2/ 2010年8月5日、翌6日
川本先生が指揮棒を振り下ろす。コンクール前日の、最後の合奏が始まった。
第一楽章の頭、トランペットの音が雑で割れている感じ。音程はいつものこと。パーカッションとタテの音が合っていないからバラバラに聞こえてくる。第一楽章にはフルートの出番はあまりない。全部、金管の連中にかき消されてしまうくらいに。もどかしい。
ゆったりとした第二楽章に入る。導入はトロンボーンとホルン。私がこの曲で一番嫌いなところ。これまでの練習でも何度も何度も、先生に止められてうんざりしてきた。別に得意な音域じゃないけれど、ハーモニーではなくて気味の悪い中音と低音の集合にしか聞こえてこない。全員が音を間違えているとしか思えないくらいに不快。
そんなもの、気にしても仕方ない。第四小節が始まるところで先生がこちらを見て合図を送る。私はフルートを構えて、息を吸い込む。すぅ、と身体が少し浮かす感じに。
静かに、私は落ち着いて、いつもより鼓動は遅れて、視界は暗くなって狭まる。
前に押し出すように息を入れる。抒情的で哀しげで、なめらかな氷のような調べを奏でる。最初のGの音は真っ直ぐに、次のCは音を下げないように。それでいてそのことが表れないように。
繰り返し繰り返し練習したソロ。
そのまま曲調は盛り上がっていく。他のフルートも加わって、切なげに音が強まっていく。練習通り音程をパートで統一して、全体の主役となる。クラリネットが加わる。少し不安定になるけど、私が音を引っ張っていく。後ろからの音は気にしない。歌うのは私たちだ。
トランペットもまた旋律をなぞり始めると、今度こそ揺れていく。私たちだけは調子を保つ。もう一度主題を吹くと、揺らいだままに第三楽章に移っていく。
低音楽器から順番に提示されていく勇壮なメロディ……のはずが、何をしているのかわからない。これでも幾分か良くなったと思いたい。木管が入って旋律がはっきりとするころには、今度は裏メロが怪しい。途中でパーカッションアンサンブルが入る。これも相当、迫力に欠ける。――また主題が提示される。クライマックス、ここでようやく金管も落ち着く気がする。でも最後の音はどこか金切り声に聞こえてしまう。
これで、終わりか。
演奏を終えたあとの余韻が音楽室に漂っている。誰かが手を抜いただとか、目立ってミスをしたなんてことはない。今まで合奏したなかでは、たぶん一番の出来のはずだ。
全員揃っての合奏。美果はいないけれど。フルートパートは私がきっちりと教えたから、薫も彩も、それぞれに最高な演奏ができていると思う。それに美果ならここに加わっても、何の問題も無いはずだ。
川本先生が指揮棒を置いた。
「ん、お疲れさま! 皆最高だった!」
満足そうに拍手する。皆、それぞれ晴れやかな顔をして拍手し始める。パラパラ、パチパチパチ、と盛り上がる。「陽ちゃん先生もお疲れさまぁ!」恵美の元気の良い声。「お疲れさまです、先生!」真白も。「皆お疲れさま!」理沙も。皆立ち上がって、口々にねぎらいと称賛の言葉が飛びかう。楓や小野寺たちも。
調子の良い人たち。わかっているのか、わかっていないのか、聞いていないのか、聞いてても、せめてこうやって自分たちにエールを送っているのか。
どっちにしても、あの演奏じゃ形にようやくなった、という感じにしかなってない。
「真琴先輩もお疲れ様です」「お疲れ様です!」薫も真白も。屈託のない、やりきった笑顔がとても爽やか。
「二人もよく頑張ったね、さっきの良かったよ」安心してもらおうと私は微笑む。この二人はさっきの演奏そのままを本番にまで持って行ってくれたら良い。きっと最高の本番に出来る。私たちは、きっと。
背中を元気よく叩かれる。
「真琴っ! お疲れぇ!」双葉も満面の笑みで、私を思い切り引き寄せる。「うんうん、やっぱ真琴最高だった」「双葉もバッチリだったよ」私も双葉の肩を叩く。麻由もその後ろで菜々と一緒にお互いを称えあっている。
