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ウラオモテ  作者: 美亜
6/7

3/ 2010年8月11日

 自宅の応接間でグランドピアノに向かう。

 タッチに力が入らなことがある。前と変わらないように弾こうとしても、突然、指の付け根のあたりから力が抜けてしまうのだった。そうなると、自然とそこで演奏が止まる。間違えたわけでも、難しくて詰まるわけでもない。かと思うと全身に力が入って、奥歯を噛み締めて足の指をぎゅう、と折り曲げていなければならなくなって、目の前の鍵盤を思い切り叩くこともあった。ミスタッチは多くなる。目を瞑らないと弾けない時もある。それだけではなくて、「桜日」の静かで切ないメロディは酷く弱々しく、衝撃的なところはあまりに強調して弾くこともある。

 抑揚と感情のない交ぜになった演奏に憑りつかれたように私がなると、いつの間にか数時間が経過している。それを私は、じぃっと鏡があるみたいに私を見つめている。

そのせいで指が痛い。でも、だから何。赤い指先が鍵盤を叩く。「桜日」に飽きたら、「イカロスのための組曲」を。それにも飽きたら、今まで演奏してきた曲を思い出してはその旋律を探って弾く。譜面は要らない。いつどこで吹いたのかまで覚えている。

 この一週間ほど、フルートは応接間の棚の中に仕舞ったままだった。取り出そうと脚が動いても、手がそれを拒む。手が伸びても脚が動かない。手も脚も動いても、口が動かない。口が動いても指が動かない。

 ふと寝て起きると、階段から落ちて立てなくなった。雪の降る夏の夢を見ていた。冷え冷えとした廊下を這いずり回って、脈が耳元で異様に大きく聞こえた。酷い吐気がしても、何も吐けないことはわかっていた。それで気が付いたら点滴を打たれていた。何を打たれているのか心配していると、看護師がブドウ糖だと教えてくれた。その前の日、私は何も食べていなかったことに気が付いた。それから半日しないうちに立ち上がって、病院から三十分ほどかけて、一人汗だくになりながら真夏の正午過ぎに歩いて帰宅した。

 乾いた笑い声が口の端から漏れる。私はそれを聞いて、ああ、混沌としているな、と思う。

 浮遊している。

 記憶はあるけど実感が無くなる。口ずさむメロディの記憶が、CDと同じただの記録になる。目の前で起こっていることも、映画かテレビを見ているかのように、ただの他人事だ。その癖、鏡に映った真琴を私は必死で綺麗にしようとする。鏡に映った彼女が私と同じ動きをして、それが私なのだとわかる。だから鏡の前に立つ回数が増えていく。私の思考は常に論理的で冷静だ。

 あの日からずっと、窓の外は晴れっぱなし。蝉の声が夜もうるさくて、寒くなったら咳き込みながら身体が跳ねて起こされる。

 ピアノか、本。『地獄考』。あとは何をしていてもそれが何かよくわからないままに、私は身体が不規則に揺れている。

 延々と地獄。ボウ、とした。何かを言っている人たち。気にしない。何も無い、何も無くなった。都合の良い私も、押し付けられた「私」もいない。こうも何も無くなってしまうなんて。何か残っているのかもわからない。

 けれど私を呼ぶ声がしてそちらへ行くと、戸惑った顔の祖母がいる。玄関を開けると、そこに美果がいた。

「久しぶり」

 目が覚めた。

「うん、久しぶり」

 すぅ、と身体に息が入る。

「一緒に学校に行ってピアノ弾かないかなって」

「えっ?」

「私、陽ちゃんに呼ばれてるんだ。だから真琴もどうかなーって」

「え、でも」

 全身真っ黒で、英文字と毒々しいハートのデザイン。同じようなトートバックを肩にかけている。

「マコちゃんも誘っておいでーって言ってたし。帰省前に伴奏見ときたいんだって。行かない?」

 美果は笑顔で小首を傾げる。祖母の顔を見る。何のことかあまりわかっていない様子。

「わかった、いこ。私服で良いの?」

「うん、良いってー。鞄とかも自由だってさ、他に生徒もいないし」

 ちょっと待ってて、と告げて、私は自分の部屋に戻って身だしなみを整えて、黒い革のショルダーバッグを持って降りる。応接間に寄って「桜日」の譜面をファイルに入れてその中に突っ込む。

