作るのだろうか。シャシコワ家と峰風家、双方が名家である以上、繋がりはある程度あるのかも知れないけれど…。

 千代先輩が口を開く。

「…アナスタシアさん、実は彼女、ご自分がよしと認めるもの以外のお料理は受け付けられないのですわ。先ほどの彼…大和さんは、ご自身はまだまだ見習いと仰っていて、お店のスタッフさん全員が彼女のために、というように仰っていましたけれど、以前彼女にお出ししたお料理を認められたことで、東京の本店から社島のお店へと移り、ヴァルホルにおけるアナスタシアさん専属の料理人として腕を振るわれているのです。」 

 え…。

 俺はそこで、さきほどの男の人が言っていたことの意味を知る。

「…そんなことが、あるんですね。」

 …マジか、ということは、俺とクリスが今日渡したお菓子…俺もクリスもお菓子作りは好きだが、専属の人からすれば、俺たちの料理なんてそれこそ下手の横好き程度のものでしかないだろう。…いかん、本気で自信がなくなってきた。

 そんなことを考えていると。

 

「…あれ?」


 見覚えのある女の子が、階段を下りてくる。

「クリス…?」

 心なしかしょんぼりした顔をしている彼女に、俺は声をかけてみる。

「あ…あれ?鶴城さん?ここ、女子の階じゃ…あ…もしかしてわたし、また間違えちゃったんでしょうか…?」

 不安そうに言うクリスに、フィアナさんが言う。

「安心なさい、クリスティナ。鶴城さんは単にこちらに用事があっただけのようだから。あなたが間違えているわけではないわ。」

 そう聞いて、ほっと胸を撫で下ろすクリス。

「でも、どうされたのですか、クリスティナさん。何やら少しお元気がないように見えますけれど。」

 俺と同じように様子がおかしいことに気づいたのだろう、千代先輩がクリスに問う。

「あ…いえ、特には…。」

「クリス、我慢するの禁止。言ったよね?」

 俺はクリスの言葉に蓋をするように言う。そんな言葉が出てしまうくらい、クリスは演習場で別れた時と比べてもしょんぼりした雰囲気を出していたからだ。

 クリスは少し迷った顔をして、少しずつ口を開く。

「…あの…アンネのお部屋、行ったんですけど…その…お菓子、渡せなくて…ちゃんと渡したかったんですけど…。」

「お菓子…?ああ、さっき私にも渡してくれたものかしら。」

 フィアナさんが、クリスの言葉に笑顔で反応する。しかし、クリスは暗い顔を崩すことなく、小さな声で呟くように言った。

「…わたし、アンネに伝えたんです。リゼットちゃんと鶴城さんと一緒に作ったものだ、って。そうしたら…アンネは…『誰かと一緒に作ったものはもらいたくない』って…。そのまま、ドアを閉められちゃって…。」

 …何だそれ。まあ、確かに俺のことはアンネもフィアナさんや重樹から聞いているはずだし、誤解とはいえ初対面で平手打ちをかました相手を忘れることはできないだろうが…。もしもそれが原因ならば、俺も相当嫌われたもんだと思わざるを得ない。…リゼットのことまで邪険にしているところを見ると、それだけではないようにも感じるが。

「…クリスティナ、とりあえず、私のお部屋に行きましょうか。少しお話をして、気を紛らわせましょう。さっきもらったお菓子、まだ食べていなかったの。一緒に食べましょう。ね?」

 フィアナさんが、クリスを元気づけるように声をかけ、クリスがそれにこくんと肯定を返すのを確認してから、俺に向き直る。

「そんなわけで、これから私とクリスティナでお茶会かしらね。鶴城さん、それじゃ、また明日ね。」 

「では、わたくしも失礼しますわ。フィアナさん、クリスティナさん、鶴城さん、ご機嫌よう。」

「あ…はい、失礼します。クリス、また明日。」

 そうして、クリスやフィアナさん、それから千代先輩と別れ、部屋に戻ってくる。

「おう、帰ってきたか。ああ、炒飯ごっそさんだぜ。」

 結局、クリスがご飯をちゃんと食べたかは聞きそびれてしまったな。そう思って部屋のドアを開けると、まだ部屋にいた重樹が、米粒ひとつ残さず空っぽになったお皿を手にして待っていた。

「お待たせ。はい、じゃあおまちかねのデザートかな。」

 俺は鞄からお菓子の包みを取り出し、重樹に手渡す。

「おお、ありがとよ。さっそく食わせてもらうぜ。初瀬がリゼットからもらってたからよ、俺も今か今かと待った甲斐があったな。…うん、やっぱうまいぜ。」

 そう言って、次々にクッキーとマドレーヌを嬉しそうに口に放り込んでいく重樹。

 それを見ながら、俺はひとつ考えていることがあった。


(「認めた者の作ったもの以外は受け付けない」、「…誰かと一緒に作ったものはいらない」、か。)


 先ほど、アナスタシアのことについて千代先輩が言った言葉。そして、クリスがアンネから聞いたという言葉。

 アナスタシアの方はまだわかる。だが、アンネの方がまったくわからない。なぜなら、アンネの言い分を考えると、例えクリスが作ったものであっても、俺たちと協力して作ったものならばいらない、と言っているようなものだ。そこにどれだけクリスの努力があったとしても、その言葉を使うだけでクリスの頑張りは全否定されてしまうことになる。

(「…アンネは、クリスのこともどこかで気にくわないと思っているのか?…でも、もしもそうなら、あの時俺からクリスを守ろうとする理由がない。単に知らないふりをすればいいだけだ。

 それとも、普段は知らないふりをして、あの場に俺がいたことで俺に罪を擦り付けて自分は知らんぷりでも決め込むつもりだったのか…?

 そもそも、あの下駄箱の一件がアンネの自作自演であることだって否定できない。そもそも、彼女はクリスにとって、一番怪しまれにくい妹という立場だろうし、やろうと思えば可能だろう。

 だが、もしもそうならあの場にいた二人はどう説明する?確かに目の前では他人とは距離を置く素振りを見せながら口裏を合わせられる友人を探した、なんてことも考えることはできるけど…。でも、そんな大がかりなことをする理由だってないはずだ。…あの行動の意味を今になって詳しく聞いてみたい気もするけど…さすがに教えてくれないよなぁ…。」)

 

 …考えれば考えるほど、根拠もない妄想が頭の中を駆け巡ってくる。

 …でも。


(「…それでも、俺は、信じてあげなくちゃならないんだろうな。」)


 俺には真意は何もわからない。しかし、根拠のないことよりも、あの時アンネが俺を折檻しようと手を上げた事実を尊重しなくちゃならないし、その時に言っていた言葉を信じてあげなくてはならないだろう。

 それに…俺はクリスとアンネの過去を、フィアナさんからもう聞いてしまった。そんな過去があったなら、そうなってしまうのも仕方のないことかもしれない。…まあ、部外者の俺がとやかく言える立場かと言われても文句は言えないことだけど。


(…もう少し、話ができたらいいんだけどな。)

  

 重樹とお菓子を食べながら話をしていても、その考えが頭の中から離れることはなく…結局、重樹が帰っても眠りにつけなかった俺は、一睡もせずに次の日の朝を迎えたのだった。


※※※


(another view“Anastasia”)


「…ふぅ。」

 夕食を済ませ、わたくしはベッドに腰かける。

 今日の夕食も美味だった。

 わたくしのヴァルホルの入学に合わせてこの島の店舗へとやってきたという彼の料理…千代とそのご家族と共に訪れた、東京の料亭。そこではじめて彼の料理をいただき、わたくしはその味と彩りを素直に讃えた。

 社島に来てからも、彼は毎日、わたくしのために料理を作り続けてくださっている。

 …彼の料理は、いつもあたたかく、飽きのこないもの。

 千代に聞くところによれば、料亭で使っている食材は、どれも目利きの人間がしっかりと厳選したものであるらしい。しかし、料理の味は材料の良し悪しやレシピの正確さだけでは決まらない。食べる者の好みを把握し、食べることを楽しめるよう手間をかけることを惜しまぬこと。彼の料理にはそれがある。だからこそ、わたくしは彼の料理を素直に讃えることができた。

「…あっ。」

 …忘れていた。そういえば、今日はもうひとつ。

 わたくしは鞄から、先ほどクリスティナから手渡されたもの…可愛らしい包みの中に入ったクッキーとマドレーヌを取り出す。

「……。」

 リボンで封をされたその包みを開けると、中からふわっ、と甘い香りが漂ってくる。

 わたくしはクッキーを手に取り、一口齧ってみる。

「------。」

 わたくしの心臓が、とくん、と大きな鼓動を刻む。

 ふわりとバターの風味が香り、甘すぎないもののしっかりと口の中に残る後味に、わたくしはゆっくりと息をつく。

 今度はマドレーヌを取り出し、口に運んでみる。

 ------わたくしの心臓がまた、とくん、と跳ねた。

 作ってから時間が経っているにも関わらず、ふわりとした食感は衰えていない。クッキーと同じ控えめな甘さは、好みの飲み物などともある程度合わせられるように、という配慮もあるのだろう。

 …きっと、このクッキーにもマドレーヌにも、特別な材料は用いられてはいない。

 しかし、このクッキーとマドレーヌに、わたくしは先ほどの夕食と同じものを感じていた。


(「…少なくとも、お嬢様とか、最上位ヴァルキリーとか、そういうのじゃないかな。」

「ほら、そもそも、それだけでアナスタシアの全部がわかるわけじゃないでしょ?色々噂もあるみたいだけどさ、本当のアナスタシアがどんな人間なのかは、噂程度じゃわからないし。話してみて、その中で理解できることだってきっとあるはずだからさ。」

「…どう言っていいのかわからないけど、友達って、そういうものだと思うんだ。」)


 帰り際の鶴城さんの言葉が、わたくしの頭をよぎる。

 …このクッキーとマドレーヌは、どうして美味なのか。

(「------これは、あの二人がわたくしのために用意したもの。そして…わたくしのことを友と言ってくれた二人の気持ちのこもったもの。」)

 わたくしは、心からそう思う。

 「------ふふ。」

 わたくしは久しぶりに、年頃の少女のように笑うことができたような気がした。


※※※


 次の日。

「…やばい、無茶苦茶眠い…。」

 俺は机に突っ伏して、朝のホームルームが始まるのを待っていた。

 昨日一睡もできなかったのに、そんな時に限って朝になると急に眠気が示し合わせたようにすっ飛んでくる。寝たら確実にお昼まで部屋のベッドで熟睡コースだと判断した俺は、お弁当の用意も今日はせず、朝もはよから教室に来て少しでも休もう、と考え、まだ誰も来ていない教室の机に一人突っ伏している、というわけだった。

(…あぁ、窓際の席ってこういうときいいよなぁ…。)

 窓から入ってくるあたたかな朝日が心地よい。重樹がいつも眠気に負けているその気持ちを理解してきたと思うと、ドッと眠気が押し寄せてきた。

 俺はこのまま眠気に身を任せて------


「…あ…。」

 

