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Valkyrie Panzer‐守りたい笑顔‐  作者: 雪代 真希奈
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第3章『力は守りたいもののために』

 …まだ頬が痛い。 

 次の日、じんじんする頬に湿布を貼って教室に現れた俺に、重樹が声をかけてくる。

「おいおい誠、そりゃどうした?まさかかわいい子にちょっかい出したとかじゃねぇよな?」

「いや、そんなんじゃないから…ちょっといろいろあってね…。」

 そう言って席につくと。

「か…鶴城さん…!」

 早めに来ていたらしいクリスが、俺に向かって頭を下げてくる。

「ご…ごめんなさい…わたしの妹が…鶴城さんにとんでもないご迷惑を…!!」

「え…。クリス、昨日のこと知ってるの?」

 俺が聞くと、クリスは真っ赤な顔で頬を押さえながら、少しずつ呟く。

「…はい。昨日、寮でフィアお姉ちゃんから聞きました。妹が…アンネが、鶴城さんに誤解で手を上げてしまったって…。ご…ごめんなさい…どうお詫びしていいか…。」

 次第に、クリスの目尻が涙を湛えていく。

「あぁ…いや、そんなに気にしないで、クリス。その場にフィアナさんもいたし、多分、誤解だってわかってもらえたと思うし…。」

「…あー、アンネに目をつけられちまったのか…。」

 何か思い当たるものがあったのだろう。俺の言葉に対して、重樹が苦い顔をして言う。

「アンネの人への信用のなさは人一倍だからな…その場にフィアナ先輩がいなきゃ、お前、今頃確実に死んでるぜ。」

「え…。」

 アンネマリー…みんなアンネって呼んでるみたいだし、アンネでいいか。とりあえず、クリスと重樹が、アンネの情報を教えてくれる。

 聞けば、アンネはフィアナさんの言っていた通りクリスの実の妹であり、そして、重樹が所属するパンツァーβのヴァルキリーの一人でもあるらしい。才能自体は九段階のうちの第五位ヴァルキリーという、ヴァルキリーが扱える力にすれば平均程度のものらしいが、クリスと同じティーガーシリーズのひとつであるティーガーⅡのヴァルキリーで、なおかつチーム一の努力家であり、チーム同士の模擬戦などでβがかなり優秀な結果を残しているのは、才能の平均がそれなりに高く、重樹というチーム専属のオーディンも存在するβの気質もあるのだろうが、彼女の努力も要因のひとつであるのだろうとのことだ。ただし、人間関係を見ると他の人間とはできうる限り深く関係を持ちたくないらしく、姉であるクリスと親戚であるフィアナさん以外とまともに話すことはほとんどなく、重樹たちチームメイトですら、ある程度ちゃんと話せるようになるまではだいぶ時間がかかったことを考えると、初対面でなおかつその場にいた俺にヘイトが向いてしまうのは、ある意味で仕方のないことだったのだろう、ということだった。

 俺はそれを聞きながら、フィアナさんと話したことを思い出す。

 クリスとアンネの境遇について。

 今、クリスと重樹が教えてくれたことは、フィアナさんも言っていたことだ。しかし、それだけではない。それ以外にフィアナさんの言っていたことを、俺は少しずつ思い出していた------



「…クリスの妹…ですか?」

 俺の問いに、フィアナさんが答える。

「ええ。さっきの様子を見ると、クリスティナから聞いてはいないようね。」

「あ…いえ、クリスから妹がいることは聞きました。でも、名前を知ったのも、実際に会ったのも、さっきがはじめてです。」

 フィアナさんは、「…そう。」と一言言って、また俺に向き直った。

「少し聞いてみたいのだけれど…鶴城さんは、あの子…クリスティナから、自分の境遇を聞いたことはあるかしら。」

 一瞬、いきなりのことに戸惑ってしまうが、俺は正直に答える。

「…本人から聞いたことはありません。でも、自信がないような気がするのはわかります。αのみんなは、それなりに気にしているみたいでしたけど…。」

 俺は、この前の実技の時のことを思い出す。

 シャーリーやヴィクトリカが言っていた言葉。あれは、もっと自信を持っていい、という意味の言葉であるはずだ。エレーナも、少しきつい言い方をしてしまった、と言っていたところを見ると、クリスに対して嫌悪感を抱いているわけではないだろう。エレーナの失言に反論した上、自他共に認めるクリスの親友であるリゼットは言わずもがなだし、飛鳥もαのメンバー全員を慕っている。その中には、クリスのこともきちんと含まれているはずだ。

 フィアナさんは「…そうでしょうね。自分のこと、あまり話したがらない子だから。」と言った時、俺はもうひとつ気づいたことを話してみる。

「あ…そういえば…いつだったか、クリスは自分の力を怖がっているように見えました。誰かを傷つける力だからとか、戦うべきものはないから、とか…。」 

 その言葉に、フィアナさんが驚いたような顔をする。

「…鶴城さん…それって…。」

 …あれ、もしかして何かまずいことを言ったのだろうか。

「…あ…ええと、すみません、何か変なこと言っちゃいましたか?」

 俺が言うと、フィアナさんは慌てて首を横に振って答える。

「あ…ごめんなさい、違うの。ただね…あの子が自分のことを話すのは少ないから、少しびっくりしちゃって。」

 フィアナさんは、今度は真剣な顔をして、俺に向き直る。

「…鶴城さんがそのお話を聞いたということは…鶴城さんには話しておく必要がありそうね。」

「え…?」

 俺は目を丸くすると、フィアナさんは表情を崩さずに言う。

「実はね…今話そうとするのは、この社島の外のこと。それから、クリスティナだけじゃない、妹のアンネマリーのことも含めて。話したがらないことを考えると、あの子には申し訳ないような気もするけれど…どのような形であれ、クリスティナがあなたの目の前で本音を言ったと言うことは、あなたのことを信用しているということだと思うから。長くなってしまうと思うのだけれど、大丈夫かしら。」

