1/ 2010年7月21日、翌22日
面談室に呼び出された私は、カウンセラーと担任の大島先生と、テーブルを挟んで向き合っている。一対二の状況。
「ええと、私は淡水魚で、あの人たちは海の魚なんです。正直なところ住んでる世界が違うっていうか」
ソファに身を預けながら、カウンセラーのおじさんの目を見据える。薄い白髪の小さなおじさん。まさに人畜無害なカウンセラーって雰囲気。作り物。
「そうか、なるほど。でも赤木さんもみんなも魚ってところは同じなんだね」
そう反論してくるのか。比喩がおかしかったみたいだ。私とあの人たちは同種の魚なんかじゃないって言いたかったのに。
「ならそれはそれとして、赤木さんとみんなとで魚っていうカテゴリーで共存できるんじゃないかな?」
にっこりと笑ってみせるおじさん。けれど、目が笑っていない。小さくて細い目の奥が嫌に私を見つめている。笑っているように見えるけれど、私の次の言葉を待ち受けているだけだ。この人はどう反論されるのかを伺っている。
「いえ、そんなわけないじゃないですか。棲んでる水が違うんだから呼吸できないんですよ」
私もあくまで笑顔だ。私は笑顔が苦手で、と言うと、いや笑ってるじゃないか、とよく言われるけれど、これが笑っているということなんだろうか。愉快なのには違いない。
「うーん、そんなに息苦しいなら少し肩の力を抜いてみたらどうかな? ほら、呼吸できない、っ考えずに、呼吸できないかもしれない、って。決めつけるんじゃなくて、かも、とか、かな、とか、って考えてみれば楽かもしれない」
わかりきっているのに、断定しないっていう嘘。卑怯で面倒くさいだけ。
「そう、かも、しれません」
あえて、かも、と強調してみる。素直すぎる嫌味だ。私もカウンセラーも微笑を絶やさないあたりが不気味だと思う。
「赤木さんは自分たちのことを魚、って例えたけど」
自分たち、って纏めんなよ。私と一緒にしてくれるな……。微笑ながら私もにらむ。
カウンセラーは続ける。
「先生はみんなの年代はサナギだと思うんだ。子供から大人になるための準備期間だから。芋虫から綺麗に蝶になるための蛹と似てるよね」
「サナギ、ですか」
私は繰り返した。意外な例え。素朴だけれど概ね言いたいことはわからなくもない、面白い比喩かもしれない。
「そうそう、サナギ。だから殻をちょっと硬くすることもある。まだサナギになりかけている人だっているし、もうすぐ羽化しようっていう人もいる。早ければ良いわけでもないし、遅いからって引け目を感じることはないと思う。みんな違って当たり前なんだよ。
でも、サナギになっている時に殻を無理に割ったり、揺さぶったりするとどうなるかな」
そりゃあ死ぬだろう。小さなころに育てた芋虫を思い出す。緑色だったり茶色だったりする蛹たち。モンシロチョウとかアゲハになって空に放すこともあったし、蛹のままじいっと動かなくて、段々と色褪せて縮んでいくこともあった。
神妙に聞く私に、カウンセラーは小さくうなずく。
「先生たちは、みんなに綺麗な姿で蝶になってほしいんだ。だからこうやって手助けしてる。赤木さんならわかるんじゃないかな。まだサナギから強引に出ることは無いんじゃないかな?」
目元が少し緩んでいるように見える。確かにその比喩は腑に落ちる。この話は、たぶんこの人の常套手段なんだろう。落ち着き払って、ゆっくりと慎重に言葉を並べているようだった。
けれど、それはどちらかと言うならマセたワルにする例えじゃないか。ワルがそんな話を聞くかはともかくとしても。
「そうなの、かも、しれませんね。でもみんな蝶ってわけでもないんじゃないんですか。一匹くらい蛾が混じっているかもしれないし」
嫌味ったらしく言ってみる。でもまともに反論になってないことはわかる。もし、私は別に強引に蝶になろうとしているんじゃない、と否定したところで、それを受け入れてくれるとも思えない。それにどちらかと言うと私は、サナギからもう一度新しくサナギになっているような変種、といった感じだ。
ふうむ、とおじさんも口を閉ざす。そろそろこの生意気な中学生に嫌気がさしているんだろう。
カウンセラーの隣に座る、ずっと黙っていた大島先生が身を乗り出す。
「なぁ真琴。どうしたんだ、いきなり」
くりくりとした目が滑稽だ。色黒で禿げ上がっているせいで、やけに白目のインパクトが強くなって少し不気味。
「中間はいつも通りの一位だったじゃないか。それがいきなり――」
「どうしたんでしょうね」
先生の言葉を遮る。私にもはっきりとわかるわけじゃない。ただきちんと行動を結果に反映させただけだ。今まで反映されていなかったから気が付かなかっただけで。
大島先生の目が凄みを増す。