「皆! この調子で明日も頑張ろうな!」
先生の掛け声。
「はい!」「はいっ!」「はい」……元気の良い返事がそれぞれ響く。この調子で明日も。
このまま明日、なの? 本当にこんなまま……? でも明日が県大会本番だということは確実だ。私たち三年生の最後のステージ。
フルートを吹けるのも、明日で最後になるのかもしれない。美果と一緒に。
私はそんな不安や不満を顔に出さない。
先生が二回、手を大きく打ち鳴らした。
「じゃあ楽器、片づけてー! 金管とパーカッション、あとサックスは下に持って降りて、明日すぐに出発できるようにして。木管はパーカッション手伝うこと、特にティンパニ―は皆で運んで。あと真白、技術室開けてきて。そこに皆楽器運ぶ。良い?」
「はーい!」大きな返事が綺麗に揃う。
皆、楽器の片づけをし始める。最後の練習が終わった。緊張から一旦解放された顔色は鮮やかだ。私は、自分のフルートをクロスで念入りに掃除していく。三時間半ほど握りしめていれば、手の脂がどうしてもしつこくついてしまう。キーのひとつひとつを、柔らかな深紅のクロスで撫でていく。銀の繊細なつくりがそれぞれが煌めく。キーの間まで丁寧に磨いていく。
三年も吹けば、最初の輝きはもう無い。毎日掃除してもポリッシュで幾ら綺麗に磨こうとしたって、くすみ、黒ずんでいく。キーの周りは特に黒さが顕著だ。クロスで拭いてもその黒は取れない。
でも、私はこれだけ吹いてきたのだ。胴部管の頭についているメーカーの刻印の部分は、しっかりと左手に馴染む。私にぴったりと当て嵌まるようになった、私のフルート。
買ってくれたのは親だけど、だから何?
これはすっかり私。ステージに上がった時にライトを受けて、誰の楽器よりも綺麗に輝く。絶対に。
「先輩もどーぞっ」
真白が私の目の前に焼き菓子の入った袋を差し出す。「ああ、うん。ありがと」
「先生からの差し入れです、明日頑張りましょ!」
そうやって明るさを振りまきながら、皆に配って回っている。皆して盛り上がって音楽室のなかは騒がしい。理沙はチューバのケースを苦労しながら運んでいて、薫たちも他の楽器の手伝いをしている。
私くらい、抜け出したって良いよね。
譜面台を畳んでナップサックに仕舞って、フルートケースと一緒に肩に背負うと、裏口から出る。ゲリラ豪雨一歩手前みたいな空で、四時も来ていないのに外はやたらと暗かった。コンガをロフトまで持っていく一年生の一団を横目に、私は彼女たちとは逆方向に歩いていく。呼び止められることはなかった。
西の端、音楽室の裏。非常階段の手すりにもたれかかって腕を組む。どうせここから降りた方が技術室には近い。北風が吹き抜けくる。
昨日も今日も、ここに来なかった。そういえば、全員揃った合奏が出来たのはいつが最後だろう。一昨日? でもあの日は楓がいなかった。塾だって。その前は双葉が模試を受けに行っていた。じゃあ五日前のことになるのか。
美果は必死に頑張っていた。制限された部活の時間のなかで、それでも精一杯に。けれど、明日来れるかどうかも良くわからないまま、今日も来なかった。お家の事情、言い方のせいでそれ以上は皆踏み込まない。でも美果の左腕の傷は皆知らないまま、日に日に増えていく。どんなに暑くてもずっと長袖。私も長袖のまま、日焼けしたくないからって言って。三年生になる頃に、美果の家に異物が紛れ込んだ。父親然とした異物。そのせいで彼女はここに来られない。お家の事情、その一言だけで部活に出れないには充分すぎる理由になってしまう。先生たちとも何度も相談したらしいけど、でも結局私たちは美果の家からすれば、ただの部外者で、親が来させないと決めれば逆らえない。どれだけフルートを頑張っても、上手くなっても、ここに来る時間は限られる。
私は。「私」は。
何の努力も無く手に入れたバカみたいな一位。言葉の暗示って恐ろしい。満点なら一位に決まっているし、全部満点なんて現実的じゃない。それでも一位はとれる。誰も邪魔されないトップ。ずっと追われる立場、目指される「私」、私に押し付けられた「私」の理想の暴力。ずっと気づかなければ良かったのに。