 …社島の外。

 なんとなく、俺はフィアナさんが何を話そうとしているのかを察する。


 …決めた。


「…フィアナさん、教えてください。クリスたちが何を経験してきたのか。…そりゃ、俺は他人ですし、クリスの経験すべてを受け止められるかはわからないですけど…でも、知らないままでいるのは、嫌ですから。αのメンバーとして…クラスメイトとして…一人の友人として。」


 …俺はそう言って、フィアナさんに向き直る。

 俺は、パンツァーαのオーディン。だけど、オーディンは、ヴァルキリーに力を与えるだけの道具のような存在なんかじゃない。ヴァルキリーもそうだ。兵器の力を使える以外、普通の人間とどこも変わらない。傷つくこともあるし、泣きたくなることだってある。そんな、一人の人間なんだ。

 だからこそ、俺は知りたいと思う。知らなきゃならないと思う。

 クリスにとって、それを知られるのは嫌なことかもしれない。だが、それを知らなければ、先へ進むことはできない。

 今のクリスには、一人でも多くの理解者が必要なのだと思う。

 ならば------俺が彼女の理解者の一人になればいい。

 俺は、心からそう思えた。

 

 フィアナさんはそれを聞いて、「…わかったわ。」と言ったあと、静かに、少しずつ話し始めた。

 


「クリスティナとアンネマリーが社島に来ることになったのは、今から一年以内のことよ。私たちのおうちはケルン…あの大きな大聖堂のある町にあるのだけれど、実は、社島に来る前、私たちは同じ、ベルリンにある中等進学校(ギムナジウム)に通っていたのよ。

 …というよりも、私が初等教育の後にその道に進むことにしたことで、クリスティナやアンネマリーのご両親も、私に続くことをあの子たちに選択させた、という方が正解かもしれないわね。嫌な言い方になってしまうかもしれないけれど、あの子たちのご両親は、かなり負けず嫌いな人たちだから…。ケルンも大きな町だけれど、ベルリンはもっともっと大きな町。そんな都会に私が行くと言い出した時点で、二人のご両親も私に続いてベルリンに行くように促すことは、容易に予想がつくことだったわ。

 確かに、二人ともお勉強は嫌いでも苦手でもないから、大学への進学も視野に入れるのは当然ではあるけれど…もしかしたら何かしたい職業があって、実科学校(レアルシューレ)基幹学校(ハウプトシューレ)に行きたいかもしれない、なんていうことは、ご両親は絶対に思わなかったのよ。

 そしてあの日------先に資質に目覚めてヴァルホルに編入した私に続いて、クリスティナが最上位ヴァルキリーの資質に目覚めた時。ご両親は本当に喜んだでしょうね。自惚れかもしれないけれど、年齢がひとつ違うとはいえ、私にずっと先を越されていた自分の娘の一人が、年上である私を遥かに越える資質を持っていると証明されたのだもの。

 …でもね、クリスティナはその時、こう言ったらしいの。


『ヴァルキリーの力は、人を傷つけるかもしれないものでしょう?

人を傷つけるかもしれない力なんて欲しくない。

人を傷つけるかもしれない技術なんてお勉強したくない』


 そんな喜びも、その娘本人の言葉でぶち壊しにされてしまった…ご両親は当時、きっとそう思っていたでしょうね。

 ヴァルホルの基本的なミッションは、ヴァルキリーやオーディンを保護し、力の使い方をきちんと学ばせた上で社会へと送り出すこと。…ただ、ヴァルホルに編入するということは…力の使い方を学ぶということは、万が一戦いになれば、戦力として数えられることにもなりかねない…人を殺めることにもなりかねない、ということでもあるでしょう?

 確かに、今のところヴァルキリーとオーディンに関する国際法には、ヴァルキリーとオーディンを戦力とする場合、本人の同意を得た上で予備戦力として扱わなくてはならないというような条文はあるし、ヴァルホルのミッションそのものを考えても、それは杞憂かもしれないけれど、それはあくまでも国際法での話。国連加盟国でなくなれば国際法を守る義理はないし、そもそも、どんなにお勉強をして力の使い方を学び、国連の保護を受けたところで…鶴城さんも知っての通り、国際法に縛られずに自分達の理念で動くテロリストや、国際法よりも利益を尊重する民間軍事会社(PMC)のような存在もいる。…そして、そもそも、本当に有事になったとき…どこの国も、国際法があるから、なんて、そんな悠長なことを言っていられるかしら。

 クリスティナは頭もいいし、何より優しい子だから、その自分の力の危険性にいち早く気づいたのでしょうね。…ヴァルキリーとしての資質がある以上、ヴァルホルでの教育を受けるために社島に来なければならないことはあの子もわかっていたはずだけれど…でも、その時というのは、ずっとご両親の目を見て生きてきたあの子が、はじめて自分の意思を示した瞬間だったのだと思うわ。

 …でも、ご両親はそれを許さなかった。

 私の次に社島に来たクリスティナは、辛そうな顔はしていても、ずっと笑顔だった。…ううん、泣きそうな顔を、笑顔で強引に隠していた、と言うべきね。その表情については聞いても教えてくれなかったから、さっきお話をしたことは、アンネマリーが社島に来た後にアンネマリーから聞いたお話なのだけれど…正直、お話を聞いただけで、クリスティナがご両親にとてもひどい目に遭わされたことはわかったわ。アンネマリーはお姉さんっ子だし、そんなひどい目に逢っても抵抗しないでご両親に謝り続けるクリスティナをその場で見ていたわけだから、お話を聞いただけの私よりも、ずっと深い傷を負ってしまったでしょうね。

 クリスティナが来てから半年くらいたった頃かしら、今度はアンネマリーが社島にやってきたのだけれど、でもね…アンネマリーはその時にはもう、私が見たことのある、明るくて活発な子じゃなくなってしまっていたの。今、あなたが見たことのあるあの子みたいに…私にはたまに笑顔を見せてくれることもあるけれど、それも人前ではほとんどなくなってしまった。それどころか、人に対してとてつもない不信感を持つようになってしまっていたのよ。

 私は聞いたわ。何があったの?って。そうしたら…あの子、さっきクリスティナがひどい目に遭ったことを話してくれた後、なんて言ったと思う?