「このままじゃ東山も行けんぞ。いや、俺が行かさん。今のお前に行ってほしくない。お前がそんなんじゃ、白瀬中の生徒を取ってくれなくなる」
「それで、良いんです。東山は余計に海水濃いって思いません? 先生も東山出身ならわかると思いますけど」
大島先生はいよいよ怒鳴りそうになったけれど、カウンセラーのおじさんを気にして何も言わなかった。目をきつく閉じて筋肉の盛り上がる太い腕を組んで、身体を前後にゆらゆらと動かし始める。アダージョくらいのテンポを刻む。聞こえてくる吹奏楽部のトランペットの音のテンポと微妙にずれているせいで、何となく居心地が悪くなる。
「赤木さん、何があったか話してくれませんか? 話してくれないと、先生たちも何もできませんから」
カウンセラーの口調はそれでも穏やかだ。
「何もないんです。本当に。何も」
正直な私。間違いなく何もない。むしろ今までが何もかもありすぎていたのだから。どっちが悪意なのだろう。本当に助けてほしかったのは、こうなる前の私だったのかもしれないのに。わからない。これだけはまるで私にもわからない。
私は壁に向かい側の壁にかかった時計を伺う。約束された面談の時間を十分くらい超過していた。
「……時間も来てますし、部活に行っても良いですか」
カウンセラーの微笑も貼りつけたみたいになっていて、作り笑顔なのがわかりやすすぎるくらいにまでなっている。大島先生の身体の揺れが止まる。
「行きゃあエエ。お前がそれでエエんなら先生は止めん。どうなっても知らん。それでエエんやな」
大島先生は口だけを動かす。まるで激痛に耐えているかのように、目の閉じ方がもっときつくなっている。
どうしてこの人はこんなに怒っていられるんだろうか。
私は静かに立ちあがる。おじさん二人は座りっぱなし。失礼します、と私は学生鞄を持って、一礼して出口に向かう。重いドアを引いて開けて出ようとしたところで、後ろからカウンセラーの落ちついた声が聞こえた。
「また今度も話そう。それで先生たちと一緒に、きちんと進むべき――」
「ありがとうございました」
振り返らずに言って、私は面談室を出てドアを閉める。
職員室の前の廊下を通って、中央階段で四階へ。そして階段を上がって左手の突き当りにある音楽室へと足早に向かう。開放廊下ではトランペットを運動場の方に吹く後輩がいる。中学校のある丘からは、白瀬町の古びた港が見渡せるし、海に向かってトランペットを練習している姿だけでそれなりにも見えてしまう。特にこんな晴れた夕方は。
けれど、せっかく基礎練しているんだし、それならメトロノームを使えと言いたくなる。一年だから知らなくても無理はない。小柄なその後輩は通り過ぎる私にぎこちなく小さな会釈をした。
音楽室に入ると、バチで机をたたいてリズムを刻むパーカッションの音が耳を突いた。鞄を入り口近くにおいた。荷物の類はここに置くことになっているのだが、大体が一年生のもので数はまばらだった。概ね鞄の装飾で誰のかはわかる。たぶん二年生がまだ来ていないんだろう。期末テストの成績配布が長引いているんだろうか。あの子たちはサボらない。私たちの学年とは違って。三年生で来ているのは、恐らく私と美果とあと二人だけの、合計四人だけ。こんな有様だから合奏も上手くいかない。
音楽室から続く音楽準備室に向かうと、美果と川本先生が二人だけ話しているところだった。先生は自分の机の前の回転椅子に座って、口をへの字に曲げてゆらゆらと身体を半回転させている。新任で去年来た若い先生ということもあるけど、こういうラフなところが川本先生の先生らしからぬところだと思う。先生というより「お姉さん」然としている。
「わ、真琴きたっ」先生の前でフルートを持って立っていた美果が驚いてこっちを見た。何となくしんみりした空気だし、私の期末テストの話でもしていたんだろうか。
「マコ、あんたどういうつもりなん」
詰問調の先生は上目で私の顔をうかがう。大島先生とは違って、怒ってるわけではなさそうだ。不思議がっている感じ。
「えー、先生のはだいたい満点だったじゃないですかぁ」
「四八点。満点取りなさい、吹奏楽部」
ぺし、と軽く腕をはたく先生。
「何でフォルテシモがピンなんですか、先生のケチ」五〇点満点とったつもりで二点落としたのはそこだった。私がffの記号をまさか間違えるわけもないのに、何故かフォルテシモと書いてピンされていたのだった。
川本先生は教卓の本棚から、三年生の音楽の教科書を抜き出して巻末のページを開ける。
「ほら、ここ見なさい」
指さした先にはff……「フォルティッシモ」と書かれている。
「教科書通りに書きなさいって前言ったじゃん。美果も理沙もきちんとフォルティッシモって書いてたのに、マコだけ違うとかどういうわけ?」