 鈴の鳴るような声が聞こえる。誰かが教室に入ってきたようだ。

 その誰かは俺の隣の席に腰かけ、こちらを覗きこんでいる。

「…鶴城さん…寝ていらっしゃるみたいですね…寝ているお顔…可愛らしいです。…よく見ても怒られないかな…そーっと、そーっと…。」

 その誰かの声が、どんどん近づいてくる。

「…ん…んん?」

 目を開けた俺は、まだあまり回っていない頭を上げる。

「ふぇ…?」

 目の前には、金色の長い髪とエメラルドの大きな瞳、整った顔立ちの女の子が俺の顔を覗きこんでいた。

「…クリス?」

「はうっ…!?」

 この反応、間違いない、クリスだ。クリスは俺が起きたのに気づくや否や、顔を真っ赤にしながらわたわたと手を振り回し始める。

「ち…ちちち違うんです!教室に入ったら鶴城さんが気持ち良さそうに眠っていたので…その…あぅ、可愛らしいと思って、気がついたら…。」

 …何だろう、聞いてるこっちが恥ずかしくなってきた。

「…あら、お二人とも、おはようございます。」

 教室の引き戸が開き、また新たな人影が現れる。

「あ…アナスタシアちゃん…。お、おはようございます…。」

 クリスが、入ってきたアナスタシアにぺこりと頭を下げる。俺は一瞬遅れて、眠気が吹き飛んだ顔をアナスタシアに向けた。

「アナスタシア、おはよう。早いんだね。」

「ええ、わたくしは毎日この時間に来ています。いつもわたくしが一番乗りなのですが、今日は二人に一番乗りを奪われてしまったようですね。」

「あ…うん、なんかごめん。」 

 何やら申し訳ない気がして、俺は何となく謝ってみる。

「気にすることはありません。本日はたまたま、あなたたちが先にいらっしゃっただけのこと。」

 そう言って、アナスタシアは自分の席に鞄を下ろすと、少し迷うような仕草をした後、こちらに来て言った。 

「…丁度良いでしょう。この場を借りて、二人には礼を言わなくてはなりません。」

 アナスタシアが、俺とクリスを見つめる。

「お礼…?」

 よくわかっていない俺とクリスに、アナスタシアは今まで見せたことのない、年相応の女の子としての微笑みを浮かべて言う。

「…先日、クッキーとマドレーヌを差し入れてくださったでしょう?とても美味でしたから、その礼をと。」

「え…。」

 俺は目を丸くした。隣を見ると、クリスも真ん丸い目をしてアナスタシアを見ている。

「…わたくしは、何かおかしなことを言ってしまったのかしら?」

 俺たちが何も言わないことを不思議に思ったのだろう。アナスタシアが俺とクリスを交互に見ながら言う。

「あ…いや、そんなことないよ。」

「そ…そうです…。こ…こちらこそ…。」

 …これは、認めてもらえた、ってことでいいんだよな。

 俺がそんなことを考えていると、クリスが言う。

「あ、そうだ…ええと…今日はわたし、行かなくちゃならないところがあるので…その…お稽古、お休みにしたいんですけど…ご…ごめんなさい…わたしがしたいって言ったのに…でも、どうしても今日は行かなくちゃいけなくて…。」

 クリスの言葉に、アナスタシアが返す。

「構いません。わたくしも所用があればそちらを優先します。クリスティナも遠慮せず、自分の予定を優先なさい。」

「あ…ありがとうございます…。」

 クリスの言葉を聞いて、アナスタシアはそのまま自分の席に戻っていく。

「…クリス、行くところって?」

 俺はなんとなく、好奇心でクリスに聞いてみる。

「あ…ええと、その…ボランティア、です。今日は保育園に行く予定で…。」

「ボランティア?」

 俺が首を捻っていると、クリスはこくん、と首を縦に振る。

「はい。あ…そうは言っても、学園の付属とかではなくて、島でお仕事をなさっている方々のご家族がいるところ、なんですけど。」

「あぁ、そうか、なるほど。」

 社島には、学園施設やショッピングモール、各種の遊戯施設のようなものがあるだけでなく、そこで働く人たちも大勢住んでいる。しかし、彼らにも家族がいるわけだ。島の場所が場所ということもあって、場合によっては家族…それこそ、小さな子供やお年寄りを自分の国に置きっぱなしにしたまま長い間会えない、なんてことになりかねない。それを考慮し、社島には、そういった人達が家族と住めるような住宅だけでなく、家族が利用できる各種施設…保育園や特別養護老人ホームが存在しているのだ。

「クリス、ボランティアってどんなことするかとか、聞いてもいいかな?」

 少し興味の出てきた俺は、またクリスに問う。すると、クリスは笑顔を浮かべながら答えてくれる。

「ええと…その日行く場所にもよるんですけど…今日行く予定の保育園では、子供たちと遊んだり、絵本を読んであげたり、お昼寝の用意をして子供たちを寝かしつけたり…そんな感じです。特別養護老人ホームのお手伝いもしているんですけど、それはまた別の日で…。」

 …クリスが話す間、俺は、自分が聞いたことのはずなのに、それを二の次にしてクリスをずっと見つめていた。

 

 ------クリスは今、笑顔を浮かべている。

 

 いつも心配そうな目をして、引っ込み思案で、間違いや失敗を恐れ続けているクリスが、今、笑顔を浮かべている。

 それは、いつか見た無理をしている時の笑顔じゃない。ただただ純粋で、眩しく、あたたかな、心からの笑顔。


「…クリス、そんな風に笑うんだ。」


 俺は小さく言葉に出していた。

 「…?鶴城さん…?」

 クリスが、少し不思議そうな顔でこちらを見てくる。

 …俺がここで言うべき言葉は、ただひとつ。

 

「クリス------子供たちやお年寄りのみなさんの前でも、もっともっと今の笑顔を見せてあげようよ。きっと…みんな喜ぶよ。」


「------え…?」

 クリスが、ぽかんとして俺を見る。

「わたしーーーーーー笑っていたんですか?」

「うん。すごく眩しくて、ぽかぽかしてるように感じた。…クリスには、今みたいな表情の方が似合うよ、絶対。」

 …言ってから恥ずかしくなってきた。俺は一体何を言っているんだ。

 そんな顔を赤くする俺に、クリスはまた微笑みを浮かべて、


「------はい。わたし、みなさんに笑顔を届けてきたいです。」


 無理をせず、恥ずかしがらず、はっきりと俺に告げる。

 …決めた。

「ねぇ、クリス。そのボランティア…俺も行ってみてもいいかな?」

「え…?」

 クリスが、ぽかんとして俺を見る。

「…俺、クリスが子供たちやお年寄りに向ける笑顔、見てみたいんだ。今みたいに笑って、みんなを笑顔にする…そんな笑顔。…あ、もちろん、迷惑ならいいんだけど…。」

「あ…い、いえいえいえ!迷惑とか、そんなことないです!…ええと…大丈夫ですよ。少し待っててください、鶴城さんが行くことを先方にお伝えしておきますね。」

 ぶんぶんと首を振ったクリスは、そう言ってスマホを取り出し、教室の外に出たと思うと、どこかに電話をかけ始める。

 

 ------鶴城さん。

 わたしのことを見てくださって…わたしの笑う姿を見たいと言ってくださって、ありがとうございます。


 クリスが教室を出る、一瞬。

 小さく、しかし確かに、クリスはそう呟いていた------



 そして、放課後。

 俺とクリスは、ブロックEにある保育園へとやってきていた。

「園長先生、こんにちはです。」

 門の前にいた女性に、クリスが挨拶する。クリスの言葉からすると、彼女が園長先生なのだろう。

「クリスティナさん、いらっしゃい。ああ、あなたがクリスティナさんが連れて来るって言っていた男の子ね。」

 そう言って、園長先生は俺の方に会釈をしてくる。

「鶴城 誠です。今日は急な申し出を受けてくださって、本当にありがとうございます。」

「いえいえ、そんなことはないわ。クリスティナさんにはいつもお世話になっているし、人手は多い方がいいの。こちらこそ、来てくれて嬉しいわ。さあ、二人とも、子供たちがお待ちかねよ。」

 そう言って、園長先生が俺たちを園の中に受け入れる。すると------


『クリスおねえちゃーーーん!!』


 そんな大きな声と共に、俺たちは子供たちに取り囲まれる。

「わ、みんな元気ですね。」

 クリスが笑顔を浮かべて、子供たちを見渡すと、ある一人の女の子が、俺を指差して言う。

「あれ?おねえちゃん、この人だあれ?」

 その言葉を聞いて、子供たちが珍しそうな目で俺を見回してくる。俺は驚かせないよう、目線を子供たちのものにして言った。

「やあ。俺は誠、っていうんだ。クリスお姉ちゃんのお友達。今日はクリスお姉ちゃんと一緒に、みんなとたくさん遊びに来たんだ。よろしくね。」

 俺が言葉を切ると同時に、クリスが子供たちに問いかける。

「さあ、みんな、今日はお姉ちゃんたちと何をしましょうか?今日は誠お兄ちゃんもいるので、いろんなことができますよー。」

 とくん、と心臓が跳ねる。

 …え?

 クリス、今俺の名前…。

 俺がそんなことを思っていると。

「はーい!おねえちゃん、絵本読んで!」

「おねえちゃん、わたし、お絵描きしたい!」

「俺、外でサッカーしたい!」

「あ…ぼ、僕も!!」

 子供たちは無邪気に歓声を上げるのに合わせて、クリスが言う。

「じゃあ、お絵描きと絵本がいい子はお姉ちゃんのところに来てくださいねー。あ、鶴城さん、外遊びの子供たち、お願いしてもいいでしょうか…?」

「あ…うん、OK。よーし、じゃあ外でサッカーの子はお兄ちゃんのところにおいで。」 

 俺がそう言うと、俺のところにもどっと子供たちが押し寄せてくる。クリスが俺に声をかけたことで、子供たちも俺が怪しい人間でないことを理解してくれたようだ。ふとクリスの方を見ると、早速絵を描きたい子がスケッチブックを持ってくるのを待ちながら絵本を選んでいる。よし、俺も外遊びの子供たちを…と思った時、俺の方に集まってきた子供たちの何人かが、俺の制服の裾をつまんでいることに気がついた。

「…ん?どうしたの?何か気になる?」

 俺はまた視線を低くして、子供たちに問う。すると。


「ええと…誠お兄ちゃんは…もしかして、クリスお姉ちゃんの彼氏なの?」


 …え。

 ある女の子がいきなり投げてきた危険球に、俺の思考が止まる。

 …彼氏?

 俺が?

 クリスの?

「ええと、どうしてそう思ったのかな?」

 俺は冷静さを多少欠きながら、子供たちに問うと、サッカーボールを持った別の男の子がにかっ、と笑顔を浮かべて言う。

「だってクリスおねえちゃん、今日はすごく嬉しそうなんだ。…あ、いつも嬉しそうにしてるけど…でも、今日はもっともっと嬉しそうだからさ。ひょっとしたら、おにいちゃんがいるからかな、って。」

 …なるほど。子供たちの目からはそう見えていたか。

「…うーーーーん、付き合ってはいないかな。」

 俺はとりあえずそう返す。実際のところ俺とクリスは付き合ってるわけではない。その場のノリで適当なことを言えば、それこそ子供たちはそれを本気にするか、疑ってかかって何とか聞き出そうとしてくるだろうから、このくらいでちょうどいいはずだ。

「えっと…じゃあ、誠おにいちゃんは、クリスおねえちゃんのこと、好き?」

 別の男の子が、俺にそんなことを言ってくる。

 おお、ジャブを上手いことかわしたと思ったら、結構あらぬ方向からのアッパーカットが飛んできたぞ。子供たち恐るべし。

 …でも。

(…俺は、その問いにどう返せばいいんだろう。)

 俺は本気で考えてしまう。

 そりゃ、クリスは少なくともパンツァーの学舎の中でも一、二を争うほどのルックスの持ち主だし、性格だって優しいことは俺だって知っている。おまけに勉強も料理もすごくできたりするし、それを考えたら普段慌てて失敗することが多いことなど関係ないくらいによくできた女の子だと思う。…正直、下心が全くないのかと問われてないと答えれば、それは嘘になってしまうだろう。

 だが、好きと答えても嘘になると思う。子供たちが気になっているのは、友達としての好きではなく、おそらく俺が今、クリスを恋愛対象として見ているかどうか。俺にクリスへの下心があるとして、それが恋心とは限らない。俺もよくわかっていない以上、適当なことを言うわけにもいかなかった。

「あ…そうだ。みんなは、クリスお姉ちゃんのこと、好きかい?」

 ふと、俺がそう聞き返すと、子供たちはみんな口を揃えて、大きな声で「好きー!」といって、口々にその理由まで含めて話してくれる。ある男の子はクリスは本物のお姉さんのように接してくれるから、またある女の子はクリスのように綺麗になりたいと憧れを持っているから。その他にも、たくさんのクリスに対する肯定的な言葉が、俺の耳へと次々に飛び込んでくる。

(…クリス、子供たちにはちゃんと伝わってるよ。クリスの優しさ、クリスへの憧れ…みんな、クリスのことが大好きって言ってくれてるよ。)