 あの子はこう言ったの。


『お父さんとお母さんに、「お前たちは希望を出して軍人になれ。軍人は国家公務員だから、お金はたくさん手に入る、才能だけのやる気のない姉、努力は認めるが才能のない妹、そんな二人を育ててやったのだから、そのお金で自分達に恩返ししろ、楽をさせろ」って言われた』って。


 正直、前々から二人のご両親の横暴さには私もずっと頭を抱えてきていたけれど…これだけは本当に私も頭に来たわ。だってそうでしょう?あの人たちは、クリスティナとアンネマリーの親という立場を利用して、二人に自分たちのわがままを押し付け続けてきたのに、まだそんな都合のいい考えを持っているのだもの。あの子たちのおうちにすぐに電話までして、何を考えているのか問い詰めたわ。…でも、あの人たちは私の話も聞く耳持たず。私のお父さんとお母さんに連絡して同じことを伝えてもらったけれど、結果はまったく変わらなかった。それどころか、ならばあなたたちが二人の親になればいい、と言われたらしいわ。…その次の日、あの子たちのおうちはからっぽになっていて、ご両親の姿はなかったそうよ。

 だから、今は未だに連絡がつかないあの子たちのご両親に代わって、私のお父さんがあの子達の身元保証人になっているのだけれど…あの子たちにはもう、本当の親はいないと同じ。あの子たちは…一番愛してほしかったはずのご両親のわがままを受け入れさせられ、利用され、裏切られ、そして捨てられてしまった…そんな可哀想な子達なのよ。

 ご両親が蒸発したのを知った時…アンネマリーは至って冷静だったわね。あの子はもう、その時点でご両親を見限っていたの。それは当然のことだけれど…でも、クリスティナはそこでも強い子だったわ。自分のお父さんとお母さんを責めたりしなかったし、むしろそれでもなお、自分に非があって、お父さんとお母さんを何かの理由で苦しめてしまったんじゃないか、って泣いていたのよ…。私に抱きついて、泣きつかれて眠ってしまうまでずっと、ずっと、ね------」


 

(…フィアナさんが言うには…クリスはフィアナさんには、いじめられていることとか、自分からは何も言ってないみたいだった。)

 …俺は初めて社島に来たあの日を思い出しながら、心の中で呟いていた。

 お風呂でクリスと鉢合わせしてしまった俺に、彼女は泣きながら、必死に「ごめんなさい」と繰り返していた。もちろん、あれは自分の失敗によるものだったわけだから、俺はクリスがそう言うのもある程度当たり前のように考えてしまっていたわけだけれど。でも、もしそうだとしても、それがいじめを受けていることを黙っている理由にはならないだろう。その話さない相手とやらが、確実に味方になってくれるであろうフィアナさんならば尚更だ。


(------フィアナさんの言葉を考えると…)


 ------もしかしたら、クリスはあの時、逆の立場…すなわち、俺が何かの手違いで粗相をしてしまったとしても、俺を責めることはなかったんじゃないか。俺は来たばかりなのだから仕方がない、謝る必要はない、とでも言って、自分はすべて我慢し続けたのではないか。

 俺には、そう思えてならなかった。

「…とりあえず、悪いやつじゃないんだが、昨日だけでかなり難しいやつだってことはわかったと思うぜ。まあ、別チームだし、それほど会う機会が多いわけではないだろうが…とりあえず、落ち着いた辺りを見計らって俺からもアンネに話しておく。…まあ、聞いてくれるかは怪しいけどな。」

 俺が頭の中の考えを反芻していると、重樹がそう言って笑う。

 悪いやつじゃない。いろいろ考えた上、その言葉を聞いて、俺はその言葉は間違いないと、ある程度納得することができたような気がした。

 アンネの俺に対する平手打ち。それらすべて、フィアナさんや重樹から聞いたことを総括すれば、なんとなく理解できる。おそらく、どこからの情報かはわからないけれど、クリスが嫌がらせを受けていることをアンネが聞きつけたのは確かだ。あの時フィアナさんは、あるところからの情報と言っていた。誰かがその現場を押さえてフィアナさんに伝えたわけでもなさそうだから、おそらくアンネからその話を聞いたに違いない。あの平手打ちは、純粋にクリスを守るための行動だったのだろう。…確かに勘違いだったわけだし、そりゃ痛かったけれど、そういう理由を考えていくと、頭ごなしにアンネを憎むことはできない…いや、してはいけないことのはずだ。

「…ありがとう、重樹。お願いするよ。」

 こういう時、第三者のフォローがあることは非常に嬉しい。重樹と友達になれて本当によかったと思いながら、俺は遠慮なく、その厚意に乗ることにした。

「…あ、そうだ、クリス。フィアナさん、他に何か言ってなかったかな?後でクリスに話しておく、って言ってたことがあったんだけど…。」

「あ…はい、明日の放課後、生徒会室に鶴城さんと一緒に来て、って…。お姉ちゃんからのお話…何があるんでしょうか…。」

 どうやら伝わっていたようだ。昨日の一件…アンネがどこかに行ってしまった後、ひとまず生徒会室に戻った後、解散前にフィアナさんが同じことを言っていたのだ。

「ちゃんと伝わっててよかった。一応、詳しいことはフィアナさんから話をするって言ってたから、とりあえず放課後に一緒に生徒会室に行こう。」

「い…一緒に…。」

 ぽふっ、と顔を赤くするクリス。…いや、そんな顔されても。

「…ええと、はい、わかりました。」

 クリスの了承が得られたところで、朝のホームルームのチャイムが鳴る。

 …フィアナさんの話。

 それは、昨日の一件…昇降口でのことだ。

 そういえば、あれだけ靴がぼろぼろにされてしまっていて、クリスはあの後、どうやって帰ったんだろう。学園に来るとき、何を履いてきたんだろう。

 俺には、クリスの気持ちはわからない。だが、嫌な思いをしているのは確かなはずだ。

 そう思いながら、ふと、傍らのクリス…厳密には、黒いニーハイソックスに包まれた彼女の足元を見る。

「………!」

 …俺はまた気づいてしまった。今クリスが履いているものは、上履きではない。あれは確か、来客用に職員室に用意されているスリッパのはずだ。昨日はきちんと上履きを履いていたはずなので、昨日俺とフィアナさんがあの現場を目撃した後、クリスが帰ってから夜の間に何かがあって、仕方なく職員室で借りたに違いない。