 何となく、美果は嘘をついている気がする。美果の私服はすっかり変わっていた。あんなロック系は初めて見た。あんな格好で学校? ああ言えば、私も家から出られるだろうから、そう思って来たような気がする。

 玄関では祖母と美果が上品に会話している。和やかで上っ面な感じ。声が少し上ずっていた。

 私もその上ずった会話に参加する。お待たせー、おー可愛いじゃん、ありがとー、じゃあいってきます、それでいくん、うん。なめらかに玄関を閉める。庭を通って道路にまで出たところで、美果の声が聞き慣れたものに変わる。ほんの少しだけの変化。

「どうしてたー? あれから」

 道路脇のダンボール箱を美果が抱え上げた。薄汚くて、それなりの重さがあるように見えた。

「あはは、わかんない。何かぼーっとしてた、私」

「よなぁ、真琴、死んだ魚の目してた」

「開けたらいきなりいるんだもん」

「ああさっきじゃないんよ。一昨日くらいに歩いてたじゃん」

「あー……見られてたんだ」気付いてないのが恥ずかしい。「それ、何の箱?」

「見る?」

「うん」

 美果がその蓋を開ける。「わっ」一瞬、何かの肉片にも見えた。目も開いていない子猫が六匹。一様に、元気が無い様子だった。

「うちの猫がな、今朝産んだんよ」

「へぇ、可愛いなぁ」

「なー」まるで感情のこもっていない同意だった。

「それ持って学校行くわけ?」

「んなわけないし」

「よねぇ、川本先生がって嘘よな?」

 小さく美果はうなずく。

「部活無くなって暇になってな、家にいたら、あれしろー、これしろー、ってあの人うるさいんよ。だから抜け出してみた」

「大丈夫なの? だって」

「大丈夫、心配しないで。あの人今寝てるから。昨日めっちゃお酒飲んでたし」

 行き先を尋ねても、美果は意味深な笑みを浮かべるだけだった。

 私たちは相変わらず、身の回りのことを愚痴りながら歩いた。あまりに暑いからなのか、私たち以外には出歩いている人はいなかった。蝉と、ボートの低い唸りしか、音もなかった。義父から逃れられたのは久しぶりなのか、美果の足取りは軽かった。 

 フルートの話にもなった。ただこの話だけは、文句をお互いに言うことはなかった。

 水田のあぜ道を抜けて、学校のある丘を迂回するように狭い道に入っていく。自販機でアイスティーを買って、木陰で少し休んだ。美果はトートバックからタオルを出して汗をぬぐった。私は汗一つかくことがなかった。倒れてから私の身体はずっと冷たい。暑いらしいことはわかっても感覚としては寒い。

 ダンボールの箱の中の子猫は身じろぎ一つしないまま、鳴き声の一つもあげなかった。

 私がダンボールを持って、再び歩きはじめる。抱えていると中で揺れ動かされている小さな生き物の気配が伝わってきて、気味が悪かった。

 丘をすっかり迂回すると、古い木造家屋が密集する地域に出る。美果の家に近い。もしかして帰るの、と聞くと、彼女はまさか、と鼻で笑う。少しずつ家へ向かう道からは外れて、海の生臭い匂いがするようになった。少しだけ速足になっていった。

 そして背の低い防潮堤に突き当たって、美果は足を止めた。「到着っ」

 瀬戸内海がやたらと眩しい。

「ここがどうかした?」

 何もない、海沿いの道でしかない。美果はバックを防潮堤の側に置くと、よじ上って満面の笑顔で振り返った。軽めにステップを踏みながら。

「ここなら私らでも上れるし、直に海深くなってるんよ。真琴もおいで、その箱渡して」

 鞄を美果のバックの横に置いて、言われた通り箱を渡し、コンクリートに手をかけて身体をようやくの思いで防潮堤の上に立つ。すぐ目の前は海しかないし、底も見えない。穏やかな深い青緑色をしていた。