 俺は子供たちの素直な気持ちを伝えてくる純粋さに感心しつつ、本来、俺が承った仕事を遂行すべく声を上げる。

「よーし、じゃあみんな、外に出ようか。」

『はーーーーーい!!』

 俺の声に手を上げて返事を返し、外へと駆け出していく子供たち。

 …来てよかったな。

 俺はそう思いながら、子供たちの後を追いかけた。



 数時間後、保育園からの帰り道。

 俺はクリスと並んで、寮への道を歩いていた。

「鶴城さん…ありがとうございます。」

 隣を歩いていたクリスが、小さな声で俺に言う。

「いや、俺も楽しかったから。園長先生も子供たちも、また来てね、って言ってくれたし。…それに、クリスがずっと笑顔でいるのも見られたし。すごく嬉しかったから。」

「…あぅ。」

 俺の言葉に、クリスはぽふっ、と頬を赤くする。

 しかし、これは俺の本心だ。

 目の中に、笑顔を振り撒きながら子供たちと接するクリスの姿と、それを見て笑う子供たちの姿がフラッシュバックする。

(…素敵な笑顔だった。すごく。)

 俺は、先ほど子供たちから向けられた言葉を思い出す。


(「クリスおねえちゃんのこと、好き?」)


 …正直なところ、これが恋愛感情なのかどうかは、俺にはよくわからない。

 でも。


(「ーーーーーーどう思っているにせよ…クリスには笑顔でいてほしい。」)

 

 俺がそう思っていると。

「…あっ。」

 クリスの声にふと顔を上げると、寮の入り口が、あと少しのところまで近づいていた。


「もう少し…で…たかった…です。」


「…クリス?」

 小さな声を聞き取ることができず、俺が声をかけると、クリスはこちらを見て、ぺこりと頭を下げて言った。

「あの…鶴城さん…。わたし、お先にお部屋に戻ります。その…今日は、ありがとうございました…!」

「あ…う、うん。」

 俺は少し吃りながらそう返し、


「クリス…俺、またボランティア、手伝いに行ってもいいかな?」 


 その後、伝えたいと思ったことを伝えられるように、しっかりと声を上げていた。

 

「あ…は、はい、ぜひ!」


 そう言って振り返ったクリスは、にこっ、と笑顔を浮かべる。


------夜の帳が下りかけている夕暮れの中で、朝、そして子供たちの前で見せてくれたあの笑顔を、今度は俺だけに。 



(another view“Christina”)

 

(------鶴城さん…。)

 お部屋に戻ったわたしは、ベッドに座り込み、胸へと両手を当ててみる。

 

 とくん、とくん------


 わたしの心の想いを代弁するかのように、大きく脈打つ、わたしの心臓。

(鶴城、さん------)

 心の中で彼の名を呼ぶ度に、その鼓動はどんどん大きく、そして速くなり、張り裂けそうな胸の痛みへと変わっていく。

 鶴城さんが、あれほど子供たちに好かれるとは思わなかった。

 子供たちと接している鶴城さんは、優しくて頼りになる、本当のお兄さんのように見えた。

 鶴城さんは------わたしには笑顔が似合うと言ってくれた。

 そういえば、どんな顔をしているのか自覚できなくなってしまったのは、いつのことだっただろう。誰かに笑顔が似合うなんて言われたことは、最後はいつだっただろう。そもそも、そんなことを言われたことが果たしてあっただろうか。

 思い出せない。

 でも------

(思い出せなくても、いい。)

 わたしはそう思う。

 だって。

 

(鶴城さんが、そう言ってくれたから。)


 また、とくん、と大きく心臓が脈打つ。

 彼は、わたしのことを見てくれる。

 わたしのことを認めてくれる。

 だから、わたしは鶴城さんと別れる前、ぽつりと小さく口に出していた。


(------もう少し、二人きりで一緒に歩きたかったです。)


 鶴城さんには聞こえていなかったようだけれど。

 でも------わたしの本心は。


(わたしは…やっぱりあの人が好きだ------)


 そう思った時、その気持ちの渦巻きがどんどんわたしの中で大きくなり、少しずつ、しかしより強く、わたしの胸のつかえを助長させていく。

 苦しい。

 でも…その苦しさは、どこか心地よい。

 

 この気持ちを…伝えたい。

 でも…わたしはそれを伝えていいの?

 わたしが気持ちを伝えて、鶴城さんはどう思うのだろう。いきなりそんなことを言って、ご迷惑にならないだろうか。

 そもそも…彼がわたしを好いてくれている保証だってない。

 ------もしも…もしも彼に、他に想い人がいたら。わたしのことは好きじゃないって、否応なしに自覚させられてしまったとしたら。

 

(怖い------)


 わたしは、胸の前で手をぎゅっと握りしめる。

 心地よさから来る苦しさから一転、何もない虚無の苦しさが、わたしの心を蝕んでいっているのがわかる。

 

 (わたしは------どうしたらいいんだろう…?)


 心のときめきと揺らぎに一度に襲われる感覚に、わたしはいつの間にか、ぎゅっと目を閉じてしまっていた------


 



 クリスと一緒に幼稚園に行ってから、また数週間ほど経った日の放課後。

「…では、もう一度。クリスティナ、用意はいいかしら。」

「は…はい!」

 アナスタシアの声に、スヴェルを纏ったクリスが短く返事を返すのを、俺は傍らで見守っていた。

「……っ…。」

 クリスは右手の主砲を掲げる…ものの、やはり、一向にその砲口が火を噴くことはない。

 …この数週間の間に、クリスが自分のグングニルを自分の意志で撃つことができた回数は、未だゼロ。しかし、この徒労かもしれないクリスの特訓に、アナスタシアは予定がない日はしっかりと付き合ってあげている。俺も何もない日は付き合うようにしているので、この光景も見慣れたものだと思うものの。


(やっぱり、もどかしいよな。)

 

 なんとなく、俺はそう思う。

「…そこまで。二人とも、少し休憩をいたしましょう。」

 アナスタシアがそう言って、いつものように、震えながらぽろぽろと涙を流すクリスのところに向かう。

「…クリス、大丈夫?」

 一足遅くクリスのところにたどり着いた俺は、労いの言葉をかけながら、ぺたんと座り込んだクリスの顔を覗きこみ、ハンカチで涙を吹いてあげる。

「…どう…して…。」

 クリスが泣きながら、そう声を漏らす。

「わたし…どうして怖い気持ちを捨てられないの…?前に進みたいのに…このままじゃ…いけないのに…。アナスタシアちゃんも、鶴城さんも…協力してくれてるのに…。」

「…大丈夫だよ。クリス、授業の中とかでも、他人の砲塔の音では驚かなくなってきたじゃない。」

 俺は少し明るめの声で、クリスのところを労ってみる。

「ええ、クリスティナ。最初のあなたと比べれば、素晴らしい進歩です。胸を張りなさい。」

 アナスタシアがそう言って、震えるクリスの手を握ろうとすると。

「…お二人とも、ありがとうございます…その、ごめんなさい…。」

 クリスは肩を落としながら、ぽろぽろと涙を流し始める。

 …クリスは人一倍頑張っている。自分が怖いとわかっていてしていることなのだから、怖いのは当たり前だ。その中で、自分の弱さを克服しようと頑張っていることもまた事実。でも-----

(…このままクリスが、ずっと自分の力を怖がるままだったら。)

 俺は、そんなことを考えてしまう。

 そうなったら、きっとクリスはまた泣いてしまうだろう。それもこれもすべて弱い自分が悪いのだと、激しく強すぎる自己嫌悪に心を蝕まれ続けながら。

(オーディンとしても、友達としても、放っておけるわけないよな。それに------)

 …俺は、クリスと保育園に行った日から、クリスのことをなぜか視線で追いかけるようになっていた。

(…やっぱり、あの時子供たちに言われたのが効いてるのかな。)

 子供たちに言われたこと。それは「俺がクリスを異性として意識しているのかどうか」。

(…もしそうだとしたら、俺も単純だよな。でも------)

 今度は、あの日クリスが俺に見せてくれた笑顔のことを思い出す。

(…あの笑顔をずっと見ていたい、そんな気もする。)

 そんなことを思っていたとき。

「…あら…少し失礼するわ。」

 アナスタシアが制服のポケットからスマホを取り出し、少し離れたところで通話を始める。

「フィアナですか。どうなさったの?…ええ…わかりました。…彼も?…ではそのように伝えます。ご苦労様です。」

 通話を切ったアナスタシアが、俺の方に顔を向けてくる。

「クリスティナ、申し訳ないのだけれど、今日はここまでです。生徒会の至急の所用が入りました。鶴城さん、あなたにも手伝っていただきたいそうです。詳しくは生徒会室で、とのことでした。同行していただけるかしら。」

「俺も…?まあ、大丈夫だけど…。」

「わかりました、ではそのように。」

 そう言って、アナスタシアはスマホをしまう。すると。

「あ…アナスタシアちゃん、その…今日、わたしが鍵を返してしまっても大丈夫ですか…?その…もう少し、自分で練習してみたいんです。わたし、このあと何もないので…。」

 クリスがアナスタシアに問うと、アナスタシアは持っていたカードキーをクリスに差し出して言った。

「ええ、構いません。返却は任せます。なくすことのないように注意なさい。」

「あ…ありがとうございます。」

 クリスがカードキーを受け取り、鞄から自分の学生証入れを取り出し、カードキーをそのポケットに入れるのを確認した後、アナスタシアは俺に向き直り、

「準備はできたかしら。さあ、鶴城さん、行きましょう。」

 そう言って、とりあえずクリスに「頑張ってね。」と一言言った後、歩きだしたアナスタシアについていく俺。普段使わない道やエレベーターを使う傍ら、俺はアナスタシアに聞いてみる。

「アナスタシア、こっちって学園への近道なの?」

「ええ。普段は生徒会や教職員以外は使わない通路です。フィアナがわたくしたちがブロックCにいることを知っているのが幸いしました。生徒会権限で、今回は特別にこの通路を使ってもよろしい、とのことです。ただし鶴城さん、この通路はあくまでも非常用通路。この通路のことは、他言無用に願います。」

 …え、非常用通路なら、大っぴらにした方がいいような気もするけど…まあ、いいか。何か理由があるんだろうし。

「わかった。とりあえず、生徒会の用事だから使えるんだね。俺の胸にしまっておくよ。」

「ええ、よろしく頼みます。」

 アナスタシアが言うと同時に、俺はぱっと思ったことを口に出していた。

「…なんか、子供の頃に作った秘密基地を思い出すよ。」

「え…?」

 アナスタシアが、少し驚いた顔をして俺の方を向く。

「ああ、いや、変に思われても仕方ないよね。まあ、昔の話だから。友達に『俺たちの秘密の場所だ、絶対誰にも話しちゃだめだからね』とか言ってさ。…まあ、ただの神社の境内とか、空き地に置かれた土管の中とか、廃屋の屋根裏とか、そんな下らないところばっかりだったんだけど。まあとりあえず、今アナスタシアとの話で、この通路のことは秘密、

って言われたからそんなことを考えちゃっただけだから。気にしないで。」

「秘密基地…秘密の場所…。」

「…アナスタシア?」

 俺は、そう呟くアナスタシアに声をかけてみる。

「…何でもありません。さあ、もう少しです。」

 アナスタシアがそう言って、足の速度を早める。それを見た俺には、アナスタシアがなぜか心なしか嬉しそうにしているように見えた。

(…何気なく秘密基地、とか言っちゃったけど…何か思うことがあるのかな…?アナスタシアも、昔そういうことをしてた、とか?…ないか、さすがに。)

 そんなことを考えながら歩いていると、目の前に大きな扉が現れる。アナスタシアがICカードリーダーに学生証を翳すと、あっさりと扉が開き、目の前に学園の裏庭が広がった。

「…ここに繋がってたんだ。というか…学生証で開くんだね、この扉。」

 俺はちょっと拍子抜けする。裏庭に扉があることは知っていたが、さっき聞いた話だと、絶対入っちゃだめって言われてるんだから、こんな簡単に開くわけないと思ってたけど…。

「ご心配なく。普段は生徒会役員や教職員が持つ専用の身分証でなければ開かず、外部からのハッキングの対策として厳重にプロテクトがかかっている上、そのプロテクト自体も絶えず強固なものとなるよう、アップデートが繰り返されています。」