(…フィアナさんに報告することがまた増えたみたいだ。)

 そう考えながら、俺は放課後までの時間を過ごしていった。


 放課後。

「…さて、全員集まったみたいね。」

 フィアナさんの声が、生徒会室に響く。

 「鶴城さん、クリスティナ、よく来てくれたわね。とりあえず、空いている席に座ってね。」

 フィアナさんに促され、俺とクリスは空いている席に並んで腰かける。

「ご機嫌よう、二人とも。」

 俺の隣には、なぜかアナスタシアが座っている。

「あれ…もしかして、アナスタシアも生徒会役員なの?」

 これまで、何度かアナスタシアと話すことはあった。強さだけに執着しているなんて周りからは言われていたり、編入初日にあんな喧嘩じみた会話を聞いてしまったこともあり、最初は緊張の連続だったものの、しっかり話してみるとそれほど話しにくい子ではなかった。それどころか、編入当初からずっと「シャシコワさん」と呼んでいたところ、本人から名前で呼んでくれて構わないと言われたくらいだ。…まあ、その時の言葉が「わたくしをファーストネームで呼ぶことを認めます」というように多少上から目線だったことを考えると、周りの反応も致し方ないと言えなくもないだろうが…まさかとは思うけど、アナスタシアの噂って、こういうところを周りが鑑みた結果なんだろうか…?そんなに気にすることもないと思うんだけど。

「ええ。来たばかりの鶴城さんがご存じなくとも無理はないでしょう。」

 先ほどの問いに、アナスタシアが答える。そりゃそうか。そうでなければ、こんなところにいることはないだろう。学級委員もやって、生徒会もやって。獅子奮迅の活躍だなと思わざるを得ない。

 この場にいるのは、俺とクリスを除くと、フィアナさんとアナスタシア、そして男子生徒と女子生徒一人ずつの組が三つの合計八人。これが高等部生徒会の全員ということらしい。

「…さて、今日みんなに集まってもらったのは、ある生徒…と言っても、この場にいるクリスティナのことだけれど…。少しお話をしなくてはならないことができたの。始めてもいいかしら。」

「…クリスティナさんのこと?何かあったのですか?」

 フィアナさんの隣、非常に背の高い黒髪の女子生徒が、フィアナさんの言葉に反応する。

「ええ、千代。あ、紹介するわね。彼女は峰風 千代(みねかぜ ちよ)、高等部生徒会の副会長をしてくれているわ。」

「鶴城さん、はじめまして。クリスティナさんはお久しぶりですわ。改めてご挨拶を。峰風 千代と申します。生徒会副会長を務める傍ら、五式中戦車チリのヴァルキリーとして、パンツァーΩに所属しておりますわ。以後、お見知りおきを。」

 そう言って、柔らかい笑顔でお辞儀をしてきてくれる峰風先輩。

 …名字を聞いてぴんと来たが、峰風といえば、俺も聞いたことがある。日本ではかなり古くからの歴史を誇り、各界で著名人を何人も輩出していたり、いろいろな企業の経営にも携わっている日本有数の名家であったはずだ。パンツァーΩといえば、隣にいるアナスタシアと同じチームか。…この前、実技の時に勝手に模擬戦を始めてしまうなんて聞いていたから、かなり血の気が多い人間が集まっているのだろうか、と勝手に思っていたが、峰風先輩に関してはまったくそんな人には見えない。

 …まあ、それはいいか。先輩から挨拶をしてもらったんだ、こちらも挨拶をしなければ失礼だろう。

「はい、よろしくお願いします、峰風先輩。」

 俺はそう言うと、峰風先輩はこちらに近づいてくるなり------むぎゅっ、と俺に抱きついてきた。

「むぎゅっ…!?」

 よくわからないまま、変な声を漏らさざるを得ない俺。

「…わたくしより身長は少し小さいでしょうか…ふふ、可愛らしいですわね…。いい子いい子ですわ…♪」

 …柔らかくて大きなものが、顔に押しつけられている。頭を優しく撫でられている。そして聞いていてなぜか安心する声色…何でしょう、この母性の塊とも言うべき人は。…って、そうじゃなくて!

「だ…誰か、助けて…。」

 いろいろと身の危険を感じ、俺が何とか声を出すと。

「…ごめんなさいね、鶴城さん。千代はいつもこうなの。許してあげて。」

「…ええ、いつものことです。」

「…ええと、わたしも、千代さんにはそれ、されてます…割といつも。ついでに言えば、リゼットちゃんや飛鳥ちゃんもされてるの、見たことあります…。」

 フィアナさん、アナスタシア、クリスの順番に、そんな言葉を溢してくる。どうやら他の役員もそれは存じているらしく、干渉して来ようとはしないどころか、何やらごめんね、と言わんばかりの仕草をしている。…ということは、これはおそらく峰風先輩風の挨拶…つまり会ったら避けられない運命ということなのか…何てこった…。まあ、そりゃ悪い気はしないけど…。

