恋即ち無形なりや?
「つまり愛に形があるというのかね、君は」
凛とした声が、がらりとした教室に響く。この部屋には僕と彼女しか居らず、当然の事だがその声は彼女のものだ。
「いや、別にそう言っているわけじゃないさ。愛ってほら、抽象的なものだろ? それをチョコレートという物質に投影していると捉えたら如何かな? 愛や恋は言葉に乗せるしかないけど、チョコレートを渡すだけなら簡単だろ?」
判りやすいし、と僕は付け加える。短くなった髪をいじりながら、僕は正面を見据える。
一つ前の席の椅子に後ろ向きに座る彼女____刑部早苗は、この学校の生徒会長。頭脳明晰、スポーツ万能で、男勝りなその性格と、目を見張る程美しい黒髪。整った顔立ち、そして巨にゅ……っとこれくらいにしておこう。長所を挙げればきりがない。
彼女を褒め称えるのはさておき、彼女と二人で教室に残っているかというと、別に恋話に花を咲かせているわけでも、愛を語らっているわけでも無い。僕はこの学級の委員長であり、彼女とは来月に開催される行事の打ち合わせをしている、と只それだけの。
蓋を開ければどうでも良い話である。同じクラスだからか、彼女はよく僕に仕事を振る。
では何故僕らが愛の話をしているかというと、今日は2月14日、つまりバレンタインデーなる日だからだ。
事の顛末はこうだ。
打ち合わせが始まって直ぐ、彼女が口を開いた。
「ところで宮本、今日は一体何の日なのだ」
宮本というのは僕の名字である。
「何って、別に今日は祝日でも何でも無いだろうさ」
「嘘をつけ。今日は男子どもがやけに落ち着きがなかったことぐらい私にだって判る」
うぐ、と僕は言葉に詰まる。本命チョコに縁がなかった僕にとっては、それはそれは気まずいというか、気恥ずかしい事なのだが。
「ば、バレンタインデーだろうね」
ほぅ、そういえば今日はそうだったのかと何か納得したように声を漏らす刑部。浮いた話が一つも無いのは知っていたが、ここまで無頓着とは。今日は刑部からチョコレートを貰えるのでは、と淡い期待を抱いて登校してきた男子生徒だって多いというのに。
「バレンタインとは基督教の聖人が由来の祭日だろう? それがチョコレートとどう結び付く」
「結びつかない。強いて言うなら恋云々に少し関係があるけど、チョコレートの方は商業戦略的な色が強いと思う。土用の丑の日うなぎの日ってあれと同じ感じで」
土用の丑の日となんら関係のない存在である鰻からすれば、飛んだ迷惑な話なのは間違いない。それと似たようなものだ。
「では君は、その経緯過程は置いておくとして、好きな人に愛の告白の代わりにチョコレートを渡す日が今日だと、そう言うのだね?」
「大まかには、そうだね」
勿論友チョコだって義理チョコだってある。どこか話が噛み合っていないような気がするのは、僕らが高校二年生で、その歳で知っているはずの知識が彼女に抜け落ちていると感じたからだろうか。
わからない、と彼女は腕を組み、顔を伏せて僕の机にもたれかかる。
かくして、最初の発言に戻るのである。
「つまり愛に形があるというのかね、君は」
伏した彼女の口から、言葉が溢れる。
「それじゃあ、まるで愛の切り売りじゃないか」
**
既に日は落ちかけている。オレンジの斜光が教室の中を、そして僕らの横顔を照らす。
しゃくしゃく。
「……んっく。刑部も食べる?」
僕はポケットから駄菓子を取り出す。紫のパッケージの明太子味。コーンポタージュ味は僕のものだ。
「……それはバレンタインにカウントされるかい?」
「いや、ノーカン」
なら頂いておこう、と彼女は駄菓子を受けとる。
「この話はこれくらいにして、打ち合わせに戻らないかい? えーっと、日付は来月28日で問題ないね、それじゃあ……」
「行事の打ち合わせはいつでも出来るが、バレンタインというのは至極タイムリーな話題だ。明日することは出来ないし、今日を除いたどの日だって出来ないさ」