 …納得。

 そうこうしているうちに、俺たちは生徒会室へとたどり着く。

「フィアナ、お疲れ様です。」

 席に座っているフィアナさんにアナスタシアが声をかけると、フィアナさんはこちらを見て、

「あ、シャシコワさん。鶴城さんも一緒ね。ごめんなさいね、急に呼び出してしまって。」

「いえ、それはいいんですけど…どうしたんですか?」

 俺が聞くと、フィアナさんは困った顔をして言う。

「実は、学園生徒会の急ぎの用事で、私と千代が高等部生徒会代表として祠島の方に行かなくてはならなくなってしまったの。でも、こんな時に限って、こちらも急ぎだから、っていう名目で書類をこんなにたくさん投げてこられて…今日は本来なら生徒会がお休みの日だし、今の生徒会のメンバーは、生徒会がお休みの日には部活動や島内のアルバイトをしている子たちがほとんどだから、こういう仕事は私か千代がしなくてはいけないことなのだけれど…。申し訳ないのだけれど、私たちが帰ってくるまでの間、二人にはその書類の仕分けをお願いしたいの…お願いできるかしら。」

 そう言って、フィアナさんが部屋の真ん中に置いてある大きな机…厳密には、その真ん中にチョモランマの如くこんもりと置かれたコピー用紙の束を指差す。…なるほど、その書類とやらはこれか。確かにこれはとんでもない量だ。

「ええ。お任せなさい。」

 アナスタシアが答えるのに合わせ、俺も答える。

「俺も大丈夫です。とりあえず、重要そうなものとそうでないものを大雑把に分けるくらいで大丈夫ですか?」 

「二人ともありがとう。そうね、内容を見て、少しでも重要そうなものと判断したり、内容がよくわからないものがあったりしたら、とりあえず重要案件としておいてくれて大丈夫よ。…あぁ、いけない、そろそろ行かないと。じゃあ、二人ともよろしくね。」

 フィアナさんがそう言って、ぱたぱたと生徒会室を後にするのを見送ってから、俺は呟く。

「…この量では、二人で仕分けするだけでもきつそうだな。」

「フィアナはいつも、この量を一人でこなしています。要望や意見も多いために、時間がかかるのは仕方のないことです。さっそく始めましょう。」

 …今、アナスタシアの言葉の中に、無茶苦茶ドブラックな一言があった気がする。

 …とはいえ、引き受けた以上、やれるところまで頑張ろう。

 俺は心の中で渇を入れ、アナスタシアに遅れること数秒、書類の山に手をかける。

「どれどれ…まずは…あー、行事予定の書類か。これはキープだよね。次は購買と学食の追加メニューの要望…?うーん、こりゃ俺じゃよくわからないし、一応急ぎのものにしておくか…。次は…うわ、何だこれ。誰だよ、要望書にへのへのもへじなんか書いたやつ。これしか書いてないし、さすがに急を要するものじゃないよな、これは。」

 そんなことを言いつつ、少しずつ書類を分別していると。

「…鶴城さん。」

 対面に座り、ものすごいスピードで仕分けをしていたアナスタシアが、少し手をゆっくりにして俺に声をかけてくる。

「…?どうしたの?」

 俺が聞くと、アナスタシアは俺をちらりと見て言う。

「少し気になったのですが…あなたは、どうして誰にでも同じように接したり、誰かの声に対して何かをしようと思うことができるのですか?」

「え…?」

 唐突な質問に、俺は少したじろいでしまう。

「ええと…どうしてそんなことを?」

 俺が聞くと、アナスタシアは少し悩むような素振りを見せた後、口を開く。

「…少し、気になったのです。クリスティナのことも、今ここにいることも。…いえ、クリスティナのことは、同じチームのオーディンであるから、と納得できます。しかし…ここにいることは?あなたは生徒会の正式な役員ではないのですから、フィアナやわたくしの要請であったとしても、断ることもできたはず。なのに、なぜ…?」

 …なるほど。

 俺は少し間を置いて、アナスタシアに問いかける。

「…強いて言うなら…俺がしたいと思うから、かな。」 

「…したいと思う…?」

「うん、そう。お願いされて、力になりたいと思った。単にそれだけ。…というか、それに理由なんてないと思ってるから。アナスタシアだって、クリスの可能性を信じてるから手伝ってるんでしょ?それと似てるかもしれないと思うんだ。上手くいく確信はないけど、そうしたい、みたいな。…変かな?」

 アナスタシアは、ふるふると首を横に振りながら答える。

「…いいえ、わたくしもそれは素晴らしいことと思います。オーディンとしても、一人の人間としても。」

 …よかった。

「だからさ…俺、俺がなにかをすることで誰かの力になれるなら、それはやるべきことだと思う。…あ、もちろん、他人だけじゃなくて、自分のこともある程度考えないとだめかもしれないけど…でも、優先したい誰かがいたら、やっぱり自分のこととか放り出しちゃうかもね。それはクリスかもしれないし、αの誰かかもしれないし、重樹かもしれないし…アナスタシアやフィアナさんであるかもしれないけど。」

「…そうですか。…もしかすると…だからわたくしはーーーーー」

「それに------」

 俺はアナスタシアが言い終わるか終わらないかのところで、俺はもうひとつ言葉をつけ足す。

「…クリスのことだけど、この前特訓を休みにした時、俺に笑顔を見せてくれたんだ。いつもみたいに無理してない、多分、自然体の笑顔をさ。」

「え…。」

 アナスタシアが俺の言葉を聞いて、ふと寂しそうな顔をする。しかし、それに気づかなかった俺は、そのまま話を続けていた。

「…その時、俺、クリスのあの笑顔を、もっと見てみたい、って思ったんだ。それに…クリスが泣いてる姿は、やっぱり見てるのが辛くて。でも、一生懸命に何かをしようとしてることはわかる…だから放っておきたくないって思うんだ。」

 …俺はもう一度、あの時見たクリスの笑顔を思い出す。

 あれからそれほど時間が経っていないこともあるが、あの笑顔とそれを彩る夜の帳が降りかけた夕暮れは、一向に網膜を離れることはない。  

 そのくらい、あのときのクリスの笑顔は、綺麗で、美しくて------


「…そうですか。やはりあなたとクリスティナは------」

 

 アナスタシアがぽつりとそう呟き、ふっ、と顔を元に戻す。

「お喋りが過ぎたようですね。とにかく、まずは目の前の仕事を終わらせることから始めましょう。」

「あ…う、うん、そうだね。」

 アナスタシアが何か言おうとしたことが聞き取れなかったが、アナスタシアはもう自分の仕事に集中しており、もう一度聞くのも憚られる雰囲気を出している。

 …とりあえず、俺も頑張ろう。

 そう考えながら、俺は書類の仕分けへと戻っていった。



 それから二時間後。

「ふぅ、終わった…。」

 机の上の最後の書類を仕分け終わり、俺はほっと胸を撫で下ろす。…正直、かなりきつかった。明らかに重要そうなものだけで大きなダンボール箱二つ分以上はあった上、急ぎかそうでないかのグレーゾーンなものもかなりあり、それに迷っていたために時間を食ってしまったものもあったからなのだが…フィアナさんはこんなとんでもない量をいつも一人で仕分けして中身の確認をしているのかと、素直に感心してしまう。一体帰るのはいつになるんだろう。

「アナスタシアもお疲れ様。…なんかごめんね、明らかに俺より多く仕分けさせちゃって。」

「いえ、気にする必要はありません。ただ慣れているだけですので。」

 …そういう話を聞くと、アナスタシアが名家のお嬢様だということを忘れそうになるな。お嬢様という都合上、その辺の面倒事は執事さんやメイドさんあたりに任せきりというイメージがあったとは、目の前のアナスタシアには絶対に言えないと思う。

「鶴城さん…わたくしが以前、あなたに話したこと、そしてあなたがわたくしに言ってくださったこと…友とはどういったものだ、というお話を覚えていらっしゃるかしら。」

 アナスタシアが、ふとそんなことを言う。

「え…うん、覚えてるけど…それがどうしたの?」

 俺が聞き返すと、アナスタシアは嬉しそうな悲しそうな、そんな顔をして続ける。

「…友と共に何かをする…それは、わたくしの夢でもあるのです。」

 ぽつりとアナスタシアが呟く。

「…夢?」

 俺が聞き返すと、アナスタシアは首を縦に振ってから、またぽつりぽつりと話し出す。

「…鶴城さん。あなたは、わたくしの力の源…IS-7について、どう思われるかしら?」

 え…?

 アナスタシアの力について…?

「…それは、IS-7そのものについて、ってこと?」

 こくり、と首を縦に振るアナスタシア。

「ええと、そうだな…俺、一応調べたんだけど、あんまり詳しくないから、かなり薄っぺらい感じになっちゃうと思うんだけど…。」

 俺がそう言うと、アナスタシアは少し考えてから口を開く。

「…では、質問を変えましょう。鶴城さん。わたくしの力の源、IS-7は、完璧な戦車だと思いますか?」

「…完璧かどうか?」

 …どういうことだろう。よくわからない。性能に関して?それとも見た目?俺が首を傾げると、アナスタシアはまた少しずつ話し出す。


「その問いの答えはいいえ(Нет)。IS-7は、凄まじい攻撃力、強靭な防御力、圧倒的な機動性を手に入れた代償に、それらを操る乗組員たちの命を奪いかねない、重大な欠陥もまた手にいれてしまったのです…そう、シャシコワ家の娘として、愛情も欲しいと思ったものもすべて手にいれ、何不自由なく育ったにも関わらず、その人生の中で、共に笑い、共に泣き、時に優しく、時に厳しくしてくれる、友というかけがえのない存在だけは与えられなかったわたくしのように…。」

 

 …え?

 目を見開く俺に向けて、アナスタシアが続ける。

「…わたくしも、クリスティナと同じ…ここに来たとき…いいえ、ここに来る前から、ずっと一人だったのです。確かに、公の場でのお話はたくさんしてきたけれど…その場でのわたくしは、ただの名家シャシコワ家の娘でしかなかった。ヴァルキリーとして社島に来てからも、わたくしを友と呼ぶ人は現れず、皆遠巻きに見るばかり…。フィアンセとなりたいと寄ってくる男性もたくさんいらっしゃったけれど…最終的には、彼らはわたくしの…いえ、シャシコワ家の娘という肩書きや、最上位ヴァルキリーとしての肩書き以外は必要がないと考える方々…。

 もちろん、わたくしの家や、わたくしを生んだお父様やお母様を恨んでいるわけではありません。そして、己の宿す力を嘆くこともありません。その欠点がわたくしの体に性能補正として発現しているわけではありませんし、そもそも、わたくしにとって、シャシコワ家の娘であること、そして最上位ヴァルキリーであること、強く、気高い存在であること、そうでなくてはならないこと、それはこれ以上ない誇り…でも…だからこそ、わたくしは感じてしまったのです。わたくしも、普通の家の子供のように、友と呼べる人が欲しい、特別なことでなくてもいい、友と共に何かをしたい、と…。

 ですから…あなたとクリスティナが、わたくしを友として扱ってくださったこと、友と呼んでくださったこと…それをわたくしは、本当に感謝してもしきれない…そう思うのです。」 

 …そうか。

 アナスタシアは、シャシコワ家の娘であり、最上位ヴァルキリーであり、完璧な優等生ではあるけれど、その前に俺たちと同い年の一人の女の子。周りから虐げられることになったクリスとは逆に、様々なことでちやほやされすぎていたことで、いつも凛として強くあらねば、と思いながらも、どこか居心地の悪さを感じていたのだろう。

 俺は、そんなアナスタシアの表情を見て思う。

 確かに、はじめはアナスタシアのことは、重樹に聞いた噂や、いつものとても自信満々な姿、それにクリスに言っていた、自分の力を怖がるな、っていう言葉くらいでしかわからなかったから、少し近寄りがたい雰囲気だったけれど。

 でも、クラスメイトであることで、仲良くなりたいと思ったことは事実で。

 そして、生徒会やクリスの特訓を見ていて、俺はアナスタシアの人となり…お嬢様云々なんて関係なく、しなきゃならないことは文句も言わずに引き受け、力を貸してほしいと願う人にも協力を惜しまない…そんな彼女の姿を見ることができて…俺やクリスが、アナスタシアを友達だと言ったことを嬉しいと言ってくれた。強さにしか興味がないなんて言われてることや、寄ってきた男たちを片端から千切っては投げたなんて噂があるらしい彼女だけど、あくまでも噂は噂でしかないんだってことを、俺はこの目で確かに見ているんだ。

「…そうだ、せっかく家から離れているんだし、もっともっと普通の家の子みたいなこともしてみようよ。誰かと一緒にお昼ご飯を食べるとか、どこか遊びに行ってみるとか。買い物とかは…さすがに俺じゃわからないところもあるだろうし、クリスたちにも協力してもらった方がいいかもしれないけど…他にもバイトしてお金を稼いでみるとか、気になってる人に告白してみるとか…あ、もちろん、どれも最終的にはアナスタシアがどう思うかなんだろうけど…。というか、最後のやつとかなんだよそれ…ごめん、変なこと言っちゃったよね。」

 アナスタシアは俺の言葉を最後まで聞いた後、

「…ふふ。」

 少し微笑んで、こう言った。


「…感謝します、鶴城さん。

 ただ…あまり期待させるようなことは、仰らない方がよくてよ。」


 …?