「…千代、そろそろ鶴城さんを離して差し上げなさい。話が進みません。フィアナも困っていてよ。」

 アナスタシアが峰風先輩を諌めるように言う。…というか、アナスタシアは珀亜さんを除くヴァルキリーには基本的に誰に対しても呼び捨てなんだな。…なぜ俺は彼女に「鶴城さん」と呼ばれるんだろう…アナスタシアなりの呼び方のこだわりみたいなものが何かあるのだろうか。

 峰風先輩が俺から離れたところで、フィアナさんが口を開く。

「…さて、話を戻すけれど。クリスティナ、私がどうしてあなたをここに呼んだか。思い当たることはあるかしら。」

「…ええと…ごめんなさい、本当に何もわからなくて…。わたし、何かしちゃったのかな…。」

 話を振られたクリスが、少し困った顔をする。

 フィアナさんは自分の席を立って、そのままクリスの隣にやってきた。椅子に座って下を向いているクリスと目線を合わせるように膝をついて、クリスの履いているスリッパ…本来、上履きに包まれているはずのクリスの足をちらりと見て、フィアナさんは優しげな声で続ける。 

「…昨日もお話をしたけれど、鶴城さんが生徒会のお手伝いをしてくれたことは知っているわね。それに、アンネマリーが鶴城さんに失礼なことをしてしまったことも。」

 こくり、とクリスが頷く。

「…クリスティナ、ひとつ聞きたいのだけれど、昨日はあなた、何を履いて寮に帰ったのかしら。」

「え…。」

 はっとしたように、クリスがフィアナさんに向き直る。 

「…意地悪な言い方をしてしまったわね、ごめんなさい。ただ…昨日あなたが帰ろうとした時に、自分の下駄箱の中がどうなっていたか…否応なしにあなたは知っているはずだと思ったから。…ねぇ、クリスティナ。私はあなたのことを守りたい。大切な妹のようなあなたがあんなことをされているのに、罪を憎んで人を憎まずと言って黙ってはいられないの。何か知っていることがあるなら、ここで私たちに教えてくれないかしら。」

 フィアナさんがそう言うと、クリスはふるふると震えながら、また顔を伏せてしまう。

「…何か、言いたくない理由があるのかしら。例えばその子達に『誰かに言ったらただじゃおかない』とでもいうようなことを言われた、とか。それともあの時のように------」


「------お姉ちゃん…大丈夫。わたしは、大丈夫ですから。」

 

 顔を伏せていたクリスがそう言って立ち上がったと思うと、ぱっと踵を返して生徒会室を飛び出した。

「クリス…!?」

「クリスティナ…!」

 俺がクリスの名前を呼ぶのと同じタイミングでのフィアナさんの制止も虚しく、生徒会室の引き戸が音を立てて閉まり、どんどん足音が遠ざかってしまう。

「…そう…クリスティナ、やはりそうなのね…。」

 フィアナさんが呟いた時、俺はクリスと出会った時の表情、何かにつけて申し訳なさそうにしているクリスの表情、人を傷つけることは嫌だと言ったクリスの表情…それらだけでなく、昨日フィアナさんに聞いた話、そして朝に重樹から聞いた話をまた思い出した。

 彼女には、自分に関わる人たちだけでなく、まだ見ぬすべての人に対する優しさがある。そして、同時にそれを果たせない、あるいは自分の本当の気持ちを出すことが許されない時、他人のすべてを許容し、自分の心にすべてを仕舞い込み、誰にも迷惑をかけないよう、人知れずなかったことにしてしまう。

 …だが、俺は知ってしまった。

 彼女の過去と、あの涙の意味を。

 俺はフィアナさんに言ったはずだ。クリスの力になりたいと。

 俺は誓ったはずだ。クリスの理解者になるのだと。

 ならば------それを知り、誓いを立てた俺が、彼女を放っておいていいはずがない!!

 

「------すみません、俺、クリスを探してきます!」


 気がつくと、俺は椅子をひっくり返すように席を立ち、生徒会室を飛び出そうとする。フィアナさんたちが何か言っていた気もするが、そんなことは耳に入ってこなかった。 

 クリスがどこにいるのか。正直、それは俺にもわからない。今まではわからなかったが、もう見えなくなっているところを見ると、クリスは相当足も速いみたいだった。学舎の中にいるのかどうかもわからない。ヴァルキリーとはいえ、スリッパでよくここまで速く走れるものだと思いながら、とにかくがむしゃらに学舎を走り回って、ふと窓の外を見ると。


 ------学舎の屋上。長くふわふわした金色の髪が、夕焼けに染まった空にたなびいているのが見えた。


 すかさず、俺たちはそちらへと踵を返す。

 クリスが何をしているのかはわからない。だが------何かがあってからでは、すべてが遅い。そんなことを思いつつ、息を切らしながら階段を駆け上り、ものすごい音を立てながら、勢いよくドアをこじ開ける。


「ふえっ…。」

  

 大きな音でびっくりしたのだろう。クリスが、びくっと肩を震わせて俺の方を向く。

「…やっと見つけた。」

 俺は息切れをなんとか抑えながら、クリスに爪先を向けて言った。

「…クリス…ごめん。」

「え…。」

 何を言われているのかわからないと言うように、クリスが目を丸くする。

「…話してなかったよね…昨日、フィアナさんから聞いたんだ。クリスとアンネの境遇…辛い思い、してきたんだ、って。それを、二人とも自分で全部抱え込んできたこと…それに気づけなかったから。俺、オーディンなのに。友達なのに。察してあげなくちゃいけなかったのに…だから…ごめん。」

 これは、俺の心からの言葉だ。

 確かに、俺は社島に来てから、まだ一月と経っていない。それゆえに、まだまだ知らないことが多すぎる。

 だが、知らないことに甘えてはいけない。

 それは、なにもオーディンとヴァルキリーの関係だからじゃない。人として、仲間として、クラスメイトとして、友達として…それがどんな関係であれ、俺は知るべきことを知らなくてはならないんだ。