――納得いかない。美果のほうを見ると、こくんと首を縦に振っている。嘘じゃん、そんな理由だけでピンとか。
「先生、ケチ」
私は口を尖らせる。先生は、ケチとは何よ、と言いながら、してやったりと言わんばかりの不敵な笑顔を浮かべていた。私もピンのくだらなさが可笑しくて、つい悔しいのに笑ってしまう。
「で、さっき大島先生と美果にも聞いたんだけど」
そして、さっとその表情を消す。
「マコ、五教科全部五〇点ってホントなわけ」
私も笑みが消える。ええ、まあ、と曖昧な返答で首をかしげる。
「絶対わざとよね。この前までずっと学年トップ独走してたマコが急にバカになるとか、絶ッ対、ありえんから」
絶対、を強調しているあたり先生らしい。
「ごめん、先生。わざとやった」
期末テスト五教科合計二五〇点ぴったり。全教科五〇点になるように配点を計算して正解を書いていった。案外五〇点分だけをきっちり獲得するのは簡単だった。美術は実技試験があるから得点操作できないし、保健体育と技術家庭科はそこまで正確に操作できないけど、だいたい五割の得点に抑えた。思いがけない失点は音楽の四八点だけだった。完璧に満点取ったつもりだったのだけど、足もとをすくわれたみたいな気分だ。
「何でなん? このままだと成績、あのままでついちゃうよ? それで良いの?」
川本先生は本当に私のことを心配してくれている。私は少し寂しいような、哀しいような気分になった。
「良いんです。音楽だけは満点のつもりだったのに」
本音だ。川本先生の音楽だけは、そんな悪ふざけみたいなことをしたいと思わない。
「なあ、ウチ最近マコのこと心配なん。部活じゃいつも通りなのに、授業じゃ手もあげなくなったって聞いたしさ、それでテストこの結果でしょ。何かあったん?」
「何も……」
「何もないならこんなことしないでしょ。ウチにも言えんことなわけ?」
裏切られた、とでも言いたそうなキツい口調に変わる。思い切り胸を突かれたような気がした。何か、言わなきゃ。黙ってたらきっと先生に見離される。
「……美果から聞いたんじゃないんですか」
その場しのぎの解答。隣の美果に目で助けを求める。曖昧な笑顔で首を傾げられた。完全に良い子モードな時の対応だ。可愛らしく小首を傾げてスルーだなんて、できるなら私もやってみたい。
「逃げない。マコの口から聞いてない。このままだと部活に出させない。この前から何点下がってると思ってるわけ? 言わないなら部に来ちゃいけなくなるけど良い?」
川本先生は私の左手首を掴む。一瞬ひやりとした。三秒くらい睨み合って、私は観念する。この先生にしても目力がやけに強い。
「いい加減、テストで一位取り続けるのに飽きたんです。もう優等生やめたくなって」
左手首が解放される。
「は? 何それ、本当なの」
私は「はい」とだけ短く返す。美果からも同じことを聞いていたのかもしれないけれど、先生は手で前髪をかきあげて、天井を見上げ、ため息をついた。静かな空気が重い。美果も居心地が悪そうにしている。私の面談中から先生にいろいろと聞かれていたのかもしれない。私のことはどこまで打ち明けたんだろう。
「マコ無理してるなー、って何となく思ったけどさ……」
意外な言葉だった。そんな素振りを今まで見せた気はないのに、気づかれてたんだろうか。それとも気づいていたフリなのか。
「とりあえずもう成績ついちゃってるしさ。何でも良いからウチに相談すること。一人で抱え込まない、良いね?」
――ああ、心配してくれてるんだ、この人は。心から、人として。
「はい。全部落ち着いたら、相談させてください」
喉に圧迫感を感じて息苦しくなる。急に、泣きながら全部ぶちまけてしまいたいと思った。でもそれを呑み込む。余計に息苦しくなっていく。今度は右の手首を美果に掴まれた。うなずくことしかできない。それを横目で見た川本先生が、私と美果の手をそれぞれ握る。手をつなぎ合ってつくられた三角形。
「良い? あんたらニコイチってよくウチ言ってるけどさ、たまには先生も頼りなさい。支え合って共倒れ、とか笑えないから。いつでも話聞くから」
そうやって先生は私たちを交互に見据えて、最後にもう一度「良い?」と念を押した。私は先生の節くれだった手を握りかえした。
私はフルートと楽譜の入ったファイルと譜面台をいつもの棚から取り出して、美果と一緒に準備室を後にした。すると入れ違いに、麻由が私たちを横目でほんの少し見ながら、飛び跳ねるようにして準備室に飛び込んでいって、川本先生にまとわりついていった。陽子せんせー、って猫なで声を出しながら。あからさまに私たちを伺っていたと言わんばかりに。
「また……」
美果が小さく呟いた。不快感が込められた呟き。麻由が私に来なかっただけ、まだ良かったのかもしれない。まばらではあるけれど音楽室に人も増えてきた。