 俺がその言葉に首を傾げていると。

「ーーーーーー鶴城さん、寮へ戻る準備はできて?」

 少し顔を伏せていたアナスタシアがふっと立ち上がり、俺を帰宅へと促す。

「ごめん、すぐ行くよ。」

 俺はぱたぱたとアナスタシアの方へと走り出そうとして------

「…ん?」

 ポケットの中のスマホが震えている。

「…え…クリス?」

 着信画面を見ると、そこには、『クリスティナ・E・ローレライ』の文字。

 …どうしたんだろう。

 俺は少し考えた後、通話ボタンを押す。

「もしもし、クリス、どうしたの?」

『ふぇ…か…鶴城さん…ど…どうしましょう…わたし…どうすれば…。ふぇ…ふぇぇ…。』

 …泣いてる?

「クリス、落ち着いて。一体何があったの?とりあえず、今どこにいるか教えて。」

『あ…あの…さっき演習場を出て、鍵をかけて帰ろうとしたんです。そうしたら、いきなり後ろから突き飛ばされて、それで、起き上がったら手に持っていた鞄がどこにもなくて…携帯電話は制服の内ポケットに入っていて大丈夫だったんですけど…どうしよう…お財布も学生証も鞄の中にあるし、一緒に入れておいたカードキーは預かったものなのに…。』

 …何だって!?

「わかった…クリス、ブロックCの駅までは来られる?とりあえずそこで合流しよう。」

 そう言って電話を切ろうとした時。

「鶴城さん、待ちなさい。」

 いつの間にか隣に来ていたアナスタシアが、俺を制止する。

「察するに…クリスティナに何かあったのですね。」

「え…ああ、そうらしい。なんでも、クリスが誰かに鞄と演習場の鍵を盗られたらしいんだ。すぐ行かないと------」

「鶴城さん、二度は言いません。」

 再び俺を制止したアナスタシアは、自分の制服のポケットから、アナスタシア自身の学生証を取り出し、俺の手に握らせる。

「ここからブロックCまでは遠回りである上、今の時間はモノレールが混む時間帯。正規のルートで真正面から行ったところで、クリスティナから持ち物とカードキーを奪った者からすれば、追うこちらを撒くのは容易いことでしょう。しかし、こちらにも利はあります。それは社島の内部事情をある程度掌握できる生徒会役員という立場であるわたくしがここにいること、そして、ブロックCという区画が、あなたも知っての通り、この島の中でも、正規のルートで外に出るには必ず遠回りをしなくてはならない、特に複雑な構造をしていることです。その上、演習場はその最深部であり、外に出る手段は駅を使った正規のルート、あるいは先ほどわたくしたちの使った学園直行のルート以外にありません。もしもヴァルホルの学生で、なおかつ学園直行のルートを知らぬ者ならば、必ず正規のルートと駅舎を通って外へ出ようとするはずです。内部構造の複雑さから、あちらもかなりの時間を要することは間違いありません。けれども、時間との勝負であることもまた確かでしょう。そろそろフィアナも戻る頃。わたくしはフィアナと駅舎に連絡を取り次第、動ける生徒会役員、そして風紀委員を動員して、ブロックCの駅舎を封鎖します。あなたはわたくしの学生証を使って、先ほどのルートを通って先行、まずはクリスティナと合流なさい。道順はおわかりね?そして、フィアナが到着し次第、わたくしとフィアナの二人で正規のルート及び裏のルート双方から、ローラー作戦の要領であなたを追いかけます。わたくしはあなたに学生証を預けることから、学生証を持たずとも別の手段で移動が可能な正規のルートを通ることになるでしょう。あの扉を開けることができ、なおかつ祠島へ続く海中トンネルの終わりが学園にほど近いフィアナに、正規ルートよりも到達が早いであろう学園直通のルートを進むよう、わたくしから伝えます。そして、フィアナが突破された際の二段構えとして、生徒会と風紀委員の一部を駅舎には回さず、フィアナと共にいるはずの千代を含めた別動隊として、学園側の入口で待機させましょう。フィアナがこの島にいる大抵の人間に後れを取るなどということは考えにくいことですが、万が一ということもありますので。いかが?」

 …すごい。この短い時間、そして状況を聞きかじっただけで、そんなところまで考えるなんて。

「アナスタシア、どうして…?」

 アナスタシアの言葉に、俺は一瞬戸惑ってしまう。しかし、アナスタシアは俺の方を見つめ、しっかりとした口調で言う。

「…あなたは、先ほどクリスティナの笑顔を見たいと言いました。わたくしの友となってくれたクリスティナの笑顔を。ならば、わたくしはあの子の友として、あの子の助けとなるだけです。

 そして、クリスティナは真っ先にあなたに危機を伝えた。あなたがあの子の笑顔を願うように、あの子はあなたを待っているはずです。」

「アナスタシア…。」


「------さあ、行きなさい。

あなたが、本当にクリスティナという姫君の笑顔を守りたいと願う、一人の騎士であるならば。」

 

 ーーーーーーよし。

「アナスタシア…ありがとう。俺、行ってくるよ!」

 俺はアナスタシアにもう一度お礼を言って、一直線に生徒会室を飛び出した。学園の裏庭に着くやいなや、俺はアナスタシアから借りた学生証を、扉のICカードリーダーへと押し当てる。

(…頼む!!)

 扉が、ガコン!と大きな音を立てて開いた瞬間、俺は隙間から体を滑り込ませ、先ほどのルートとは逆向きのルートを少しずつ進んでいく。先ほどはそれほど感じなかったことだが、一人で通るには、この無機質で生気がなく、俺の足音だけが木霊する通路はかなり不気味だ。そんなことを思いながら走っていると。


『ふぇ…ふぇぇ…。』


 遠くから、クリスの泣いている声が聞こえる。

「クリス…クリス!!」

 俺は彼女の名前を呼びながら、声のした方へと走り続ける。そして、視界が開けた時。


「か…鶴城…さん…。」

 

 暗い廊下にへたりこんだクリスが、目の前に現れた俺の名前を呼ぶ。

「クリス、大丈夫!?怪我とかはしてない?」

「は…はい、大丈夫です…で、でも…このままじゃわたし…。」

 また大きな不安が出てきたのだろう。クリスがまた、瞳に大粒の涙を抱えて、堪えきれずに泣き出してしまう。

「…大丈夫だよ、クリス。」

 俺はクリスの手を握り、泣きじゃくる彼女を安心させるべく声をかける。

「大丈夫。クリスが電話してきてくれてから、アナスタシアがすぐに動いてくれたんだ。今頃、駅は大騒ぎだと思うけど…でも、クリスの鞄を持っていった人も、今頃は迂闊に外に出られなくなってるはずだよ。これからフィアナさんやアナスタシアも来てくれるはずだから。だから泣かないで。ね?」

 その時。


「ねぇ、嘘でしょ!?なんで生徒会や風紀委員があんなにいるわけ?」

「あたしに聞かないでよ!そもそも、今日はあのポンコツのお守りをしてる会長はいないはずだし!」

「でもこの仕事の速さ、確実に生徒会の誰かには知られてるわよ。どうすんのよこれ?」

「いや、だから知らないってば!」

 

 目の前の通路から、二人組の声が聞こえてくる。その二人組…猫の耳のような髪型の女の子と金髪のショートヘアの女の子が、クリスの隣にいる俺を見て、しまった、という顔をする。

「ええ!?ちょっとルイーゼ、あんた、このポンコツ以外は誰もいないっていってなかった!?」

 金髪ショートヘアの女の子がそう言うと、猫耳の女の子は首をぶんぶん振りながら答える。

「ほ、ほんとよグラディス?あたし、ちゃんと確認したし!」

 そんな彼女たちに、俺は声を低くして訪ねてみる。

「…ねえ、君たち、こんなところで何してるの?」

 その問いに、猫耳の女の子が答えてくる。

「え、えー?えっと、あたしたち、ちょっと演習場で練習しようかにゃー、って…。」

「練習?今から?もう外も暗いのに?ついでに言えばここ、今くらいの時間まで貸し切りだったはずなんだけど。アナスタシア・ニコライエヴナ・シャシコワさんって子の名前で。カードキーも彼女とここにいるクリス、それから俺の名前で借りてるはずだし、ブロックCの守衛さんに聞けば、そんなことすぐわかるはずだよね?」 

「え…あ…ああ、そうそう。守衛の人に聞いたらそうだっていうから、場所空いてるなら頼んで空いてるところを使わせてもらおうかなー、なんて。」

 金髪ショートヘアの女の子が、目を泳がせながら言う。

「そっか。でもお生憎様。残念ながらここのカードキー、今ないんだよね。誰かがいたずらで持っていっちゃって。クリス曰く、鍵はもう閉めちゃってるらしいし、鍵がなければここは開けられないわけだから、この場所を君たちが使えるようにはならないわけなんだけど…


 …わかったら、さっさとその手に持った鞄のうち、クリスの持ってた鞄、返してくれないかな。それから、一緒に持っていったはずのカードキーはどこにやったの?まだ鞄の中?」


 …無機質で薄暗い廊下でも、俺は猫耳の女の子が持っているもの…左右の手に一つずつある革製の通学鞄を見落としてはいなかった。

 目の前の二人の顔が、少しずつひきつっていく。

「え…えぇ…?あ、あんた何言ってんの?あたしたちがいたずらでその子の鞄とカードキーを持っていったって…?何を根拠に…。」

 金髪ショートヘアの女の子が、俺に言ってくる。

「いや、実は俺、だいぶ前だったけど、クリスの下駄箱にいたずらしてるっぽい君たちを見てるからさ。カッターナイフか何かでクリスの革靴をぼろぼろにした後に、クリスを馬鹿にする手紙も置き土産にしていったでしょ?」

 …俺は、彼女たちの姿をよく見て、自分の視力と記憶力を称賛したくなっていた。

 あの髪型と髪の色、あの背丈や体型。あの時は一瞬だったけれど、よくよく思い出すと、目の前の二人の女の子のすべてが、あの時見た人影に合致している。

「え?い、いやぁ、なんの話?そんなことした覚え、あたしたちまったくないにゃ~。」

「そう、じゃあそれは俺の記憶違いってことにして…ならその手に持ってる鞄は?さすがに二人で鞄三つは多いでしょ。」

 猫耳の女の子がいった言葉に被せるように俺が言葉を上書きすると、金髪ショートヘアの女の子が食い下がってくる。

「あ…そう!あたしたち、アナスタシア様のチームメイトなのよ!だからね、アナスタシア様の鞄を、あたしたちが交代で持ち歩いてるの!あのお方はお嬢様だし、あたしたちはあのお方を慕ってるわけだし、そのくらい普通でしょう?」

「へぇ、アナスタシアの知り合いだったんだ。しかもパンツァーΩのチームメイト、そりゃすごい。…でもさ、アナスタシアはここを出てからずっと俺と生徒会室で書類整理してたし、その時に鞄を自分で持ってたのを見てるんだけどね。ついでに言えば彼女、いつも鞄は自分で持ってるから。俺も彼女のクラスメイトだし、生徒会に手伝いにもよく行くし、最近は結構話したりもするし、そのくらいは知ってるよ、残念だったね。」

「なっ…!?」

「ちょ…ちょっとグラディス、あんた何てこと言ってくれてるのよ!?」

「だ、だってルイーゼ…こんな冴えない男がアナスタシア様と親しいだなんて、あたしだって思わないわよ…!そもそも、チームメイトのあたしたちだって、アナスタシア様と話すことすら畏れ多いのよ?それなのに簡単にアナスタシア様のことを呼び捨てに…どれだけアナスタシア様と親しいのよ、この男…!?」

 今まで辛うじて言い訳を絞り出していたらしい目の前の二人は、俺の今の言葉を聞いて露骨に慌て出す。なるほど、アナスタシアを様づけしてるところからして、チームメイトというのはどうやら嘘ではないらしい。

 …なら、もう畳み掛けてしまってもよさそうだな。

「あ、ちなみに駅を封鎖してくれたのはそのアナスタシアだから。そのうちここにも来るって言ってたよ。…チームのメンバーがこんなひどいことをして、なおかつ自分を隠れ蓑に使おうなんて卑怯なことを考えてたって知ったら、彼女、一体何て言うだろうね。」

「くっ…!」

「ぐ…!」

 俺の言葉に、もはやぐうの音も出ないらしい二人に、俺は止めとばかりに言い放つ。

「もうやめようよ。ここでクリスに鞄とカードキーを返して、クリスにもう何もしないって約束してくれたら、俺たちだってこれ以上騒ぎを大きくするつもりはないから。…まあ、フィアナさんやアナスタシアに黙ってて、っていうことは…さすがにここまで大事になった以上は無理だろうけど、こんな騒ぎを起こしてごめんなさい、って一緒に謝ることはできるはずだよ。」

 その言葉に、ルイーゼと呼ばれていた猫耳の女の子と、グラディスと呼ばれていた金髪ショートヘアの女の子が、にやりと不敵な笑みを浮かべ------

「------」

「------」


「あ…。」

 離れていたこともあり、聞き取れないほどに小さく二人が呟いた瞬間------ルイーゼの全身を、クリスのスヴェルとはまた少し違う旧ドイツ軍の軍服をアレンジした服、グラディスの全身を、第二次大戦期のイギリス軍の軍服に近い服がそれぞれ覆っていくのを見て、クリスがびくっ、と肩を震わせる。

 ------まさか、さっきのはルーンの詠唱!?