「…わたしのために、ありがとうございます。でも…誰かに馬鹿にされるのも、誰かに迷惑をかけるのも、それはみんな、わたしがヴァルキリーとして全然駄目な…弱虫な存在だから。人としても、お姉ちゃんとしても…。

 いつか、アナスタシアちゃんが言っていたと思うんです。わたしは弱い、って。力を振るうことが怖いなんて思うヴァルキリーは、どんなに才能があったって駄目…ううん、そんな才能なんて、最初から持っちゃいけなかった…わたしが生まれて来なければ…こんな力を持たなければ…アンネ…妹だって、あんなことを鶴城さんにすることはなかったかもしれないのに…。お父さんやお母さんだって、どこかに行ってしまったりしなかったかもしれないのに…!!」


「…クリスは、強いな。」


 …それを聞いて、俺ははっきりと声に出していた。

「え…?」

 クリスのエメラルドの瞳が、涙を浮かべながら俺を見つめる中で、俺は続ける。

「クリス、今君は、自分のことを弱虫って言ったよね?

 …違うよ。全然違う。クリスは弱虫なんかじゃない。誰にも負けない強さを持ってるじゃないか。

 ------だって、君は今、俺やアンネの名前を出してくれたでしょ?他人のために涙を流せてる。それは誰にだってできることじゃないんだよ、多分。


 それってさ…優しさ、っていう強さを持ってる人にしかできないことだと思うんだよ。それも、生半可な優しさじゃない…自分がどうなっても、他人に笑っていてほしい…そこまで考えられる人でしか、人のために涙なんて流せるはずないよ。」


「…わたしの…強さ…優しさ…。」

 

 クリスが、胸の前でぎゅっと両手を組んで、俺の言った言葉を反芻する。

 俺は、クリスの肩に手を置く。クリスは、一瞬びくっ、と肩を震わせたが、逃げることなく、俺の方を見ている。俺はもう一度、彼女のエメラルドの瞳をしっかりと見据えて言った。 


「…みんな、自分の考えを持ってるってすごいと思う。クリスも、アナスタシアも。

 そして…俺は二人の言葉はどちらも正しいって思える。立派だと思う。どっちがより正しいとか間違ってるとか、そんなことはないと思う。

 俺が思うに…クリスもアナスタシアも、考えてることは多分ほとんど同じ…何かを守りたいっていう考えは、二人とも持っているんだと思う。ただ、その方法とか、方向性がちょっと違うだけで。クリスは、自分が傷ついても他人が傷つくのは嫌っていうことだと思うし、アナスタシアは自分や周りを傷つける人を許せないだろうってことなんだと思う。だからアナスタシアは、俺が島に来たばかりの頃、クリスにあんなことを言ったんだと思うんだ。『大切な誰かが傷つくことになったとしても、力を使うのを恐れ続けるの?』って。

 うーん…何だろう、上手く言えないけど…さっき、本質は同じ、っていう話をしたわけだけど…例えば、白鷺先生がここの先生と兼務してる、日本の自衛隊…他の国の軍隊と違って、敵地に攻め込むことはできない、あくまでも国を守るため…抑止力になるための組織なわけだけど、でもさ…他の国の軍隊だって、究極的には自分の国を守るために戦うことは確かだと思うんだ。違うのは、敵を押し留めて国を守るだけなのか、それとも場合によっては敵地を制圧するところまで持っていくのか…その違いでしかない。

 でも、クリスが悩んでるのは、そんな国同士の戦争なんかじゃない。だから、自分がどう思うのか、どうしたいのかによって、その選択肢は、その場その場でいくらでも変えられる。

 だから、二人の言葉を総合したのを、もっと俺風に解釈して言うなら…自分の力を無理に、無闇に使う必要はないと思う。だって、クリスは自分の力を、ただただ人を傷つける力として使いたくなんてないって言ってるんだから。クリスが持ってる力は兵器の力…人を傷つけてしまう可能性もある、そんな怖い力であることは間違いなくて、君はそれを理解してるからこそ、そういう考えに至っているんだろうから。

 たださ…もしも自分の力を使ってでも…その強い考えを曲げてでも、絶対に守りたいものができたとき…その時はじめて、自分の力は使えばいいんだと思う。守りたいものを守るための大きな抑止力に、その時はじめてなればいいんだと思う。

 …そりゃ、俺の言ってることなんて、他の人にとっては綺麗事かもしれないけどさ…でも、日本本土からの編入生…平和憲法を持つ国に生まれた人間である俺だからこそ、今俺自身が言ったことを信じてみたい、そう思うんだ。それとも…こんな中途半端な考えじゃ、いけないかな?」

 ------本心のままに、俺はそう言った。

 どんな考えが正しいのか、上手く言葉にできたか。それは俺にもよくわからない。でも、だからこそ、俺は自分の心のままに言うことができる。

 …かつての日本も、枢軸国側の一員として、多大な犠牲を払いながら連合国側と戦い、そして敗れた。

 敗北の裏には、軍国主義による政治の独裁、ファシズムから生まれた選民思想、物資の不足を加速させることになった連合国側の包囲網による国際的孤立、物資だけでなく人員の不足をも完全に度外視して行われた富国強兵政策や無謀な作戦の数々、それらによる国力や国民の疲弊…様々な要素があったのだと、歴史の授業で聞いたことがある。

 …だが、それはひとつの国のあり方としての話だ。

 第二次世界大戦…あの悲惨な戦争を経験したという、田舎のおじいちゃんとおばあちゃんが小さい頃にしてくれた話を思い出して、俺はぽつりぽつりと話し出す。

「…俺のおじいちゃんとおばあちゃん…昔から幼馴染みだったみたいなんだけどさ。あの戦争でおじいちゃんが戦場に行くことになったとき…おばあちゃん、すごく泣いて駄々をこねたんだって。家同士で結婚まで決まってて、お互いもまんざらじゃなかったらしくて。