「落ちたら助けらんないから気を付けて」

「その時は真琴も引きずり込むから」

「え、水死とかやだ。ぶよぶよになるし」

 私は顔をしかめてみせる。

「絶対嫌よな」

 二人ともまるで泳げない。落ちたらどうしよう、と不安にもなる。自然に私たちの間には手がギリギリ届くか届かないかくらいの距離が保たれる。

「さ、じゃあ」美果がダンボール箱を差し出した。ああ、やっぱり、と私の口の端も歪んだ。

 じゃあ、殺そっか。

 ダンボール箱の上下が逆さまになる。蓋が自然と開いて、中身の六つのピンク色が落下していった。そしてそれらは小さな水しぶきをそれぞれあげながら、深い青緑の中に溶け込んでいった。

 最後に、美果は私から行き場の無いダンボール箱を受け取ると、横へ無造作に放り投げて、海に捨てた。しゃがみこんで見つめてみるけど、何の変化も無い。さっきまでなかったダンボール箱が浮いているだけ。

「呆気な……ちょっとくらい浮かぶかなって思ったのに」

 明るさを失った声で、つまらなさそうに美果が呟いた。ありのままのトーン。

「ホント、すぐに落ちてったね」

「まあ、もがく元気もないか」

 名残惜し気に微笑む。

「もうあれ、半分くらい死んでなかった?」

「生まれたまま放置してたから」

 彼女は防潮堤から道に飛び降りた。私はもう一度海を見つめる。けれど子猫なんかいなかったみたいに、いつもと同じ海でしかなかった。一言も発さないまま、子猫はいなくなった。殺したという実感も残さないまま。もう少し楽しいものかとも思っていたのに。石か何かを捨てたみたい。浮かんでいるダンボール箱のほうが、海にゴミを捨ててしまった罪悪感を鮮明にしてくれる。

「死体で浮いて来ても、ねぇ」

 汚らしいだけだし。私もそう言って防潮堤から降りる。海面を見ていたせいで、足もとがゆらゆらしているみたいだった。

「次いこ、次」美果が言った。

「次?」

「子猫がいるなら、次は親猫もいるじゃん」

 当然のように言う彼女に、え、と私は聞き返した。

「親猫、って、美果の猫のこと?」

「あー、あれうちの家の猫だから。猫、本当のところは飼いたくなくてさ。あの人の猫、って感じ」

 なるほど。じゃあさっきの子猫もまるで可愛いなんて思わなくて、ちょっとした復讐のために落としたのか。

「私な」私は再び、美果に連れられて歩きはじめる。「実はもう殺してるんよ、あの猫」軽く笑いながら。

「え、それホント?」また私はぎょっとさせられる。ホントホント、包丁でバッサリなー、と美果は何てことない風に続ける。

「真琴と一緒に殺そうかなって思ったけど、あんまり自信なくてさ。おいでーってしたら来たから、そのまま」

 可愛らしく手招き。

「何それ、自信ないからって」

「だからもうただの死体だけどね」

 ただの死体。あんまり動物の死骸に興味はない。動物嫌いだし、虫に至っては潰すのも無理。

 ただの猫の死体なら、興味もわかないのだけど。

「何か先こされちゃった、って感じ……」

 それがちょっと悔しい。

「先って。真琴、猫触れるっけ」

「絶対無理。あんなのどうして平気なわけよ」

「可愛いとか言ってるくせに」

「それは見た目。引っかかれたり噛まれたりしたくないし。何か体温? 気持ち悪い」

「でしょ。だからもう、いっそって思って」

 猫が怖い私のために、一緒にじゃなくて先に猫を殺しておく。何だか腑に落ちないおかしな理屈かもしれないけど、スルー。

「それに私、実は今回が初めてじゃないんよ」

 ――また私は驚かされる。

「あの人が前飼ってた猫もな、殺したん。六月くらいに」

 そんな早くに? 全然気が付いていなかった。

 私は少しの間、言葉を失ってしまった。知らないうちに美果が先に先に進んでしまっているのが、何となく哀しくて、嫌な感じがして、それで言葉を探し当てられなかったのだった。

「でも察知するのかな。いつもと同じように膝の上に乗せても、私の目ばっかり見るん。撫でても撫でても落ち着いてくれなくて、仕方ないからすぐ死なせるしかなくなるんよ。六月も、今朝も」

 出来るだけ苦しませてから殺したい、でもその願望の実現は難しいのだろう。

「……真琴? もしかして引いた?」

 美果が心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「そんなわけない。ただ、私なんかより凄いなって思って」

「凄くも何もないよ。だいたい私にこのグロ趣味植え付けたのって真琴じゃん」

「あれ? そうだっけ」

 植え付けたんだっけ、覚えてない。

「だよー。麻由といっつも楽しそうにしてたから、私もって。そしたらめっちゃハマった」

 そうだったの?