「…こんなところでスヴェルを着て、どうするつもりなんだ!?学園の規則じゃ、許可のないルーンの詠唱は------」

 俺が身構えながら叫ぶと、二人は表情を崩さずに、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。

「…はっ、ここまで来たら、もう規則とか何とか関係ないわ。」

「そうね…どうせ今ここにいるのは、最上位ヴァルキリーのくせにやる気のない女と、自分じゃ何もできない男の二人だけ…。こいつらがいなくなれば…。」

 …まさかこの二人…力ずくで俺とクリスを黙らせる気か!!

「だ…だめ…。」

 クリスが涙を流しながら、震える声で小さく言う。しかし、彼女たちには聞こえていないらしく、二人はまたにやりとして続ける。


「…あんたたちこそ残念でしたー。だって、あたしたちに喧嘩を売ったんだから。」

「後であたしたちが、どうやらあんたたちは事故に遭ったらしいとでも言っておくから。------じゃあね。」

 

 そう言った二人の銃口がこちらを向いた時------


「------だめ…だめっ…!!」


 俺の隣にいたクリスが、俺の前へと踊り出る。瞬間、クリスの体をスヴェルが覆い、ルイーゼとグラディスに向けて突き出すように伸ばしたクリスの左腕に現れた機関銃が、けたたましい爆発音とともに銃弾を次々と撃ち出した。まさか撃ってくるとは思わなかったのだろう。二人は驚愕の表情を浮かべるが、咄嗟の判断で照準をこちらから外し、ぱっと別々の方向に横に飛んだ。彼女たちのいた場所の空気を弾丸が一直線に突き抜け、廊下の壁を次々と穿っていく。

「え…?あ…。」

 いつの間にかスヴェルを纏っていることに気がついたらしいクリスが、自分の左腕の機関銃から上がる硝煙に、驚きとそこから来るのであろう恐怖に顔を歪める。

「ち…違う…違うの…わたし、そんなつもりじゃ…。」

 クリスも、自分が人に銃口を向けて、しかも模擬弾ではなく実弾を撃ってしまうとは思わなかったのだろう。クリスがその場にぺたんと座り込んだ瞬間、クリスの体を覆う服が、今まで着ていたスヴェルから普段着ている学園の制服へと変わる。クリスが自分の体を抱き抱え、自分のしてしまったことへの恐怖に震えながら泣き出してしまった時。

「え…!?」

 起き上がったルイーゼが、自分の装甲に一直線に走るへこみを見て、今までにない驚愕の表情を浮かべる。おそらく、クリスの撃った弾が装甲の表面をかすめたのだろう。直撃しなかったことは幸いと言えるが…しかし、クリスの発砲は目の前の二人の頭を沸騰させるには十分なことのようだった。

「------この女、よくも…!!」

 同じく辛うじてかわしたらしいグラディスが、へたり込むクリスを鋭い眼光で睨み付け、クリスに向けて、お返しとばかりに機関銃を撃ちまくる。先ほどの自分の機関銃の掃射によって完全に腰が抜けてしまっているだけでなく、周りも完全に見えなくなってしまっているのだろう。クリスは動けない。クリスの機関銃掃射の際、咄嗟に耳を覆って体を小さくしていた俺は、グラディスが俺に向けて銃口を向けたことに気づくのが遅れてしまう。

「クリス…!!」

「あ…。」

 一瞬反応が遅れた俺が叫んだことにクリスが気づく。しかし、もう遅い。最上位ヴァルキリーであるクリスにとって、スヴェルを纏っていればおそらく豆鉄砲程度であろう銃弾。だが、いかに最上位ヴァルキリーであっても、人によって身体能力の向上はあれど、こと防御力に至っては基本的にスヴェルを着ていない状態では普通の人間と変わらない。スヴェルの守りを失ったクリスへと凶弾が突き刺さろうとした時------


「------Schürzen!!」


 聞き覚えのあるやわらかな、しかしよく通る声と、ぱちん、と指を鳴らすような音と共に、どこからともなく現れたたくさんの金属板が、クリスの全身を覆うように広がり、金属同士が幾度となくぶつかり合う音と共に、クリスの体を食い破ろうとした銃弾が金属板にことごとく弾かれ、周りの壁へと突き立っていく。

「------鶴城さん、クリスティナ、遅くなってしまってごめんなさいね。」

 暗がり------俺が通ってきた裏道から、声の主が姿を現す。

 クリスのスヴェルとよく似た、旧ドイツ陸軍の士官服。右腕の装甲に主砲、左腕の装甲に機関銃を携えているのはクリスとあまり変わらない。しかし、彼女の周りには、クリスのスヴェルにはないもの…先ほどクリスを守ったものと同じものであろう金属板が多数浮いている。

 

「------フィアナさん…!!」


 俺は大きな声を出していた。

「なっ…。」

「…生徒会長…!?」

 ルイーゼとグラディスが驚愕の表情を浮かべる中、俺とクリスの前に立ったフィアナさんは、二人に向けて困ったような目を向けて…今まで聞いたことのないくらい低い声色で言う。

「…嫌がらせ、その被害に遭ったのは私の妹に等しい存在、おまけにこんなところで大々的にルール違反ときたわ。ね、あなたたち。仏の顔も三度、なんていう諺が日本にはあるみたいだけれど…知っているかしら…?」

 そのまま、にっこりと笑みを浮かべるフィアナさん。

 …こ、怖い…!!フィアナさん、怒らせるとこんなに怖い人だったのか…。

「ど…どうすんのよルイーゼ…!?悪巧みはあんたの得意分野でしょ!?」

「お、落ち着きなさいよグラディス。…そうよ、いくら会長だって、あたしと同じ第三位ヴァルキリーじゃない。あんたは第二位ヴァルキリーだし、二人がかりならどうにか…。」

「そ…そうね…ここまで来たら、会長だろうが何だろうが…!!」

 そう言って、二人は今度はフィアナさんに、機関銃ではなく主砲を向け、この狭い空間の中で、間髪入れずに砲弾を同時に発射する。

「うわっ…!!」

 ブロックCの廊下は普通の学園の廊下と比べてスペースはかなり広い。機関銃の発射音とは比べ物にならない巨大な発射音は、その広さのある廊下全体に大きく反響し、咄嗟に耳を塞いでもなお、ここにいる全員の鼓膜に致命傷を与えてやると言わんばかりの勢いで空気を振動させ続ける。

「…お、お姉ちゃん…危ない!!」

 クリスが叫んだのも束の間。


「------まったく、私も舐められたものね。」

 

 フィアナさんが、再び指をぱちん、と鳴らす。すると、フィアナさんの周りに浮いていた金属板が互いに一瞬で重なり合い、斜めに角度をつけながら砲弾の進路をピンポイントで塞ぐように立ちはだかる。再び起こった重い金属同士がぶつかり合う音と共に、金属板に弾かれた二つの砲弾は見事に俺たちから反れ、両脇の壁に大穴を開けながらめり込んだ。

「ど、どうして…。」

「なんで…なんでなのよ!?ルイーゼはともかく、あたしは会長より格上のはずなのに…!!」

 驚きを隠せないルイーゼとグラディスに、


「------ルイーゼ、グラディス…あなたたちは、わたくしのチームにいながら、何を学んでいたのかしら。」


 遠くから、また聞き覚えのある…フィアナさんと同じくよく通る、しかし優しげなフィアナさんとは違い、冷たく凍えるような声が聞こえてくる。

「あ…アナスタシア様…!?」

 声の主に気がついたらしいグラディスが後ろを振り返る。そこには、流れるような長い金髪を靡かせ、紫色の瞳をしっかりとこちらに向けながら近づいてくるアナスタシアの姿があった。

「模擬戦で何度も話したはずです。力なき者が、力ある者に何事も劣るとは限らない。ゆえに如何なる時にも油断は許されない…しかし、あなたたちはフィアナの力を知らず、また己の力がすべてフィアナと同等か、あるいは勝るとしか考えていなかったのでしょう?」

 …フィアナさんの力。

 俺が考えた時、フィアナさんがアナスタシアの言葉を補足するように続ける。

「シャシコワさんの言う通りよ、ルイーゼ・ヴァーグナーさん、グラディス・ノーバーンさん。確かに私は第三位ヴァルキリーだし、私の力…Ⅳ号戦車は、例えばクリスティナが持つティーガーⅠに比べれば、火力も防御力も相当に劣ってしまうもの…。普通に考えれば、あなたたちの言う通り、私と同格のヴァルキリーであるヴァーグナーさんはともかく、第二位ヴァルキリーであるノーバーンさんに私が勝つのは難しいでしょうね。でもね…Ⅳ号戦車はあの戦争において、自分よりも遥かに強力なティーガーが出てきてもなお、もっと言えば終戦まで、ドイツ軍の主力のひとつであり続けたわ。二人とも、どうしてだと思う?」

「……。」

「……。」

 答えられない二人に、フィアナさんは続ける。

「それはね…やる気や性能での力押しもある程度はあっただろうけれど…それよりもなによりも、戦うために必要なすべてのもの…自分の手札…もっと言えば、武装や地形、そして、そこから導くことのできる知恵と戦術…それらをしっかりと活用することで、最前線に居続けることができたから。この追加装甲(シュルツェン)もそのひとつ。一枚一枚はただのそれほど厚くない金属板でしかなくとも、車両そのものの装甲の強度や被弾経始と組み合わせることによって、一時的にではあるけれど、その防御力は格段に跳ね上がるの。まあ、本来ならば、今のように砲弾を防げるような代物ではないわけだけれど…でもね、それはあくまでも、ただの追加装甲としてしか使わない時の話。ヴァルキリーの力として用いるなら、それだけである必要はないわ。さっきのように複数枚をまとめて強度を増したり、場合によっては角度を調節して、跳弾を相手にピンポイントで跳ね返したり…そんな応用を駆使することができれば、第三位ヴァルキリーである私でも、ビフレストを繋いでいなくとも第二位ヴァルキリークラス、ビフレストを繋げば、オーディンとの相性によっては最上位ヴァルキリーとも渡り合うことができるのよ。」

 フィアナさんがそう言って、自分を取り巻く金属板を指差す。

(…すごい…。)

 俺はフィアナさんの言葉を、授業で学んだ知識、自分で調べた知識、それから社島に来る以前に珀亜さんから教えてもらった情報を引きずり出しながら聞き入っていた。…確か、シュルツェンとはドイツ軍における追加装甲を意味する言葉で、被弾経始とは、装甲板を設計段階や戦闘中に意図的に斜め向きにして、弾の運動エネルギーを装甲そのものの強度で垂直に受け止めるのではなく、弾いて反らすことで装甲を撃ち抜かれるのをできうる限り防ぐ、という考え方…だったはずだ。

 しかし、俺は簡単に言ってのけるフィアナさんの言葉を聞いて、すごい、という言葉しか出てこない。

 フィアナさんはさっき、今言っていたことの一部を、フィーリングで完璧に実践して見せた。それがどれだけの器用さ、繊細さが要求されるのか…こうしてくれと言われてやるのも難しいことだろうに、戦いの中という一瞬の判断が必要な場所で流れるように実行に移し、そして成功させることがどれだけのことなのかは、素人の俺でもわかる。

「でも…あ…アナスタシア様…その…私たち、アナスタシア様がこんなやつにお時間を使っていらっしゃるのが…どうせ自分のグングニルの音で泣くような弱虫に…!!」

 ルイーゼがアナスタシアの方に向き直り、そう弁解の言葉を言ったとき。 


「…そういえば。」


 アナスタシアが俺に言った。

「鶴城さんは、クリスティナとビフレストを繋いだ経験はおあり?」

 え…?