 それで、二人はそこで決めたんだって。おじいちゃんは、おばあちゃんが待ってくれてる日本を守って、絶対に生きて帰ってくる、おばあちゃんは、おじいちゃんが元気で帰ってこられるように、自分と自分の居場所を守る、ってさ。

 確かに、離れるのは辛かったろうし、仕方ない部分もあったんだろうけど…おじいちゃんもおばあちゃんも言ってたんだ。国とか、主義とか、思想とか、そんな大それたものじゃない。何かのために、するべきことをした。確かにそれだけと言えばそれだけだけど…でも、おじいちゃんもおばあちゃんも、それがあったから、どんなに辛い時でも頑張れたんだ、って。

 だから------もう一回言うね。

 クリスの考えは間違ってない。自分の力が怖いって思うのも当然だし、クリスは本当に優しいんだから、それを人に向けたくないと思う気持ちも間違いなんかじゃない。なら…社島に来ちゃったからには、なんて考えなくていい。無理にヴァルキリーとしての力を使う必要もない。力を使ってでも、本当に守りたいものができたとき、その時にはじめて使えばいい。…クリスはもう、我慢しなくていい。自分の考えで決めていい…苦しくて苦しくて泣きたいときには泣いていいんだよ。俺は…絶対クリスのところを馬鹿にしたりなんてしないから。」 

 

 ------ゆらゆらと、クリスのエメラルドの瞳が涙に揺れた瞬間ーーーつうっ、と一筋の涙が頬を伝う。

「あ…ぅ…うぅ…。と…止まって…止まって…だめ…泣いちゃ…。」

 クリスは必死にその涙を拭うものの、一度流れ出した涙は止まることを知らない。

「…いいんだよ。」

 俺はクリスの手を取って、静かに、しかししっかりと告げる。

「もう一回言うよ…無理しなくていい…我慢しなくていい…今、ここには俺以外はいないから…。泣きたいときには…思い切り泣いていいんだよ…ね?」


「------っ!!」


 クリスの綺麗な顔が一瞬歪み…瞬間、クリスは俺に抱きついて、ふるふると肩を震わせながら泣き始める。

「…いいよ、たくさん泣いていいよ。泣き止むまで俺、ここにいるから。置いてなんていかないから。大丈夫。大丈夫だから-------ね。」

 俺はクリスの綺麗な金色の髪を優しく撫でながら、そう繰り返す。

 …泣いちゃいけない。

 クリスはさっき、確かにそう言った。自分に降りかかるものすべてに対して強い自分でいなくてはならないのに、それを果たせない自分が駄目な存在だと思ってしまう。今までのクリスは、ずっとそんな葛藤を繰り返して来て------そして、フィアナさんのような近しい人たち以外に、自分を自分として見てくれる人がいない…いや、両親という一番近しいはずの人たちですら、そういう目で見てくれなかったからこそ、クリスはますますそう思うようになってしまったのだろう。

 …なら、俺は他人かもしれないけれど、今からでもいい、クリスのことを案じよう。他の人が見てくれない分、せめて俺だけは、他の人の分まで、彼女をよく見て、他の人たち以上に認めてあげよう。

 空が、夕焼けから夜の帳へと姿を変えていく中、俺は自分の胸の中で泣き続けるクリスを見て、心の中でそう誓った------


※※※


(another view“Christina”)


(------鶴城さん…。)

 あの後------お部屋に戻ったわたしは、ベッドに座り、彼のことを考えていた。

 わたしとは他人であるはずの鶴城さん。

 お会いしたばかりの鶴城さん。

 わたしを見てくれた鶴城さん。

 わたしを諭してくれた鶴城さん。

 いろんな彼を、わたしは今日、この目で見ることができた。

 こんなことは、フィアお姉ちゃんやアンネ以外ははじめてで。

 わたしとはただの他人のはずで、わたしなんて放り出しておいてもよさそうなものなのに。

 ------でも、彼はわたしをしっかりと見てくれた。泣いていいと言ってくれた。わたしの力は傷つけるための力ではなく、なにかを守る力だと言ってくれた。絶対に馬鹿にしたりしないから、と言って、その約束を守ってくれた。

 そんなことは、はじめてで。

(鶴城さん------) 

 彼の名を呼ぶわたしの心に、ひとつの感情が渦巻く。

 苦しい。

 でも、彼のことを考えると、それが何よりも心地よい。

 これは、何?

 わからない。

 わたしには、これが何なのかわからない。わたし自身の気持ちがわからない。

 でも------彼のことを考えると、どんどんそれは強くなる。

 なぜ?

 それもわからないけれど。

 そんなことを考えていると。

 

 とん、とん------


 ドアを叩く音が聞こえる。

「あ…は、はい、どうぞ…。」

 少しびっくりしながらも、わたしはドアの向こうにいる誰かに声をかける。

 

「…姉さん、入るわよ。」


 そう言って入ってきたのは、アンネ…私の妹だった。

「あ…アンネ、どうしたの…?」

 わたしがそう言うと、アンネは手に持った紙袋を、わたしに向けて差し出してくる。

「姉さん、また上履きをなくしたでしょ?さっきアルバイトの帰りに買ってきたから、届けにきたの。」

「え…あ、もしかして、フィアお姉ちゃんに聞いたの?」

 こくん、と首を縦に振るアンネ。

 実は、わたしは今朝からずっと、職員室で借りたスリッパを上履きとして使わせてもらっていた。その理由は単純で、誰かが隠したか捨ててしまったか…そのうちのどちらかはわからないが、どのみち探しても出ては来ないだろうと諦めていたからだった。

 …ついでに言えば、制服や体操着、帽子をなくしたり、ぼろぼろにされたことも一度や二度ではない。その時も出てこなかったり、買い直すしかないほどにぼろぼろにされたり…それが日常だった。