 美果もまた、純粋に私と同じ趣味じゃないのかもしれない。そんな不安がよぎった。

「もともとこういうの、好きだと思ってた」「ううん、私怖いの苦手じゃん」

「私も怖いのは苦手、お化けとかは」

「じゃあさっきの子猫が化けて出たら……」

 よくある怪談調でからかわれる。

「不吉なこと言わないでよー」

 私は怖がってみせる。ふへへ、と美果は悪戯っぽく笑った。今がこうなら、それでも良いのかもしれない。

 古い町並みを抜けると、今度は学校のある丘に続く、大きな石造りの鳥居の前で立ち止まる。古い神社に続く石段が、両側に茂った木々の間を一直線に割いている。陽射しが強くても、木々に囲まれていて石段の途中は真っ暗になっていた。その出口には、明るく照らされる石の鳥居がある。いかにも、幽霊か妖怪が後ろからついてきそうな雰囲気がある。

「もしかして……この先?」私は少しだけ不安になる。学校に行く時によくこの前を通るけれど、実際に足を運ぶことは無かった。

「うん、この先の、ちょっと奥に捨ててる。怖かったら抱き着いて良いからね、マコちゃん」

 マコちゃん、と見透かされた強調される。

「昼だし」こんな歳になって怖がるなんて、私もみっともない。

「でも猫……」

「ああもう、早く行こ!」

 猫の死体がこの先にあるのは間違ってないのだから、余計に不気味に思えた。死体を見に行きたいのに、その幽霊が怖いなんてちょっとした矛盾だ。

 階段を上り始めると、周りが薄暗くて背の高い木ばかりになった。両側から蝉の轟音が私たちを圧迫してきた。それとなく何度か後ろを振り返ると、トンネルの中にでもいるような気がするくらいに、入り口が明るく見えた。

半分くらい上がったところで、私も美果も息絶え絶えになって会話も途絶えた。膝に手をあてて、無理にでもその階段を上りきる。一〇〇段くらいはゆうにあった。

 上がった先には背の高い木も無くて、綺麗な海を見渡せた。瀬戸内海国立公園、展望台、と朽ちてしまいそうな看板にうっすら書かれていた。一応、屋根のついた東屋のような場所もあった。

 美果は休憩しようともせずに、その東屋の脇の雑草の中を、無言で通り抜けていく。だんだんと、緑や土の匂いだけでは無い何か別のものが空気に混じっていくのがわかる。その正体が何かわかっているから良いようなもので、人気の無い雑草と木立の間から異様な臭気が漂ってくるのは不気味すぎる。

 かすかに肉の腐った匂い、あと血の匂い。あまり嗅いだことのない、でも想像だけで慣れてしまっている腐敗臭。

 美果が脚を止めた。

「そこの」

 背の低い木の横から、澄んだ青い瞳の猫が顔を覗かせている。地面に横になって、身じろぎひとつもしない。小さくて真っ白で、きょとんとした表情のまま、私を見つめている。

 口から小さな紅色がはみ出している。

「綺麗」

 口をついて、その言葉が出た。無造作に留められた、その一瞬。ちょっとでも動けば壊れてしまう脆さ。毛並みの白さは、余計な赤やピンクやただの土の汚れまで許さないほどに隔絶している。何も見えない瞳はこうも純粋に輝ける。

「綺麗よなぁ、やっぱり」

 すぐ隣での、ため息。美果も同じことを感じたらしかった。

「私も、自分で殺しておいて、こんな綺麗なんて思ってなかった……」

 美果はそう言いながら、私の手をとって、それに近寄っていく。近寄らないまま、頭だけを見ていたい。そのほうがきっと綺麗なまま、覚えていられる。

 けれどすぐ傍で見下ろしたその白猫は、身体も同じように綺麗だった。

 一見すると傷は無い。真っ白な毛並みにくすみがないことも同じで、ごく自然に横たわっているところも同じ。でも寝ているようにも、休んでいるようにも見えない。生きている気配はない。でも、死んでいるとも思えないほど整っている。