顔を上げ、刑部が応える。
その言葉を聞いて、僕の頭に疑問符が浮かぶ。今日は『決めておきたい事項が幾つかある』と言われて残ったわけだし、言った本人だってそれを重々承知のはずだ。何時までも雑談ばかりして良いものなのだろうか。
いやまあ刑部と話をすること自体はむしろ歓迎すべき事だし、悪い気はしないのだが。
刑部は元からこの話をするために僕を残したとも一瞬考えたが、それは傲慢というものだろう。恋話の相手にわざわざ僕を選ぶ理由が分からないし、何より僕は______
「時に宮本」
「はいっ!?」
考え事をしていたからか、変な声が漏れる。その様子を見てふ、と可笑しそうに笑ってから、刑部は続ける。
「宮本は、今日はチョコにご縁があったかい?」
チョコにご縁などとは大層な言い方だな、と僕は心の中で突っ込む。同クラスの女子たちはクラスメイトにチョコレートを配っていたし、男子の中でだって菓子作りを楽しんでいた者だって居たのだ。僕だって友チョコという名の戦利品を幾つか入手しているし、それは彼女も知っている筈だ。
などと視線を逸らしながら小声で呟いていると、ははは、と刑部は短く笑う。
「……となると、その口振りだと本命はお預けだったようだな」
にやり、と笑う刑部の顔を、僕はまじまじと見つめる。
「どうした、私の顔に何か付いているか?」
「そういう訳ではないんだけど……」
ただ単純に驚いているのだ。これまでの宿泊行事でさえ一度たりとも恋話に混ざった事のなかったと聞く刑部が、今日は何故こうも饒舌に、バレンタインなどと浮いた日の話をしているのだろうと。
「ま、どうせ僕は恋に縁のない残念高校生ですよ。というか刑部は? 貴女のことだから沢山貰ってるでしょ」
女子同士だってチョコの受け渡しがあるのは言うまでもなく、特に容姿端麗な彼女に於いては、女子の中でも人気なのだ。僕だって、彼女はそこらの男子より断然格好いいと思うし、それはある程度共有された思考なのだろう。
「……いや、私は全て断った」
「如何して?」
「……だって、チョコの授受は愛の切り売りだと思ったからだ」
それは…。それはまた珍妙な主張だ。食べ専の僕はそんなこと一度も考えたことが無かった。
「切り売り……とは?」
「だって切り売りだろう。好きなら好きと言えば良いだけの事。わざわざ言葉から乖離させてチョコレートに愛を練り込むなど、自分の心を切り離しているのと同じだ」
成る程。それで切り売り、か。
「付け加えるなら、バレンタインに女子が男子にチョコを渡すのが愛情表現と確定させるなら、渡さないことは愛が無いのを意味するのか? それは本末転倒だろう」
それは、極論に近い。
それは、
「それは……違う気がする。今日は、告白する勇気がなかなか持てない女の子のための口実なんじゃないかな。『バレンタインだから』と、気恥ずかしさを合法的に誤魔化すことができる年に一度の日が今日……なのだと思う」
多分。知らんけど。告白なんてしたことないし。
でもだからこそ、渡す物は有形無形に関わらず想いを乗せられるのだと、無責任にも僕は思うのだ。
「……」
刑部は口に手を当てて何やら考え事をしていたが、やがて口を開き、
「兎にも角にも、だ。私はチョコを渡すくらいなら直接告白するさ」
そう締めくくった。
「それが出来たら楽だよ……」
楽だよ。世の中恋の悩みがいくらあると思っているのだ。ズバッと言えちゃえばそりゃ楽さ、だって言えないから悩むんだから。
その後、暫しの沈黙。
「……とまあ、さて置き、だ」
次いでそれを破る、刑部の声。
「今日が女子が男子に想いを贈る行事でないというならば……」
「ならば?」
「私が貴女に告白するのも、別に今日でも構わないだろうな」
頬を仄かに紅潮させ、刑部が好きだ、と呟く。
「……僕、女だよ?」
「わかってるサ」