 制服は基本的には学園から支給されたものを着ることになるのだが、一応冬服、夏服は予備も含めて二着ずつ支給されるけれど、何かの拍子に破けてしまったりなくしてしまったり、あるいはサイズが合わなくなったりすると、三着目以降は当然買い直すことが必要になる。しかし、上履きや帽子といったものは、最初に支給されるものはひとつだけ。帽子は被るかどうかは自由なので、なくしてもそれほど困ることはないが、上履きはなくしたら買い直すか、今回のわたしのように職員室でスリッパを借りるかしかない。だが、すべて島の中で手に入るものとはいえ、わたしのように日常生活の中でこれでもかと言うくらいなくしたりいたずらされたりしようものなら、その出費はかなりのものになってしまう。

「…アンネ、前にも言ったけれど、無理はしないで。アルバイトのお金だって、アンネの好きなように使っていいの。お友達と遊んだり、好きなものを食べに行ったり…学園に通うだけならお金はいらないし…それに、アンネが一生懸命頑張っていただいたお金をわたしみたいなダメダメなお姉さんにこれ以上使うのは…。それに、わたしはフィアお姉ちゃんのお父さんからお小遣いもいただいてるし…。そのお金も、毎日ご飯を作るくらいしか使ってないの。だから、お金に困ることはないから…その…。」

 わたしは、アンネにそう言ってみる。

 社島では、基本的には学生は学園に通うだけであれば国連の予算や寄付によってある程度水入らずの生活を送れるが、学生たちに社会勉強の機会も増やしてあげたいということで、島の中にあるお店や各所の施設でアルバイトをすることもできる。普通の学生たちの多く…特に家からの仕送りのない学生たちは、このアルバイトのできる制度を、自分たちがショッピングモールで各々の嗜好品を買ったり、各種施設でお友達と遊んだりするためのお小遣いを作る手段として利用しているが、アンネはいくつかのアルバイトを掛け持ちしており、毎日遅くに帰ってくる上、そのほとんどをわたしのために使ってくれている。…わたしがどれだけそういったいたずらを受けても、最終的にきちんと綺麗な制服を着たり上履きを履くことができたりするのは、一重にアンネのおかげなのだ。

 実は昨日も、フィアお姉ちゃんが来る前、実技の時に使っている運動靴で帰ってきたわたしに、新しい通学用の革靴を買ってきて渡してくれた。わたしの靴がぼろぼろにされているのをどうして知っていたのかと一瞬驚いてしまったのだが、今日、フィアお姉ちゃんが昨日来てくれて話してくれたこと、そして今日生徒会室でわたしに「昨日は何を履いて帰ったのか」と聞いてくれたことで納得がいった。…アンネが鶴城さんに手を上げてしまったことをフィアお姉ちゃんが知っていたことを考えると、おそらく、わたしの靴がどうなっていたのかを三人ともその場に居合わせて知っていたのだろう。そして、何かの勘違いをしてしまったアンネが鶴城さんを標的にしてしまったのだということも、フィアお姉ちゃんは知っていたに違いない。

 それは今はいいとして…正直なところ、わたしはアンネのアルバイト代に頼らなければならないほどお金に困っているわけではない。身元保証人になってくださっているフィアお姉ちゃんのお父さんから、フィアお姉ちゃんだけでなく、わたしとアンネにもお小遣いの仕送りをしてくださる話があったからだ。けれど、アンネは頑なにそれを断り…結局、その仕送りはわたしだけがいただいている。しかし、アンネが自分の稼いだお金でわたしの出費のほとんどを賄ってくれているために、そのお金の使い道はかなり限られている。わたしが社島に来る前に作ってもらった口座の中にある総額は、今ではかなりのものになっているのだった。

 それを聞いて、アンネが言う。

「もう、何度言わせるのよ…そんなことは気にしなくていいの。私が姉さんの力になりたいだけ。…こんなことしかできない私と違って、姉さんはいろんなことができるんだから。」

「でも、アンネ…わたしにばかりお金を使っていたら、アンネは何もできないじゃない…待ってて、上履きのお金、すぐに返すから。ううん、昨日の通学用の靴のお金も------」

「------いいって言ってるの!!」

 鞄からお財布を取り出そうとしたわたしを、アンネがもう話さないでほしいとばかりに怒鳴りつける。

「叔父さんの仕送りから出てきたお金なんて受けとりたくない…私は誰の施しだって受けたくないの!!本当なら国連の予算や寄付で成り立ってるこの学園に通うことだって…!!」

 アンネはそこまで言ってから少し俯いて、小さな声で言う。

「…ごめんなさい、姉さん。姉さんのせいじゃないのにね。全部、姉さんのことを否定しようとするものが悪いだけなのにね。」

「あ…ち、違うのアンネ、顔を上げて。わたしもごめんなさい、アンネがわたしのことを思ってしてくれたことなのに、素直に受け取れなかったわたしだっていけなかったの…。」

 わたしがそう言うと、アンネはこちらを見て言った。

「…ありがとう、姉さん。それ、使ってくれる?」

「う、うん、もちろん。アンネがくれたものだもの…大切に使うね。」

「うん。また何かあったらすぐに言ってね。」

 そう言って、アンネがお部屋を出ていく。

「……アンネ。ごめんなさい、わたし、お姉さんなのに。アンネにばかり大変な思いをさせてしまって…ごめんなさい…。」

 わたしは、そう呟くことしかできない。アンネは気にしないで、と言ってくれたが、わたしが感じるアンネへの申し訳なさは、そう簡単に割りきりのつくものではない。そうしている間に、先ほどまで鶴城さんのことを考えている時に感じていた明るい気持ちと、今しがたアンネと話している間に感じた暗い気持ちが混ざりあい、自分が何を考えていたのかすらよくわからなくなってくる。


「------ううん、それなら、わたしが動かなくちゃ。頑張らなくちゃ。

 わたしの気持ちがどういうものなのか知るために。それに…アンネを不安にさせないために。

 胸を張れるように…強くならなくちゃ。」


 再び一人になったお部屋で、わたしは小さな声で呟いていた------

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