「おい、赤木」威圧的な大声。私としては麻由より苦手だ。薄ら笑いを浮かべた小野寺が準備室のドアのすぐ横に腕組みをして立っていた。
「お前、今回のテストで優子ちゃんに負けたんだってな。ハハ、ざまあないわぁ」
憎たらしい笑い方。小馬鹿にしているつもりなんだろうけど、まるで的外れなことに気が付いていないあたりが滑稽。私は一応振り向いてあげて「だから何」と微笑み返す。悔しがってほしかったのか、彼女は少し鼻白んだ様子だった。
「ま、精々次頑張りなー。どーせまた勝てないと思うけどさ」
私にはそう言って、今度は美果に矛先を向ける。
「美果もそんな趣味悪いのとべったりとかやめたら? 見ててキモイし」
そう言ってさっさと準備室のほうへ姿を消してしまう。あっけらかんと言いたいことだけ言って、何かにつけて難癖つけてくる。馬鹿丸出しだと思うけど、本人は自覚しているんだろうか。それにしたって私の成績不振の噂が広まるスピードは随分と速い。たかだか一回のテストの成績で、ここまでとやかく言われるのはむしろ滑稽に思えてくる。
「わー……凄いね、さやちゃん。さすが」
美果は小野寺の勢いに呆気に取られている風だった。ついていけない、と言わんばかりに。「あいつ関係無くね……」私は小声でそう言って、鼻で笑う。いつも皆に聞こえるように悪口を言いふらすものだから、言われている被害者たちよりも彼女のほうが白い目で見られているのだけど、まるで意に介さないらしい。
音楽室に並べられた座席の、向かって右端、前から二番目の列の机にに私たちは演奏道具一式を置く。すると今度は後輩が三人、せわしなく近寄ってくる。「先輩先輩、マコちゃん先輩っ」「やめなよ真白―」勢いの良い真白を菜々がたしなめている。いつものことで、この静止もすっかり形骸化している。そしてその二人に連れられて、薫がバツの悪そうな顔で私たちと真白の様子を交互に伺っている。
「あとそれから美果先輩もっ」
あと、とついでのような口ぶり。悪気はないのだろうけれど、美果も苦笑い。
「噂、本当なんですかっ!」
目を輝かせながら詰め寄ってくる。何だろう、この反応は。この子は私の一位転落を期待でもしていたのかとも思える。きっと考えすぎ、単なる好奇心のはず。
それにしても、情報って早い。それほどの大ニュースになっているのか。
「……まあ、うん。今回のテストはちょっと、ね」
どこまで知っているのか知らないけど、別に本当のことまで教える義理も無い。
「えええ! それマジですかぁー! マコちゃん先輩が学年トップを落としちゃうなんて、えええ!」
答えたら答えたで、更にハイテンションになって騒がしくなる。驚き方もオーバーだ。
「先輩、気、落とさないでくださいね!」言いながら私の肩をガシガシと叩いてくる。励ましているつもりらしい。私は半ば、反射的に身をかわしてその手を払う。
「うん、大丈夫大丈夫。あんまり気にしてないから」
「そうですよー! 次もありますから!」
私は内心、頭を抱えた。どうしてこんな失礼なことを笑顔で口に出せるのか不思議だ。しかも連続で。「先輩ガンバです!」
「真白、先輩に向かってそれ失礼」
もっと失礼なことを言う前に、菜々が止めに入る。ワントーン落とした時の菜々の声には、普段の可愛らしさからかけ離れた凄みのようなものをよく感じる。
「あ、失礼しましたっ」真白の攻勢が止まる。
「すいません、真白がズケズケと……」菜々は可愛らしく微笑みかけてくる。
「真白たちも練習しておいでー」
美果が大人しく、けれどきちんと告げた。
「はーい、ほら行くよ」菜々が真白の手を引いて音楽準備室のほうへ向かう。真白はまだ何事かを言いたげだったが、半ば強引に連れていかれた。
その一歩後ろ、無言で戸惑っている薫に、私は、いっておいで、と手で合図する。すると彼女は軽く一礼して、
「私、先輩のこと応援してますから……」
じっと私の目を見て言う。子犬のような瞳。すぐに目をそらして、真白たちの後を追っていった。薫は自分のできることを真面目に頑張って、ああやってグループのなかに入れてもらっているみたいに見えて、私は少し感慨にふける。口もきかない子だったのに、いつの間にか真白たちとも仲良くなっていることが不思議と嬉しい。
その分、彼女の期待と信頼を裏切っているような気がして、また私は少し苦しくなった。あの子は良い子な私しか知らないし、その私を信じ切ってしまっている。だからあんな心配そうに励ましてくれたのだ、たぶん、きっと。
「ねえ美果、今日はパート練にする?」
フルートの頭部管をケースから出す。薫と美果が合わせられる日はあまり多くもないことだし。
けれど、美果はうなずかなかった。
「向こう、行こ」
――あれ、機嫌悪い?