 お腹のほうを見てようやく、殺されているのがわかる。首にひとすじの緋色の線が横切っていて、お腹には縦一直線に割かれた傷がある。腸がちょっとだけそこからはみ出して、周りに血が滲んでいる程度。

「あんまり綺麗だったから、もうこのまま。もっと解体しようかなって思ってたのに」

 言いながら、美果はその傍らにしゃがむ。私はその場に突っ立ったまま。

 意外だった。原形もとどめないくらいにバラバラにされているとばかり思っていた。もっと内臓をまき散らして、苦悶の表情を浮かべながら息絶えているのだと。実物は正反対だった。

「綺麗よな、この子。あの人にはもったいないくらい」

 少し悲し気な気がする口ぶり。

「この子、私に一番懐いてたん。あの人が連れてきた前のは散々もがいたのに、この子はホント、あっさり……。別にそれで良い、って、そんな感じに死んでった」

 生んですぐだったからかもね、と美果は肩をすくめてみせた。

 何で。

 何に対してかはわからない疑問、理不尽さがこみあげてくるのがわかった。懐いてたのに殺したこと、子猫を生ませてから殺したこと、そこへの疑問ではなくて。

「だから殺したん……?」

 私の問に、美果はうなずいて立ち上がった。

 神妙な顔をしていた。

「変よなー、やっぱりやってみなきゃわかんないのかもね」

 白猫はそのままにしておいた。このまま腐らせるのはもったいないけれど、触る気にもならない。もう動くことはないのだし、土の中にうめたくもない。

 私たちは東屋に戻って、小さな木の、ささくれだったベンチに腰掛けた。しばらくはそのまま話もしないで、少し傾いた日差しで色の鮮やかになった海を眺めていた。

 美果が長袖をまくった。

 生白い腕の内側に、びっしり大小さまざまな傷と傷痕がつけられている。右腕も左腕も。彼女はそれからバックから一本の剃刀を取り出した。ピンク色でガードのついていない、リストカットにぴったりの刃物。ケースを外す。それを自分の左腕に当てて、そのまま滑らせる。その線に沿って血が滲みだして、幾つかの雫が地面に落ちていく。美果の目はそれをただ見つめている。全くの無表情だった。

 と、それまでの落ち着いた動きとはうって変わって、乱暴に剃刀をケースに押し込みバックに放り込む。それから、はぁ、とも、あぁ、ともつかない激しい息を一つ吐いた。両膝の上に腕を立てて、手で顔を覆った。

「ぜんっぜん、痛くねえし……」

 指の間から悲鳴を押し殺すように呻く。ああああ、とうなり声もそれに続く。オモテに向けられる普段の美果からは想像もつかない程、低くて不気味な音色だった。

「この前まで痛かったのに……」

 自分で自分の身体につける傷。それが痛くないこと。きっと、痛いことはわかっても痛みを感じられないんだろう。痛いことと、痛みはまた別物なのかもしれない。私と同じように。

 彼女は顔を上げてこっちを見た。

「な、真琴。腕貸して」

 私の同意より先に左腕を引っ張られる。強引に。それから私の袖を肘までまくり上げる。

「ああ、真っ白。ねえ」顔をこちらに向けたまま、美果はバックからもう一本、新しい剃刀を取り出した。

「切って良い?」

「うん」

 考えるより先に即答していた。自分で切りたくても切れない、そんな腕の白さなんて無くて良い。血と、肉の断面を間近で見てみたい。自分の身体だろうと別にそれで構わないし、それで美果と同じような腕になるならそれで良い。「切って」