フルートは、どれだけ努力したって美果に追いつけない。三年生になってようやく追い抜いた。でも、その先には何もいない。誰もいない。気が付くと私は、1stをとってフルートソロまで与えられている。
誰がどうやって頑張っても私のトップを崩さない。適当にテストを受ける私と、空いた時間を見つけては勉強している双葉や松沢優子、その他大勢の受験生たち。皆して私の下にしかいない。美果も勉強させられて、上位にいることを強制されるのに、それでも四〇〇点に届かない。四〇〇なんて目を閉じてても取れそうなくらいなのに。
明日、私が努力した結果が突きつけられる。聞くまでもない。銅賞、最下位。賞とは名ばかりの、最も低いランクとして私たちの演奏は評価される。でも、もし少しでも良いところがあったら、一つ上になれるかもしれない。ほんの少しでも。
私だけが頑張っている間、他の人たちはどうしてたのか。楓たちは。小野寺たちは。ただ賑やかで華やかなだけで。
私は「私」ってだけで特別扱いの優等生。私は常に良い点数で、他の生徒の目標になって、模範とされるべき私。でも、結局努力なんてただの綺麗事。どれだけ頑張っても私に追いつけない皆は一体何。
なのにフルートも、ピアノも手放さない私は何。あれだけ努力と成績を釣り合わせようとして、皆の努力が報いられたようにしたのに、都合の良いところだけは手放さない、認めてほしい。「私」から好きなところだけを切り貼りして、そうやってまた私に押し付ける。
趣味は読書。オモテ向きは本の大好きな優等生。でもウラは違う。本当は優等生なんかに許されない趣味が大好きなだけ。実践できないから本に変わってもらっているだけ。憎い。殺したい。ただそれだけなのにそれはまるで認めてくれない。血も内臓も悲鳴もちぎれた四肢もとても綺麗なのに、それはただの異物、悪趣味として嫌われる。
わかってくれるのは、お互いしかいないのに。なのに一緒にいられないかもしれない、なんてそんなの理不尽。殺したい。私に「私」を押し付ける人たちを。努力と結果の釣り合わない理不尽も、全部消してしまいたい。
それなのに私は、どうしてもフルートにこだわる。音も形も綺麗で繊細で、だからどうしたのか、なのにずっと吹いていられればって。この音を吹いているだけで私は気分が晴れていく気がする。一番楽しい時間。美果たちと一緒に吹いていられる時間が続けばいいのに。これだけはやっていたい、フルートだけは手放さない。私のための楽しい時間がただ欲しい。何の面白みもない「私」のための時間はいらない。誰とも楽しくない、何の面白みもないものはいらない。勉強も何もいらない、けどこれだけは欲しい。欲しいところだけ特別扱い。ただの勝手。
焼き菓子を頬張る。袋からして、ちょっとお洒落で高めのクッキー。味はしない。甘くてサクサクとしていて、歯に少しまとわりついて、香ばしくて、キャラメルの風味のついたほろ苦さがあることはわかる。でも、だったら何。味は無くなる。先生は皆を喜ばせるために、たぶん自腹で買ってくれた。明日に向けて一番のコンディションでいられるように、実力を十二分に発揮してほしくて配ってくれたんだろう。だからきっと美味しい。
「あ、ここにいた」
顔を上げると、麻由が角から顔を覗かせていた。美果がいるはずもないのに怖々としているみたいだった。私は手招きする。
「先生が余ったから三年にはこれもあげるー、って」
麻由は私のとなりにもたれかかる。同じ銘柄の、今度はフィナンシェ。
「荷物は?」
クラもナップも持っていない。
「もう下に置いてきた。運ぶのもだいたい終わったんよ。あと、これは」
今度は小さくて白い球のお菓子が幾つか入った透明な袋。雰囲気がクッキーともフィナンシェとも違う。小さなリボンで口が止められている。
「私からマコちゃんに」
「何、これ」