美果はさっさとフルートを組み立て、譜面台を立ててその上にファイルをのせる。さっきまでここで練習する気でいたはずなのに。
「あ、うん」私も美果にならって支度を整える。頭部管の音も出していないのが少し居心地を悪くする。
美果と私は音楽室の裏口から、普段あまり使わない北側の開放廊下へと出た。あまり陽射しがあたらないし風も通り抜けやすいから、こんな夏の日でも涼しい。吹奏楽部員以外が放課後、ここを通ることもないし、その部員の数も集まらないから、音の小さなフルートパートが練習するにはもってこいの場所だった。私たちはその廊下の突き当りをまがった先、海側と山側に挟まれた西端の、非常階段がある場所に向かった。廊下より少し開けているここは、まるで人気もないから、私たち二人にとってお気に入りの練習場所になっている。
「あの人たち、うるさすぎ」
さっきまでの大人しい美果はいなかった。譜面台を置くなり、美果はそう言った。
「てか何あの態度。ヒトのテスト、見世物か何かと勘違いしてるんと違う? さやかも真白もさぁ、あれ絶対広めるよ。音楽室なんかいたら練習にならないって。
真琴、やりすぎたんじゃない?」
小さいけれど早口の鋭い声が私の耳を刺す。
「まさかあそこまで言われるとは思ってなかったし。だってたかが一回のテストの成績が悪いだけで、呼び出しまで食らうんよ? ああいう特別扱いが私嫌いなの」
私じゃないなら、例えば小野寺がオール五〇点だったとしたら、そんな注目を浴びないはずだ。嫌がらせにしろ悪ふざけにしろ、今さら目くじらたてる人はいない。それに、
「一位陥落ってそんな面白いの……」
ざまあないわ、とか、マジですか、とか。スキャンダルでもあったみたいな反応がいちいち面倒くさい。
「そりゃあ面白いよ。あの人たち何も知らないんだから。ホント殺してやりたい。絶対良い悲鳴あげてくれる」
美果は一蹴する。フルートを片手に、非常階段の格子状の手すりに背を預ける。
「もうちょっと、ちょっとずつ点落としていけばまだマシだったのにさ……良いん?」
「何が?」
私はその向かいの、廊下の手すりにもたれかかって、フルートを右手に持ちながら腕組みをした。海風が背中のほうから吹き抜けてきて心地いい。
お互いに手すりに寄りかかって向き合う。
「だって五教科二五〇よね。平均以下なんて取ったらもう推薦もらえないんちゃう?」
「別に良い。私、東山とかうんざりだから」
「じゃあどこ行くんよ。窓谷高にでも来る?」
「そ、窓谷行く」
即答。エリート進学校より、私らしい地元の高校に行きたい。決められた「私らしさ」じゃなくて、私が決めた「私らしさ」で楽しみたい、たったそれだけの願い。
「マジ?」
美果が少し驚く。
「マジ」
「うわぁ……これ、また騒がれるよ。学校一の優等生が窓谷とか」
「勘違いしてるエリート連中に殺意抱いて勉強するとか、何のためにそんな地獄行望まなきゃなんないのよ」
たぶん、前例がない。私みたいな高偏差値の生徒がいること自体も、成績上位者がわざと底辺な窓谷高に進学することも。
「……憂鬱だわ、死ねる」
私はため息をついて、少し間をとった。話そうか、少しだけ迷ったからだった。
結局、私は言うことにした。
「高校でもな、美果とフルート吹きたいから。一緒に窓谷行こって思った」
「……マジで言ってる?」
いぶかし気に美果は眉をひそめる。
「そ。だって楽しいし」
私はなんてことない、って肩をすくめてみせた。こういうことを伝えるのは苦手で恥ずかしいけど、なるべく顔に出さないように努める。
「楽しい、かぁ……」
美果は少し、何かを考えるように俯いた。
もしかして、歓迎されてない?
「ほら、こんな話、美果以外にできるわけないしさ……」
言いながら頭のなかでそんな不安が、ひんやりと通り過ぎていく。そんなわけないはずだ、だって別に、この夏で一緒に吹くのは終わりなんて寂しいねってこの前も言ってたし。でも嘘だった? まさか。でも私は今はっきり言ってしまったし。「あれ、もしかして楽しくなかったりする?」何気なく聞いてみて、また不安がよぎる。何気ないにしてもストレート過ぎる。
「ううん、そうじゃないよ」
美果は目を丸くして小刻みに首を振る――良かった。ふぅ、とひとつ息を吐く。
美果は少し笑った。
「でも良いんかなって。そりゃ私だって楽しいし、一緒に吹けたら嬉しいけどさ」
「……けど?」
「……ホントに良いの? 大学とか行けないかもよ」
探るような言い方に聞こえた。
美果の心配はある意味当たっている。東山からなら東大だろうと早稲田だろうと、有名ドコにもだいたい行ける。けれど窓谷となるとそうはいかない。地方大学が関の山だ。それすら難しいことも。
「うん、ホントに良い。優等生のエリートなんかもうやってらんない。私は将来より今が楽しいほうが良いから」
今の時間の延長、たったそれだけなのかもしれない。
美果の目は丸いまんまだ。そんなに驚くことだろうか、とまた不安になる。
「そんなうまくいくわけなんか……ううん、何か、ありがとね」
呟き。目をそらして、私のほうを見ないままの。今さら、美果にも罪悪感があっただなんて思いたくも無いけど、これくらいなら良いのかもしれない。
顔を上げなおした美果は、笑顔で、跳ねるようにして、手すりから身体を離した。