「え、ええと、アナスタシア、どういうこと…?」

「問いに問いで返すのはお止めなさい。あなたがクリスティナとビフレストを繋いだ経験があるか否か、わたくしが問うているのはそれだけです。」

 …それもそうだ。

「あ…実は、まだないんだ、俺とクリスがビフレストを繋いだこと。」

 アナスタシアに対し、俺は正直にそう返す。

 …編入からかなり経つ俺ではあったが、未だにビフレストの接続を経験したことがあるのは、パンツァーαのメンバー、シャーリー、ヴィクトリカ、エレーナ、飛鳥だけだ。ついでに言えば、実技も一週間に二回ほどあるかないかだから、ビフレストを繋ぐこと自体、そもそもほとんどないと言っていい。

「…丁度よいでしょう。この場で、クリスティナとビフレストを繋いでご覧なさい。」

 …は?

 アナスタシアのその言葉に、俺はぽかんとしてしまう。

 ビフレストを繋いでみろって?

「…えっと、どうして…?」

 よくわからずに聞き返すと、アナスタシアはそのまま続ける。

「理由は二つほどあります。そのうちのひとつは、あなたのオーディンとしての力が類稀なものであるらしい、ということ。」

 …なるほど。

 …実は、今までの授業の中で、俺はオーディンとしての力…具体的には、ビフレストを繋いだときのヴァルキリーの能力向上が、普通の人よりも著しい、ということがわかっていた。クリスやリゼット以外のαのメンバーとビフレストを繋いだ時、そのどれもが、一時的に二段階程度上のランクになっていたのだという。…第三位ヴァルキリー以上しかいないパンツァーαであるので、要するにその全員の能力が一時的に最上位ヴァルキリーに相当するレベルまで上がっていたということになる。…しかも、精密に調べたところ、おそらく現在存在するヴァルキリーすべてにこれが適応できるだろう、という結論が出たのだそうだ。

 ヴァルキリーとオーディン間のビフレストは、能力を底上げしたり、マイナスの性能補正を緩和するのは、一段階上程度になら簡単にできるし、場合によっては二段階以上上のヴァルキリーに匹敵する力を得られることもないわけじゃない。しかし、二段階以上の能力の向上を図るには、ヴァルキリーとオーディンが遺伝子レベルまで相性が良いことが必要だと言われている。それゆえ、たまたま一人と篦棒に相性がいいことはあれど、複数人と繋いだビフレストがすべて、数段階上の能力の向上パターンに合致することは前代未聞なのだそうだ。

 …まあ、確かにアナスタシアの言いたいことはわかる。だが、それはクリスが自分の力を怖がることへの緩和にはさすがに繋がらないだろう。ならば、どうして…?

 アナスタシアは、今度はクリスを見て続ける。

「そして、もうひとつ…クリスティナ…あなたは、どうしてあの時、わたくしや鶴城さんに、手をさしのべてほしい、見ていてほしい、と話したのです?さらに言えば…ヴァルキリーであり、相談を受けることもできるわたくしはともかくとして、なぜ、鶴城さんだったのです?」

「え…?」

 はっとして、クリスが顔を上げる。アナスタシアはそのまま、クリスに向かって問いかけた。

「あなたの真意はわかりかねます、しかし------あなたが彼がここにいてほしいと思う理由は、彼の存在が、あなたにとって何かの力になると考えているから…そうではなくて?」

 …俺のことが?

 そんなことを考えるうちに、アナスタシアはクリスの手を握り、意思のこもった力のある声で言う。

「そして、あなたはヴァルキリー、彼はオーディン。彼の存在が必要ということならば、ビフレストを繋ぐことは、彼の存在を近くに感じることのできる最大の策…ビフレストの接続によって、あなたは自分の力を上手く引き出し、恐怖心を克服することができるのでは…わたくしは、そう考えているのです。」

 アナスタシアは俺とクリスの前に膝をつき、右手で俺の右手を、左手でクリスの左手をしっかりと握って言う。


「見せてごらんなさい、鶴城さん、クリスティナ。あなたたちの力を、あなたたちの心に眠る気持ちを、ここにいる者たち皆に。」


 そのまま、アナスタシアは俺とクリスの手を近づけ------俺とクリスが手を繋いでいるように握り直させる。

「あ…。」

 息をついたクリスが------いつもならば、驚いて手を引っ込めてしまうであろうクリスが、顔を赤らめて一瞬びくっとしたと思うと------今度は自分から、俺の手をぎゅっと握ってくる。

「鶴城、さん…。」

 こちらに振り向いたクリスが、頬を赤らめて、しかし手は離さずに、俺に潤んだ目を向けてくる。それに呼応するように、俺の心臓の鼓動がどんどん速く、そして大きくなっていく。


 ------わたしに、力をください。


 俺が「本当に愛しい」と思える表情を向けて、クリスはそう言っている気がした。

 

「クリス、やろう。」

 俺は、クリスにそう言っていた。

 クリスは声に出すことなく、涙がまだ乾かない顔をこちらに向け…しかし嬉しそうに、俺ににこっ、と笑いかけて、握っている俺の手を、今度は自分からぎゅっと握り返してくる。

 ------確かに俺は今、彼女を愛しいと思った。いや------今まで俺が心の中で持っていたのであろう気持ちを、きちんと落とし込むことができた、という方が正解だろう。…思えば、はじめて出逢ったとき------あの時から、俺はクリスに惹かれ始めていたのかもしれない。

 …そりゃ、俺が自分の気持ちに気づいたところで、クリスの本当の気持ちは俺にはわからない。ひょっとしたら、クリスはこの間にも、何かしら無理をしているのかもしれない。

 …だけど、今、俺の手を握ってくれているのはクリスだ。俺が愛しいと思えた、ただ一人の女の子だ。


 ならば。

 俺は、彼女の力になりたい。今までよりも、もっと、もっと。


 さっき、アナスタシアが言っていたことを思い出す。

 クリスは------俺が好いている女の子は、他の誰でもない、俺を呼んでくれたのだ。

 ならば、俺はそれに応えなくちゃならない。

 クリスが本当に俺を好いてくれているか、そんなことはわからない。でも、そんなことはどうでもいい。それほどまでに、俺はただクリスの力になりたい気持ちは、自分のクリスが好きという気持ちとごちゃごちゃに混ざり合い、巨大な奔流となって俺を呑み込んでいた。

「…ルイーゼ、クリスティナに持ち物を返しなさい。その中に、演習場のカードキーが入っているはずです。」

「……。」

 ルイーゼは歯を食い縛って、手に持つクリスの鞄を床に叩きつけようと振り上げ------しかしそのまま数秒止まったと思うと、震える手でその鞄をクリスの方に突き出し、手を伸ばさないクリスの代わりにフィアナさんがそれを受けとると、グラディスと共に踵を返そうとする。

「待ちなさい。」

 アナスタシアが、二人を制止した。

「あなた方も見ていきなさい。そして、クリスティナが本当に弱き心の持ち主なのか…それを己の目で確かめなさい。」

 アナスタシアの言葉に、ルイーゼとグラディスは俯いたまま、こちらへと向き直ったのを確認して、フィアナさんがクリスに鞄を渡して言う。

「クリスティナ、あなたがこの扉を開けなさい。あなたがしたいと思ったことだもの。私はあなたのお姉さんとして、それを尊重するわ。」

「フィアお姉ちゃん…はい…!」

 クリスは鞄を受けとると、鞄から学生証を取り出して、そのポケットから取り出したカードキーを、ICカードリーダーに当てる。解錠を示す電子音の後、自らの手で扉を開けたクリスは、手を握る俺の方に向き直り、震えながら、しかししっかりとした口調で言った。


「鶴城さん…お願いします。

 わたしに、力をください。

 ------私が泣かないように、わたしが怖がらないように。」


 …決まっている。俺はクリスの手をもう一度しっかりと握り------


 「------接続(コネクト)------!!」


 自分で考え、今までずっとクリス以外の他人に唱えてきたビフレスト接続のルーンを、俺が唱えた瞬間。

「あ…!!」

 クリスの全身が、淡い光に包まれた。その光は、瞬く間に淡い光から眩い白い閃光へと色を変え、薄暗い廊下、そして蛍光灯をつけていないはずのがらんどうの演習場をも、真昼のように照らし出す。

 ------それは、αのみんなとの接続ですら見たことのないようなもので。

「これは…まさか、クリスティナと鶴城さんの相性がこれほどのものだなんて…おそらく四段階、五段階…いいえ、もっとそれ以上…こんなことが…!!」

 フィアナさんが驚愕の声を上げる中、クリスが目を閉じて、空いている右手を胸に当てた。


「------っ。」


 クリスが息をつく。瞬間、クリスの体を覆う制服が、再び彼女のスヴェルへと変わる。自分の意思でスヴェルを纏ったクリスが目を閉じたまま、右手の主砲------アハト・アハトを虚空に向ける。本当はまだ怖いのだろう。主砲の先が細かく震えている。

(「クリス…頑張れ…頑張れ!!」)

 俺は、クリスの左手を握りながらそう心の中で呟く。

 ふと------クリスの左手が、俺の手をさらにぎゅっと強く握りしめ、クリスがふっ、と表情を柔らかくして、大きく深呼吸したと思うと------


「------発射(Feuer)!!」


 クリスが一思いに虚空に向けて叫んだ瞬間------轟音を轟かせ、アハト・アハトが火を噴いた。その重い発射音は、周りの空気をこれでもかと振動させ、隣に立っている俺の鼓膜を激しく揺らす。しかし着弾はなく、向こう側の壁には傷ひとつついていない。

 

「------あ…で…できた…。弾も…ちゃんと空砲にして…。」


 クリスが、そのままぺたんと座り込む。そう…クリスは今、自分の砲の音に驚かなかっただけでなく、先ほどのように間違えて実弾を撃ってしまうこともなく、しっかりと空砲を装填した上で主砲を発射したのだ。

「クリス…やったね。」

 俺は今度はクリスの両手を握り、静かにクリスの頑張りを讃える。

「鶴城さん…ありがとう…ございます…。手を握ってくださって…わたしに力を貸してくださって…。」

 ぽろぽろと泣き出すクリスと、彼女の頭を撫でる俺を見ていたアナスタシアが、ルイーゼとグラディスに向き直る。

「どうです?クリスティナが…他人の発砲音すら恐れていたあの子が、怖れずに己の力を行使できるようになったこと…。

わたくしはずっと、クリスティナの努力をこの目で見てきました。少しずつでしかなく、辛い思いをしたこともあったでしょう。しかし、クリスティナは諦めず、そしてこの場において、己の持つ力に対する恐れを、こうして見事に振り切って見せた…それは、讃えられることこそあれ、誰かの口から卑下されることではありません。」

 アナスタシアは今度はクリスに向き直り、クリスの前に膝をついて言う。

「クリスティナ、泣くのはお止めなさい。…わたくしは先ほどの主砲の発射を見届け、あなたがルイーゼとグラディスに向けて発砲した音も聞きました。------あなたのその行動が、鶴城さんを守ることに繋がったのです。胸を張りなさい。」