「ブールドネージュ、っていう洋菓子なん……知らない?」
「ふーん……?」
見たことも聞いたこともない。でも名前からして何だか手の込んだ洋菓子みたいな感じに思える。白っぽい球、でもホワイトチョコとは違うような。
「何かマコちゃん冷たいよー、一応これうちが作ってみたん」
「ありがと。麻由、こんなお洒落な物まで作れるようになったんだ」
「ふぇ、そんな難しくはないんよ。クッキーを丸めた感じ?」
クッキーっぽいのか。一つ口に入れる。白いのは粉砂糖、表面は硬めで、中はほろほろに崩れていく。上品な甘さとアーモンドの香りがする。外はしっかりしているのに、口のなかで自然にほどけていった。
「あ、美味しい」
「ふふーん、作って良かったわぁ」
「良いなぁ、美味しいの作れて」
「マコちゃんも作れば良いのに。私教えるよ?」
「台所、使わしてもらえないからさ」
「まだそんなことやってるん……」
「うん、厳しすぎだよねー」
かり、さく、がり。私の隣で、麻由も食べ始める。二人だけでこうやって食べるのは、いつ以来になるんだろう。音楽室からも物音ひとつ聞こえてこない。四階から人の気配がしなくなったみたいにも思える。
「マコちゃんさぁ」
「何?」
「さっきまでカッコつけて何考えてたん?」
「カッコつけて、って。ちょっと色々」
誰かに話す内容じゃない。
「……美果ちゃんのこと?」
言わなかったのに。私は黙ってうなずく。
「今日も部活来なかったねー、あの人」
急に麻由の言葉から抑揚が無くなった。
「明日、来れるのかな」
「来れるんかなぁ」
「最後くらい来れるよね」
「さぁねぇ。あの人何考えてるかわかんないから」
最後のブールドネージュを噛み砕く。どっちでも良い、なんて続けそうな言い方だった。
この際、思い切って聞いてやろう。
「ねぇ、麻由」
「んー?」
「何で私ら裏切ったん?」
三人仲良かったのに。貴重な、趣味を共有できる親友だったのに。
「……裏切ってないんよ、本当」麻由は訴える。抑揚が戻った。
「でもさ」
「裏切った、ってあの人が言い始めたんよね」
はっきりと、私の言葉は遮られる。
「そうだっけ」
いつから裏切り、と言い始めたんだっけ。
「マコちゃん、自分から言ったことある?」
「ん……無い」
「だから私は裏切ったつもりなんて無いんよ。勝手にあの人から言われただけ」
狐につままれたような気がした。
「じゃあ、何で?」
何で私たちから離れたの。美果とあんなに仲悪くなったの。
今すぐにでも問い詰めてやりたい。でも麻由がここに来たのは、その話を自分からするためかもしれない。じゃないなら、こんなところに来る意味も無い。
「……最初はシューティングゲームからだったでしょ」
私たちはフィナンシェの袋を開ける。
「あのキラキラしたやつ?」
縦スクロールで綺麗なエフェクトの。美果とやったことのある銃火器でヒトを撃ち殺したり爆殺したりするのとはかけ離れた、また別のシューティング。
「そう。そこからそういう、血がドバぁってなるのとかに繋がって」
「あれ私、今でも良くわかってなんだけど」
実のところそれほど興味も無い。ややこしいままに放置している。
「グロは二次創作なん」
「今でも好きなの?」
「もうやめた。無理になってから」
「無理になったって、だから何で」
「だってマコちゃんたち……どんどんおかしくなったんだもん」
「おかしいって」
麻由に言われたくない。食べかけのフィナンシェが少しだけ指の間で潰れる。
「あの人が本持ってきはじめてから……殺人とか、本物の死体の画像まで」
「麻由も喜んでたんじゃなかった?」
「合わせてただけ。あんなの無理だよ。そしたら、今度は戦争の写真まで」
合わせてた――そんな。でも、そういえばそんな雰囲気があったかもしれない。どことなくぎこちない笑顔。
「……最初に逃げ出した時の、あの腕とか脚の? あの画像のこと?」
「本物は苦手だって言ってたのに」
「……そっか」
「だから……うん」