「さ、練習しよっか! 時間無いし!」
唐突すぎて今度は私が面食らう。しかし今の美果は、ここに来た時の彼女とは違う美果だった。けれど、笑顔のウラにあの無表情が今も隠れているわけではないように、私には見えた。きっとこれは心からの笑顔。美果にしたって、あんまりこんな重たい話題ばかりに貴重な部活の時間を割きたくないんだろうし。今日みたいに顔を出せる日のほうが珍しい。
うん、それに私も美果と一緒に吹いていられる時間を大切にしたい。
「練習しますかぁ。まずは基礎練な、頭部管外して」
私の言葉に彼女は口をすぼめて不服そうにする。「パートリーダー私なんですけど」「押し付けてごめんね?」「何でこんな時だけ真琴仕切るんよ、もー」私たちはそう言いあいながら、笑いあった。美果もフルートの頭部管を外して唇に当てる。力強くてしっかりした、ぴったりとしてブレないAの音が伸びていった。私もその横に立って、目を閉じて頭部管に息を入れた。
帰った私は、無言の母に出迎えられた。メバルの煮つけを解体して、ゴーヤチャンプルを掻き込んで夕飯を済ませた後、お風呂に入って二階の自室に私が篭るまで、私たちは一度も言葉を交わさなかった。
そして、階段を上がってくる大きな足音で目を覚ました。「真琴!」怒号で一気に覚醒する。午前二時。
ベッドに寝そべったままの私を、父親が強引に引き上げる。痛い、と感じることもなかった。そのまま、したたかに壁に背をぶつける。背骨が軋んだ。
胸倉をつかまれる。ファストフードの匂い。脂ぎった空気。「ええ加減にせぇ!」頬に衝撃。一発、二発。「ちょっとお父さん……」その後ろから母の声。眠そうな、息の上がった訴え。「何をアホなことをしたんや!」すぐ側で喚かれる。三発目。
黙る。この人に言うことなんてない。「無視するなや! 何しでかしたかお前、わいに言うことあるやろうが!」そういえば最後に会話したのはお正月だっけ。「答えろ!」再び背中が壁にぶつけられた。弾みがついた後頭部も打ち付けられる。目を閉じる。
きっと殺されることはない。この人だって教員だ。中学生の扱いには慣れてるはず。「――テスト――受験――成績――」まくしたてるこの人の言葉から、そんな単語だけが浮き上がってくる。退屈。後は聞き取る気にもならない。眠たい、睡魔。
全部お前らのせいだ。
思い通りになんてさせてたまるか。いつか、いつか、いつか復讐してやる。
気が付けば明るい。私は部屋に一人きり、ベッドに寝転がっている。
朝の部活を終えて二階の三年B組の教室に向かって廊下を歩いていると、後ろから荒い足音が近寄ってきた。
「赤木、おはよう」
野太い声に身構える。大島先生の、それも相当機嫌の悪い時の挨拶だ。どうせ会うならホームルームの時に大勢のクラスメートと一緒に会いたかった。それなら一対一で言葉をかわすこともないのだし。
うんざり。たぶんまた怒鳴られる。
「大島先生、おはようございます」
私はくるりと半回転して、その場で立ち止まってお辞儀をする。呼び止められることはわかっていた。
「赤木、昨日のことはよぉ考えたんか」
先生は私の目の前で立ち止まった。仁王立ち。声色から雰囲気の悪さを感じたのだろう、先生の後ろをそそくさと女子生徒の一団が小走りに駆け抜けていく。
「……はい、考えました」
私は、毅然と立ち向かうことを心に決めていた。ここで怯むことなんてない。足の指に、ぐっ、と力を込めて私は先生の顔を真っ直ぐに見る。
「それで、どうするんなぁ」
私の態度が気に食わないのか、先生の声に混じった苛立ちが濃くなった。
「お父さんお母さんに言われて、ちょっとは考え直してみよう言う気になったか」
そんなわけあるはずがない。
「いえ、変わりません。あの点数が私の実力ですから」
「お前、まだそんなこと言うとんのか。エエ加減にせぇよ、なあ。先生らぁが一生懸命に頑張って教えて、テスト作ってきとるんに、お前があんな不真面目に受けてどうするんなぁ……」
廊下にあった、生徒のごく当たり前のざわめきがいつの間にか消えている。眩暈でもしそう。でも、それでも。「不真面目……?」
声を振り絞る。
「私はあれで良いんです。あれが私の答えです。今さら何を言われても変える気なんてありません……!」
この先生に面と向かって、こんな口答えをするのは初めてかもしれない。というより、他の誰もそんな口をきいたことを見たことが――。
「おめぇは自分の立場わかっとんのか!」
シンバルが耳元で炸裂したかのような大音響。たまらず私はそらして、先生の太い脚を見る。目を見るんじゃなかったのか。でも見えない。
「エエか赤木、おめぇは皆の目標なんじゃ、この白瀬中の代表でもあるんぞ。それがいきなりおらんなるようなことしてどうするんな、おめぇが皆の先頭に立って引っ張っていかにゃいけんじゃろうが!」
学校中に響く大声。
「俺ぁ情けねぇぞ、あ? みんななぁ、受験に向かって頑張ろういうて先生らぁ言うとろうが! おめぇがその先頭に立っとんたんに、それが逸れてどうすんなぁ! 東山行こう言うとった他のやつらが落ちたらおめぇの責任にもなるんで、おめぇならわかっとろうが!」
全部、全部、押し付けだ。勝手にこの人たちが決めた「私」の横暴。
「わかってますよ……。それ、私の決めた、ことじゃないことも……」
