覇道ヶ一歩
何とか五月五日の端午に間に合ったか……危うかった……
前作から読んで下さっている方は作風が大きく変わっていて
困惑するかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです。
規則正しき生活習慣は健全な肉体を育み、健全な肉体は屈強な筋肉を鍛え上げる豊かな土壌となる。故に己は今朝も黎明と共に起床し、姿見の前で常の通り筋肉の調子を確認する。
「む? 僅かだが右上腕三頭筋のキレが悪いか……?」
僅かな差異とて馬鹿にはできぬ。今でこそ鍛練は趣味と実益を兼ねた行為となっておるが、本を正せばあの事件の際に何もできずにいた己の無力を悔やみ、嘆き、もう繰り返すまいと鍛え始めた。いつ訪れるとも知れぬ有事の時に全力を出せぬのでは鍛練の意味が無い。何より己は今や筋肉が万全の美しき状態でなければ落ち着かぬ。これでは後に控える早朝ランニングに差し障りかねん。
「致し方あるまい。気休めだがリストウェイトを装着して征くとしよう」
無論ここで上腕三頭筋のキレが悪い右腕にのみリストウェイトを装着するような愚を犯す事などない。均整がとれておらぬ筋肉では正しく筋力を発揮できぬし見目も悪くなる。成長期に入り体格と筋肉が著しく成長してからというもの陰で『筋肉ゴリラ』と呼ばれ続けておる己だが、否、そのような己であればこそ、肉体美には人一倍拘りがある。ハーフ故か顔立ちが濃く、成長期以前もゴリラの如し形相と評されておった事も関係しておるやもしれぬ。鍛え上げられた強さと磨き上げられた美しさ。その双方を兼ね備えし至高の筋肉こそ己の目標である。
「重量は……二〇キロずつで構わぬか」
必要以上の負荷は鍛練にならぬ、どころか怪我の恐れを増し逆効果となる。少々物足りぬが軽い負荷で良かろう。
早朝故に人気は少ないが、誰もおらぬという事はない。己と同じくランニングに勤しんでおる顔見知りの者達がおる。この顔見知りという点が重要である。
「おうマッチョ坊主! 相変わらず図体デケェな!」
「む、朝野殿か。いい加減坊主呼ばわりは止めてもらえぬか?」
身の丈は二〇三センチ、体重も一一九キロある己の巨躯は初見の者には威圧感がありすぎるらしく、早朝ランニングの際に通報された経験は数知れぬ。良い筋肉の警官に顔を覚えられるほどの回数である事は確かであるが。
「オッチャンにしてみりゃ図体デカかろうが坊主は坊主よ! この前高校生になったからって大人ぶりやがって!」
朝野殿は気の良い御仁ではあるが、些か地声が大きすぎるのと人の話をよく聞かぬところがある。良く言えば細かい事を気にせぬ性格であり、それ故に初対面の際も己の見目を気にせず近付いて明るく挨拶してくれた事を思えば、悪く言うほどの欠点ではないのやもしれぬ。
だがやはり坊主呼ばわりは止めてもらいたい。
「何か言いたげな顔してんな! 細けぇ事気にしてちゃ女にモテねぇぞ!」
「元より己は別にモテたいとは思わぬ。この見目では色恋沙汰など縁遠かろうて」
色恋以前に男女問わず好印象を抱かれる事自体が珍しい己には、新たな友を作る事さえそうはできぬ。恋人など言うに及ばぬというものよ。現に高校では一人を除き挨拶を交わす事さえままならぬ有り様。筋肉式鼓舞術を習得しておらねば陰で泣いておっただろう。やはり筋肉は偉大。筋肉こそ至高。精神にも筋肉があればよかろうに、生命とは不完全なものである。
「諦めんなって! 意外と物好きはいるもんだぞ? 若いんだから良い女にはとにかく当たって砕けとけ!」
「ありがたいお言葉だとは思うが、己には無理な相談であるな」
そもそも朝野殿は前提からして勘違いしておる。正したところでどうというわけでもないため別に正そうとは思わぬが。
「だが『当たって砕けとけ』とは実に己好みの言葉であるな。色恋以外の事に関しては是非参考にさせて頂こう」
思考より行動。実に己の性に合っておる。……無論、脳筋の自覚はある。だが苦手なものは苦手なのだから致し方あるまい。脳筋というのなら脳も筋肉であれば良いのだが、残念ながら筋肉を鍛えれど脳は鍛えられぬ。如何に筋肉が偉大かつ至高なものとて思考力を上げる事は……否、筋肉に不可能など無い。現存せぬなら己が筋肉式思考加速術を編み出せばよい。帰宅次第さっそく当たってみるとしよう。
はて、帰宅したら何かしようとしておった気がするのだが、何であったか。思い出せぬのであれば大した事ではなかろうが、思い出せぬという事実にもどかしさを感じる。ここは一つ筋肉式想起術を試す他あるまい。
「お帰りなさい。それとおはようアシュ。朝ご飯はできているから、冷めないうちに食べよう?」
「む、希愛か。いつもすまぬな」
希愛の朝餉ができておるのであれば、筋肉式想起術は後にすべきか。空腹のまま思考するより食後の方が思考は捗るであろうし、何より思い出せぬ何かが希愛の朝餉に勝るはずも無し。数年前に両親が仕事の都合で家を空けて以降家事は全て希愛が担っておる。元より手伝いをしながら母上に習っておった故に技量は高く、特に料理の腕は両親が家を空ける前から母上に勝っておったほどである。
「気にしないでよ。家事をしているのは楽しいし、それにこれはお世話になっているお礼でもあるんだから」
「己に言わせれば、それこそ気にする事ではないのだかな」
確かに希愛は仁王家の生まれではない。本名は天使希愛と言い、少し離れた町に住んでおる天使家の一人娘である。互いの両親が親しかった故に幼少より家族ぐるみの交流があり、学年は希愛が一つ下だが己らも互いに同学年の誰よりも親しい親友となった。当時から美少女であった希愛は、ゴリラ顔と評される己とはまるで鏡写しの如く、真逆でありながらも見目に振り回される者同士どこか通ずる苦悩があった。そんな仁王家だからこそ、天使夫妻はあの事件の後に一人娘の希愛を託せたのであろう。
確かに希愛は仁王家の生まれではない。だが己にとっては幼少より親しき親友であり、妹も同然、家族も同然の相手である。それこそ己が養っておるわけでもあるまいに、礼などと気を回さず気楽に過ごしてもらいたいものなのだが、手伝いを申し出ても頑なに拒まれておる。
「別に気にしているわけではないよ。ただ私がそうしたいからしているだけ」
そう言葉にしながら浮かべられた希愛の微笑みに、不覚にも僅かに目を奪われてしまう。慣れておる己でさえこの有り様なのだから、あの事件も起きるべくして起きてしまったのやもしれぬ。そんな事を考えてしまうほどに、天使希愛という己の幼馴染にして親友たる美少女は魅力的すぎる。
この魅力的すぎる幼馴染にして親友たる希愛の幸せのためにも、やはり己が相応しき男を探し出さねばなるまい!