「麻由ってどうしてグロいの好きだったの」
死体がダメなのにグロいのが好きとか矛盾してる。
「あの時なあ私、人と違うのを好きになってみたかったっていうか……注目されたかったんよ」
「は? 注目?」
「だって皆と違う趣味だったら、私でもって」
「それだけの理由だったの?」あまりにも簡単すぎる動機だった。
「もうひとつはああいうの好きって言ってたらあんまりその、虐めてくる人がいなくなって」
「まあ、怖いもんね」それはわかる。
「うん。だからだった。うちが好きだったのは、あんな感じの可愛いアニメとかゲームとか、そういう中でのグロいのだったから」
彼女は数本のタイトルを口にした。どれも可愛らしい画風のキャラクターが登場するものばかりだった。私たちが最初に手をつけたものがほとんどだった。
「そっかぁ。それで、離れてった」
「うん」
つまりそれって、結局、麻由は。
「マコちゃんはどう」
麻由は私の眼を見据えながら、距離を詰めてくる。
「どうって」
「何でそんなもの好きでいられるん」
何で。理由。
「私ってメロンパン好きじゃん。フルート吹くのも好き」
注目されたいとか、そんな理由らしい理由も無い。
「ふぇ?」首を傾げられる。
「それと同じ、かな」
メロンパンが好きなのは、ただの見せかけだけど。
「麻由ってお菓子つくるの、好きじゃん。双葉は絵を描くのが好き。で、私は、何て言うか」
言葉が詰まる。何て言えば良いのかわからない。ただのグロともまた違う。サドとも違う。ずっとそれを表す言葉は見つけられない。勉強して語彙を増やしても当てはまる言葉が無い。
「そういう死体とか、殺す、こと、みたいな、そういうことがたぶん、好き。メロンパンとかフルートとかが好きなのと同じ」
実際殺したことなんてない。でももし好きに人を殺せるなら、それが好き。そういう仮定でしか答えられないのがもどかしい。
「理由があるとしたら、たぶん復讐とかになるのかなぁ。家族とか、虐めてきた人とか。でもそれだけじゃないと思うし。九一一見て綺麗だなって思ったことも覚えてる」
ただそれだけの理由。
「九一一?」
「あの、飛行機がビルに突っ込んだあのテロ」
「あ、そんなこともあったんだっけ」
「あとコロンビア号が燃え尽きていくところとか」
「全然わかんない、それー……。何のこと」
説明する気にもならない。たぶんわからないままにしておきたい麻由には、聞く気もないはずだ。嫌がらせしたいとも思わない。
「沖縄戦とか」これが麻由には一番わかりやすい。
「ごめん。やめよ? この話」
即答だった。少しだけ、あの変に明るい笑い声も混ざる。
「よなぁ。そういうこと。好きなことって変えらんないし、仕方ないんよ」
私もあっさりと引き下がった。麻由のことは普通に友達だと思えた。あんなよくわからない趣味にハマった親友でもなく。あの時に戻る必要もないのだろう。麻由と美果はともかく、私は別に麻由のことが憎いわけでも何でもない。不思議だっただけ。
麻由の身体が私の腕に触れた。真っ直ぐ見上げられる。
「やめることは?」
出来るんだろうか。わからない。
「そっか」
表情を変えることもできずに黙っていると、麻由は落胆したように呟いた。「技術室、降りてきてね」止める間もくれない。軽いステップを踏んで九〇度回転して、非常階段を駆け下りて行った。
薄曇りの朝だった。六時半、私は誰にも何も言わずに家を出た。学校に行く前にコンビニに寄って、メロンパンとピーチティーを二つずつ買った。
まるで誰もいないような学校に入る。フルートの音だけがかすかに聞こえる。正門も開いているし、たぶん先生も来ている。
技術室の扉は開け放されていた。四角の小さな木の椅子に座り、音楽室中から移動させらられた楽器に囲まれて、一人、扉に背を向けて窓の外を見ながら、組曲の旋律を吹いていた。
丁寧で確実で、真っ直ぐな音色。私よりずっと正確だ。吹き終わった後に、私は技術室の中に入った。
「わっ、真琴」