「ああ、もっぺん言うてみぃ……」
言う。引き下がるか。
「私は好きで、一位にいたんじゃ、ない。他の連中がどうなっても、そんなの私のせいじゃない。全部、押し付け……」
息が苦しい。途切れ途切れにしか訴えられない。
「ああ? 押し付け? だから逃げるんか。逃げてエエ思うとんのか! そんなおめぇやこ俺ぁ知らんぞ!」
「知るわけない、じゃないですかっ……」
「先生らぁに申し訳ねぇとは思わんのか! 皆おめぇに期待しとって声かけてきたんに、それを裏切ってエエはずなかろうが!」
ふざけんな。お前らのほうが私に謝れ。
「勝手に期待するなよ……」
「何つった今……? こっち見て言うてみい、俺の顔見てそれでも言えるんか!」
言ってやる。言って。そうじゃなきゃ意味がない。何回でも。
ふわん、と床が傾いた。
大島先生の咆哮が、ぐい、と近くなる。毛むくじゃらのごつい手が私の視界の左から伸びてきて、顎を無理矢理に引き上げようとした。私はそれを避けようとして、廊下の床に腰を打ち付けた。もう、身体の力がまるで入らない。呼吸が荒い。とと、ととと、心臓の早打ちが頭のなかに響き続ける。壁にもたれるしかなかった。冷静な私がそれを観察していた。冷静でいる以外ない。頭がずっと回転し続けて。
「大島先生!」
どこかから声が聞こえた。しゃがれた女の人の。寒川先生? たぶん。でもこんな大声聞いたことない。酷く焦った声。あの先生がそんな声を出せるの。
震えの止まらない身体に、優し気な手が触れた。私の両肩を抱きかかえるように。それからゆすられる。「マコ、しっかり」目の前には川本先生の顔があった。目が充血しているように見えた。
「落ち着いてください、大島先生。赤木さんこんなに怖がって……手まで出しちゃいけないでしょう」
「でもこいつぁ……」
寒川先生が大島先生を必死に止めているらしい。何事かと聞きつけて、何人か先生が止めに入ったような気配だった。たぶん、A組にいた寒川先生が呼んだんだろう。そういえばここはA組の目の前だ。
「いったん大島君も落ち着いて。B組の面倒はわしが見ますから、少し頭を冷やして」――教務主任の、馬場先生の声。大島先生とは違ってこの人の声の低さは落ち着く。この人がいるなら、大島先生もこれ以上激昂できないはず。「川本先生、赤木さんの様子は」「あ、はい。ちょっと立てそうにないのかも」「馬場先生、私、保険の先生呼んできましょうか。どこか打ったりしていたら」……大丈夫、身体の震えが止まらないだけで。
「大丈夫です、このままで」
もっと先生を呼ばれる前に、私は必至に声を出す。声まで震えている。悔しい。こんなに臆病でしかいられない私。
助かった。
毅然と立ち向かうつもりだった、なんて。結果はただ、座り込んで震えているだけ。そんなうまくいくわけないじゃない、そんな言葉が頭に浮かんできては、私は無視を決め込む。
「今は、これで、今は。これで良い……大丈夫……」
吐き気もする。大丈夫、と訴えるにはたぶん私はそう見えてなんかない。けれど口は大丈夫と言い続ける。どこかかけ離れた私が私の身体を操っていく。
「マコ、無理しない。大島先生もういないから。ウチがここにいるから」
川本先生は必死だ、きっと。そんなこと言って良いのだろうか、先生が先生を悪いように言うなんて。この人混乱しているから、あんな場面に遭遇して。
顔を上げた。大島先生は本当にいない。馬場先生、寒川先生、川本先生。心配そうな、そして戸惑っている先生の顔が三つ。私は川本先生の肩を貸してもらって、ようやく立ち上がる。脚の震えはおさまらないけれど。
「あれ、私の鞄……?」
どこにやったのかもあやふやだ。
「藤原さんがもっていってくれましたよ。少し休む?」
寒川先生が応える。「大丈夫です」私はB組の教室に向けて一歩。そっか、麻由が鞄運んでくれていたんだ。まるで気が付いていない。バカみたい、いつの間に。
「ご迷惑、おかけしました。失礼しました」
微笑はつくれなかったけれど、とにかくそう言う。3Bのドアは、それでも付き添ってくれる川本先生が開けてくれた。生徒たちの不思議そうな、怯えたような、好奇の、そんな視線が刺さってくる。私は構わず、ひとりで自分の座席に向かう。座ると一息。鞄は机の上に置かれていて、隣の席は空っぽ。美果は今日はまだいない。欠席だったら嫌だな。また今日来ないんだろうか。来させてくれないのか。
落ち着こう。
目を閉じて私は何度かため息をつく。昨日から怒られるばかり、くだらない。所詮私だけの成績、他人事なのに。
ホームルームは馬場先生が急遽取り仕切った。ちらちらと先生の視線が私にも飛んできているのがわかった。私はすっかり何事もなかったような顔をして、隣の席を気にしていた。あともう一人、斜め前から視線が何度か飛んできていた。麻由だった。
ホームルームが終わって、私が鞄の荷物を取り出して机のなかにしまっていると、やはり麻由がやってきた。
「マコちゃん、あれ先生どうしたん……?」
麻由は向かいにしゃがんで、腕と頭だけを机の上にのせる。「凄かったよね」私は肩をすくめる。
「凄かったって、自分のことじゃん。真琴大丈夫だったん? 背中とか埃だらけだし」
後ろから双葉もやってきて、私の背中を払う。遠慮なく、払うというか叩いているみたいに。双葉はそのまま、空いている美果の席に座って短い脚を組んだ。