 美果は器用に片手で剃刀のケースを外して、その刃を私の腕の中ほどに当てた。冷たくて金属的なザラザラが一気に撫でていく。

 あ、痛い。

 血が少しずつ滲んで、垂れていく。それまで血の気も無かった私の腕から、なぜか血が溢れる。

でも、傷口が大きく開いているようには見えなかった。初めてつけらたから派手に見えるだけでで、大した深さの傷でもないらしい。全然グロくもない。

 左腕を支えていた手が離されて、力なくベンチに落ちる。手の甲に鈍い衝撃が走った。

「ごめん」

 俯き加減に、そう言われた。おおよそ私にはどうでも良い言葉だった。「別に良いよ」

「でもようやく痛くなった」

 謝った次は、私の言いたかった言葉を美果が口にする。袖を下すと少しべたついた感じがする。血で汚れたんだろう。

「私も久しぶりに痛かったかな、すーってする感じ」

「頭がすっきりするみたいな?」

 私の声色がいつもと変わらなかったからなのか、顔を上げた。不安そうだったけれど、どこか安心した表情をしていた。

 良かった。変に罪悪感持たれるほうが困る。嫌じゃないんだし。

「そうそう、そんなイメージ」

 適当だった。頭がすっきりするより、暑さが戻って来たイメージのほうが近い。

「真琴もなるんだ。……いる? これ」

 美果はそう言って、私の血がついた剃刀を差し出す。良く見ると柄の装飾が可愛らしかった。「良く切れるよー」冗談っぽく言われる。変な贈り物だけど、私たちにはぴったりだった。

「ありがと」

 笑いながら受け取る。空気が軽くなっていくのがわかった。張りつめた空気は得意じゃない。ケースも受け取って、私はそれを鞄の中に大事に仕舞った。

「私なー、もう自分で痛みがわかんなくなった感じしててな」

 美果が独白していく。

「ずーっと家に閉じこもってると感覚がマヒしてくんよ。殴られても別にどうでも良いって言うか。部活に行けたら良いのにって思ってた」

「それ私も。美果と同じ」

「なるよな。フルート吹きたい、ピアノ弾きたい、って思いながら閉じこもってた。そうしたら、あの子のこと思いついて」

 少しだけ、あの猫のいるほうを見やる。ここからは全然見えないのに、存在感だけはあった。するはずもない気配のような。

「あの子も可哀想だったからな、子猫生んでもうち育てられないし。それにあの人に飼われてるってだけで……。

 そうしたらあんな綺麗になっちゃったから、ここまで運んで来たんよ。目立っても困るし、でもここなら眺めも綺麗だから似合うじゃん」

 そう言って、また海をボウ、と眺める。どこも見ていないようで、中空の一点を見つめているような不思議な見つめ方。私もそうしてみる。何が見えるのか、そうすればはっきりとわかるような気がした。

「あの子殺した時に、はっとしたん。痛い、って思い出した、っていうか。殺したいのは別の相手のはずなのに、それとはまた違うんよ。だから、ちょっと今朝で私も変わってな、地獄で鬼になってみたい、っていうのもあるんだけど、何か」

 何か、の次はため息だけだった。

「さっきも痛かった、真琴切ったら。自分の腕は痛くないのにさ。私も壊れるとこまで壊れたかなーって思う」

 自嘲。立ち上がる。

「ありがと、こんな話聞いてくれて」

 美果の話ならいつでも聞くよ、私はそう伝える。「私もイカれてるからお互い様って」

 私も笑顔で立った。

「さっきの猫見たり、美果に切られてな、私も同じこと思ったから。一週間ぶりに感覚が戻って来たって思う」

 紛れもない本音だった。

「そういうところ、同じじゃん。だから私はわかるし」

 たぶん、きっと。美果のほうが先に殺していて、先に先に進んでいくのだけれど、それでも私たちの本質は一緒だと思った。他人には理解されない私たちの本当。痛みを痛いと感じられることが嬉しい、なんていう。

 私と目が合った。笑顔だけど真剣みがあった。

「これ、帰ったら読んで」

 美果が今度取り出したのは、青い封筒だった。

「昨日書いて、渡そうかなって思ってたんだけど。あの子を殺す前に書いた」帰ったらね、と念を押される。

「ん、わかった」今ここで開けたらどうなるのか少し気になったけど、何も言わないことにした。受け取ると今度こそただの笑顔になった。今日は連れ出してくれてありがと、と私が言うと、美果は小首を傾げて、私も楽しかった、と明るく答えた。

 私たちはそのまま石段を下りると、鳥居の前で手を振って別れた。そこで私は、今日初めて、自分が汗をかいていることに気が付いた。

   


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