気が付いた美果が驚く。「おはよー」「おはよ、もう、脅かさないでよ」嬉しそうに。
「さっきの聞いてた?」
「うん。完璧」
私は美果の隣に座る。
「昨日まで来れなかったぶん、先生に呼び出してもらっちゃってさ」
「来れて良かった」
本当に。川本先生にも感謝しないと。朝早くに特別に開けてもらって。
「ホントなぁ、昨日も揉めに揉めて大変だったんよね」
「揉めたって」
「ああ、大丈夫大丈夫。ちゃんと来れたし」
美果は私に笑って見せた。何をどれだけ揉めたのかはよくわからない。空元気かもしれないけど、今日くらいそれでも良いのかもしれない。
「ん。これ、差し入れ」
せめて元気を出してもらいたくて、私はさっき買ったメロンパンを手渡す。
「おお、メロンパン!」
「食べよ、朝食べてないでしょ」
「ありがとー」
私たちはメロンパンを齧り始める。
「合奏、どんなかった? 新しいこと陽ちゃん言ったりした?」
「んーん、私らは何も」
「おーし。ならこのままなんなー」
「そ。……ねえ美果」
「うん?」
「私らって報われるのかな」
あれだけ練習して、美果だってああやって何とかしてでもここに来ている。
「え? どゆこと」
「んー……どうなんだろうなーって。練習頑張ってきたけどさ、やっぱ不安で」
咄嗟に自分の話にすり替える。
「あー、それな。何とかなるさー」
「何とかなる、かぁ」
「あんまさ、真琴考えすぎんようにな。真琴のフルートって絶対上手だから自信持つ!」
「そだね、私なら出来る。信じる!」
私なら出来る。私は。
報われてほしい。
でも、そこから先は言えなかった。朝から変に暗い愚痴なんか聞きたくないだろうから。吹く前から結果を決めつけてどうする。まして、そんなことを頑張って練習してる美果に言うなんて私もどうかしてる。
私たちは励まし合いながらメロンパンを食べて、ピーチティーを飲んだ。暗い話も何も無しにした楽しい時間。入部したての時の話、お互いの趣味がバレるまでの頃のこと、二年生の時の吹奏楽祭、コンクール、地域の演奏会に文化祭。三年でようやく同じクラスになれたこと。修学旅行に体育祭。懐かしくて楽しいことを、思い出しては気の向くままに。
ひとしきり話していると、気の滅入ることもどこか頭の隅に追いやれた。虐げ続けられるの地獄みたいなこの世の、薄曇りの陽射しでも明るくてキレイにみえてくる。ギリギリみていられるくらいには。息苦しさからも解放される。
あの曲なー。合わせたらどっちもあの小節のとこだけ抜かしててびっくりしたよなー。ね、薫だけがきちんと吹いてたもんね。そそ、あの子しっかりしてるから。真琴ほったらかしてたのにねー。だってさぁ……。去年、ギリギリ銀賞って悔しかったよねぇ。うちらがもっと上手かったら金だったんかなぁ。今年は任せてなー。あの時の美果ピッコロ大変だったよね。いきなり吹けーって無茶ぶりだよねー。マーチングとか無理無理。息入る前に流れてくもん、あれじゃ音以前の問題。そうそう、風で飛ばされてさ。しかも真っ赤に日焼けして。な、あれホント痛かったから。吹祭のソロ、あれ輝いてたよー。私そのときの記憶無いんだけど、風邪ヤバくて。無理矢理だから良かったんよ、たぶん。めっちゃ頑張ったよな。うんうん。また吹きに来よ。抜け出しちゃお、伴奏とか言って。どっちみち音楽室だからね。ついでに、ねー。
でも、八時半は来た。バスに乗る頃にはすっかり真夏だった。
今日は全員揃っての、最後の演奏だった。楽器たちはステージのライトに照らされて、いつもより光ってみえた。川本先生は全員の目を見て、指揮棒をあげた。私は、私たちが吹いてきたこと全部を、そのステージの上の七分間に凝縮した。第二楽章のソロも思い残すこと無く吹ききった。理想通りの演奏だった。最後の音はFだった。フェルマータのせいで、いつまでも終われないような気がした。
出場校は全て、失格にならない限り、金・銀・銅の三つの賞に割り振られる。
私たちの結果は、一番下の銅賞だった。