「わたしが…わたしが、鶴城さんを守った…?」

「そうです。それもまたあなたの強さ。あなただけの…そしてきっと、あなたにしか持ち得ない資質。それを…絶対に忘れてはなりません。よろしい?」

 そう言って、アナスタシアが自分の胸へとクリスを抱き寄せた時。

「------っ。」

 クリスがアナスタシアに抱きつき、ぽろぽろと涙を溢す中、アナスタシアは静かにクリスを抱きしめ返す。

 そこには、普段のアナスタシアが見せることのない、友達を元気づけようとする一人の女の子の表情が、確かに見てとれたのだった------

  

 

「…鶴城さん…ありがとうございます。」

 俺とクリス以外に誰もいなくなった演習場で並んで腰を下ろしていた時、クリスがそう呟いた。

 あの後、フィアナさんとアナスタシアは、ルイーゼとグラディスを連れて生徒会室に戻って行った。どうやら二人は今から反省文を書くことになるらしい。アナスタシア曰く、パンツァーΩから二人を除名した上で、監督不行き届きの責任を取るなんて言って自分の退学処分も厭わなかったらしいけれど、それはさすがにやりすぎだし、二人が反省してくれればこっちも大事にするつもりはないということで、俺とクリスが二人でストップをかけた。

「そんなことないよ。俺はクリスとビフレストを繋いだだけだから。クリスの力だよ、今日のは。」

 俺がそう言うと、クリスはぷるぷると首を振って言う。

「違います…違うんです。…鶴城さんがいなかったら、ビフレストを繋いでくださらなかったら、その…わたし、きっとまた失敗してたと思いますから。」

 クリスはそう言って、少し俯いて続ける。

「------鶴城さんにお電話したとき…わたし、すごく不安だったんです。どうしてこんなことになるのかもわからなくて、また失敗しちゃったっていう気持ちもあって…でも、鶴城さんが来てくださった時、少しだけ落ち着くことができたんです。どうすればいいかは全然わからなかったけれど…それでも、あなたが来てくださったことが、わたし、嬉しかったんです。

 それに…機関銃を撃っちゃった時…あの時、すごく必死で…あなたが撃たれそうになってるのが…目の前であなたがいなくなっちゃいそうなのが、すごく…怖くて…。」 

 …そうだったのか。

「…クリス、ありがとう。」

「え…?」

 俺は何を言われているかよくわかっていないらしいクリスに向き直り、その手をぎゅっと握る。

「クリスがあの時、俺を守ってくれなかったら、俺は怪我してたから。下手したらそのまま死んじゃってたかもしれない。…クリスは人を傷つけたくないって思ってるわけだし、俺もクリスに無理に力を使うことはないなんて言っちゃったわけだから、もしかしたらクリスにとっては辛いかもしれないけど…でも、クリスが守ってくれたから、俺はここにいられるんだから。だから、ありがとう。」

「…鶴城さん。」

 彼女が俺の名前を呼んで、つうっ、と頬に涙を伝わせて言う。

 

「------鶴城さんは、優しくて、温かくて、お話を聞いてくださって、練習に付き合ってくださって…そんなあなたを見ていくうちに、胸がどきどきして、気がついたらあなたを目で追いかけていて…。もっと見てほしい、もっとお話を聞いてほしい、もっともっと、もっともっと、って思うようになって…。そして、さっきビフレストを繋いでくださった時…真っ白で純粋な気持ちが流れ込んできて…わたしの力になりたい、っていう気持ちが、たくさんたくさん伝わってきて…。


 だからもう------我慢できないんです。


 わたしは鶴城さんが好き…。わたし、あなたの側にいたい…ずっとずっと…あなたの側にいたいんです…!!」


 ------。

 俺は、クリスの言葉にはっとする。

 クリス------俺が先ほど、自分が好きなのは彼女だと自覚した女の子が、今、目の前で俺のことを好きだと言ってくれている。その言葉が脳髄を揺らし、えもいわれぬ満足感が、俺の心を満たしていく。


「…両想い、ってことでいいのかな。」


「え…?」

 俺の言葉にはっとするクリスに、俺はそうはっきりと伝える。

「俺だってそうだよ。気づいたら、クリスの方ばかり見てたんだ。誰にも分け隔てなく優しくて、一生懸命で…俺も、そんなクリスに惹かれたんだよ。きっと…出逢ったときからさ。最初はあんな出逢い方だったけど…でも…あの出逢い方じゃなくたって、きっと俺はクリスのことを好きになってたよ。」

「か…鶴城さん…わたしのこと…。」

 ぽろぽろと涙が溢れるクリスの目尻を、俺は指で優しく拭って、はっきりと伝える。


「俺だってクリスが好きだ。ずっと一緒にいてほしいのは俺だって同じだよ。

 だから、俺からも言わせてほしいんだ。


 クリス、俺の恋人になってほしい。ずっと一緒に、俺の隣にいてほしい。」


「夢じゃ…ないんですよね?わたし…鶴城さんの…ううん…誠さんの側にいて…彼女さんになって…いいんですよね…?」


 クリスが泣きながら、しかし嬉しさを抑えられないといった顔で俺に問う。

「…やっと、名前呼んでくれた。ほら、保育園にボランティアに行ったときさ、子供たちに向かって、俺のこと『誠お兄ちゃん』って言ったでしょ?あの時、すごくどきっとして…でも、すごく嬉しかったんだ。…きっと俺、ずっとクリスに名前を呼んでほしかったんだよ。」

 俺はクリスに近づき、一思いに抱き寄せる。クリスは逃げずに俺にその柔らかな体を任せ、俺の胸に顔を埋めてくる。

「…誠さんの胸の鼓動…とくん、とくん、ってなってます。」

「クリスだってそうだよ。俺の方にも、クリスの鼓動、伝わってきてるよ。」

「…この鼓動…ずっと聞いていたいです。」 

「聞けるさ。だって俺たち、もう恋人なんだから。」 

「…はい。…あの…誠さん。」

「何?」

「…お部屋に戻ったら寂しくなっちゃいそうなので…もう少しだけ…ぎゅっとしてほしいんです。…だめですか?」

 …クリス、その上目遣いはずるい。

「駄目なわけない…俺も部屋に戻ると寂しくなっちゃいそうだから、今のうちにクリス分を補充したい。」

「…ん。はい、たくさん補充してください…。」

 

 俺たちはそんなことを話しながら、暗い演習場の中で抱きしめ合い続け------部屋に戻ったのは、それから何時間も経った後のことだった------

 

※※※ 

 

(another view“Christina”) 


「誠さん------」

 お部屋に戻って、わたしは彼の名前をもう一度呼んでみる。

「誠さん…誠さん…。」

 その名を呼ぶ度に、わたしの心に彼の顔が、声が、温かさが、ビフレストを通じて心に届いた彼の気持ちが甦り、今まで何度も経験した、苦しいけれど不快ではない胸の痛みがわたしを襲う。彼にもっとわたしを見てほしい、抱きしめてほしい…胸の痛みはやがて快感へと変わり、最終的には、もっと、もっと、と彼に向かって手を伸ばしたい強い衝動へと変わる。

(…誠さんのお部屋…いつかお泊まりとか…してみたい…ような…。)

 わたしはそんなことを考えてしまう。

 別れ際、彼は「寂しかったらお部屋においで」と言ってくれたし、わたしもそうしたいと思う。でも、女子の階層と男子の階層を行き来することはあまり推奨されていない上、わたしのお部屋はフィアお姉ちゃんの隣のお部屋ということもあって、階段からはかなり遠い位置にある。寮長室からは離れているので、誠さんのお部屋に行くためにその前を行ったり来たりしても怪しまれることはないだろうが、さすがにわたしが誠さんのお部屋にお泊まりするのにお部屋を空けることで、フィアお姉ちゃんを心配させてしまうことはありうるだろう。…思い切ってフィアお姉ちゃんに、誠さんとお付き合いすることになったことを伝えるべきだろうか。…いや、今言うのはさすがに恥ずかしい。とりあえず、もう少しだけ様子を見て…。

 そんなことを思っていた時。


「------姉さん、帰ってるの!?」


 ドアを激しく叩く音と共に、血相を変えたアンネがお部屋に飛び込んできた。

「ひゃぅ…!!あ、アンネ、落ち着いて。どうしたの?」

 わたしがいることを確認すると、アンネはベッドに座るわたしの方へと飛んできて、

「どうしたの、じゃないわよ!!全然帰ってこないし、電話にも出てくれないし、フィア姉さんに電話したらブロックCの演習場にいるはずだとか言うし、そうかと思うとブロックCの駅が封鎖されたとか言うし、何かあったんじゃ、って思って駅に行っても何も教えてくれないし、通してって言っても通してくれないし!!」

 そんな言葉を次々に大声で羅列していくアンネ。

 …携帯電話を見てみたら、確かにアンネからたくさんの着信が残っていた。わたしが鞄を盗られて誠さんにお電話した時以前の着信もある。…誠さんとアナスタシアちゃんが生徒会室に向かってからの自主練習を一生懸命しすぎたことや、鞄を盗られて気が動転していたり、その後の誠さんとのやり取りもあったとはいえ、まったく気がつかなかった。わたしが帰ってきた時間は、もう夜の10時を回っていた。心配させてしまっても仕方がないことだ。

「アンネ…ごめんなさい、心配させて。」

 わたしは素直に謝る。するとアンネはわたしに心配そうな顔を近づけてきて言う。

「ねぇ、姉さん、正直に教えて。今までどこにいたの?ブロックCの演習場にいたなら、そんなところで何をしてたの?」

「え…あの…ヴァルキリーとしての力、うまく使えるようになりたくて…その、練習…。」

 わたしがそう言ったとき、アンネの顔色が変わる。

「どうして!?姉さんはあんなにヴァルキリーとしての力を使うことは嫌って言っていたじゃない!それもこんなに遅くまで…もしかして、誰かにやれって言われたの?それは誰?教えてよ姉さん!!」

「あ、アンネ、落ち着いて…そんなことじゃないの…誰も悪くないの。それに、本当はもっと早く帰るつもりだったの。でも、鞄と演習場のカードキーをなくしちゃって、それでどうしよう、ってなっちゃって…。」

「…姉さん、鞄をなくしたって言ったわね。本当はなくしたんじゃないんでしょ?また誰かに盗られて、それであんな騒ぎになってたんでしょ?」

「あ…。」

「…そうなのね?」

 …わたしがぼかした部分を、アンネは推測とわたしの反応だけで理解したらしい。

「…姉さん、もう一人であんなところに行かないで。力を使えるようになろうなんて思わないで。いつまでも、わたしの大好きな、優しい姉さんでいてほしいの。」

「え…?」

 わたしがまごつくと、アンネはわたしの両手をぎゅっと握って言う。

「姉さん、私は姉さんのためにここにいるの。姉さんに何も心配をかけないために。姉さんが少しでも笑顔になれるように。…姉さんが苦しんでいること、全部私が背負えるように。

 私たち姉妹は、もう二人きりなの。この上、姉さんまでどこかに行ってしまったら、別人みたいになってしまったら…私は何のために生きていけばいいの?誰が姉さんを守れるっていうの?」

 アンネはそう言って俯き------その後、私に笑顔を向けて言った。


「…そう…姉さんを支えられるのは、私以外にはいない…他の人の支えなんて、親からも捨てられた私たち姉妹には、もういらないんだから。姉さんもそうでしょう?聖キリスト由来の名前をつけられたはずの姉さんなのに、姉さんは神様から祝福されるどころか、見捨てられているに等しい目に遭ってる。

 でも私は違う。私は姉さんを見捨てない。姉さんは私が守るの。私だけが姉さんを守れるの。いじめからも、世界からも、ヴァルキリーとしての宿命からも。」


 …アンネ。

 わたしは、何も言うことができない。

 なぜなら、わたしがここで生きていられるのは、間違いなくアンネがいるからで。

 お父さんとお母さんが蒸発し、身元保証人がフィアお姉ちゃんのお父さんに変わった後、アンネは変わってしまった。

 今のアンネは、わたし以外の他人と話すことも忘れ、ただわたしを生かし、世界を恨むためだけに存在している。

 ------わたしは気づいてしまう。

 いつからか、わたしにだけ見せるようになったそれは、わたしが知っていて、わたしが見たいと願う笑顔ではない。


 目の前のアンネの笑顔。

 それはわたしを不安にさせたくないと思ってアンネが被った、表情のない…あるわけのない仮面のような、明らかな作り物の笑顔だったのだから------ 


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