「何か色々噂になってるよ、真琴」
双葉はそこかしこに情報網を持っている。B組、吹奏楽部、生徒会、美術同好会に職員室。だから噂を耳にするのも、スルーするのにも慣れている。けれど、今回ばかりは気になるらしい。
「期末、一位落としたって本当なん?」
「ホント」
「マジか!」
またその反応かよ。
「珍しいなー、てか初めてちゃうん?」
「あー、うん。初陥落」
平静を保つ。本当のことを言う気はない。
「それでさやかたち騒いでたわけか、うん、納得納得」
昨日の小野寺を思い出す。
「松沢一位だったんだってな、昨日めっちゃ言われたわ、当の小野寺から」
あのキンキン声が耳にこびりついているみたいで、少し私は顔をしかめる。
「あの後も言いふらしてたよ……ほんま、こういう話好きよねぇ」
麻由も散々聞かされたらしい。うんざりした口調。昨日来ていた吹奏楽の人たちには一通り知らされているのかもしれない。
「それなー。ウチも妹から聞いたし」
双葉まで呆れ返っているようだった。
けれど双葉の妹が知っているなんて、ちょっと聞き捨てならない。
「一年まで広まってるわけ?」
彩にまで言いふらしていたらしい。変な嫌味まで言われてなければ良いけれど。彩にはあまり悪い印象を持たれたくない。
今朝の部活のことを思い返してみる。彩はいつもと変わらない様子で、ちゃんとフルートのパート錬に来ていた。薫も。美果はいつもいないけど、あの二人だっていつもと変わったことは無かった。私のテストの話はついに出なかったのだけど、彼女たちなりの気配りだったのだろうか。
「学校中の大ニュース、ってなってるみたい。……で」
はぁ、とまた私はため息。
「で?」
聞き返すと、双葉がぐい、と身を乗り出してくる。目は真剣そのものに見える。
「何位だったん?」
「え、知らない」正直に答える。何位なのか興味もわかない。
「は? 真琴が知らない?」
双葉の声が少し裏返った。
「てか得点分布わかっただけじゃん。四五〇以上が松沢一人だからあいつが一位ってわかってるだけで」
言い返す。むしろ今、順位がわかるほうがおかしいはずなのだ。何点以上何点未満に何人、の得点分布だけ公表されただけで、当の順位は、本人が先生に聞きに行かないと教えてくれない。
「いや、ウチら集計してるから」
「……もうやったの?」
うげ、そうだった。
毎回、双葉たち上位組はだいたいの順位を割り出して競い合っているんだった、と今さら思い出す。上位組は、それこそ松沢以外だいたい仲が良い。
「うん。上位五人まで判明。たぶん六位が美果ちゃんのはずなんだけど」
「あー……」だいたい、ばれた気がしてくる。
「でもこの人、四〇〇とれないでしょ」
麻由がすかさずツッコむ。美果のことを小馬鹿にしているようで不愉快だけど一応スルー。まあ事実だし。
「そうなんよ、四〇〇以上がそもそも五人だから。今回少なすぎー、って寒川先生嘆いてたし、美果ちゃん三九七だったっぽい。三九〇台は三人いるから六位確定ってわけじゃないけどさ」
「え、双葉待って。もしかしてその上位五人にもマコちゃんいなかったわけ?」
至極真っ当な分析だった。私が成績一位を落とすだけなら、きっとまだ自然だったんだろう。でも美果にまで順位を抜かれるのなんて、私たちを良く知ってる二人にとってあまりに奇異にうつるに違いない。下剋上もここに極まる、なんて思われても仕方ない。
「うん、だからおかしいなーって」
「だからカンニングの噂もあったんだー……」
ふぇー、と麻由は独特の反応をしてそう呟く。
「は? カンニング?」
突拍子も無い言葉に、私は思わず口を挟んでしまう。どうもおかしな噂になっているようだった。でもそうなるとすると、上位組のなかにカンニング説を言い出した誰かがいることになる。呆れた連中。
「でも分布は四九人ぶん、全部あるわけなんよ。カンニングしたらそもそもカウントされないはずだから、そういうわけでもない。集計漏れ、ってわけでもない。……テスト返されてる雰囲気からして、何か真琴違うなーって私は思ってたんだけど」
私は双葉に両手を上げて見せた。降参。
「気づくよね、まぁ」
「うん」双葉は当たり前じゃん、と鼻で笑う。
「最近の真琴、変だし別に流してたんだけど」
「変って、双葉手厳しい」
いつもと様子が違うんだろうな、くらいには見られていると自覚はある。
「昨日、相談室から真琴出てきたとかいう話もあってさ」
「それはホント。みんな見てるなぁ」あっさり肯定してあげる。
「……何やらかしたん?」
「あははー、なんてことないさー」
笑って受け流す。学校中で見張られている気がしてきた。どこで誰が見ているか知れたものじゃない。
「そんなのだと噂だけ一人歩きしてっちゃうよ、さっきの怒鳴り声だってみんな聞こえてるんだから」
結局何も言わない私に対する警告。
「そうよなぁ……こんななるとか思ってなかったわー……」
「何したかわからないから、何も言えないけどさ」
「何」これ以上はごめんだ。
「あんまり無茶したら……。趣味もほどほどにしなよ」
――何? 今度は趣味の話? テストの成績と何の関係もないのに。いや、何も私が言わないからこそ、変な尾ひれがついて回るのか。でも、今回の成績を美果のせいにされるのなんて論外すぎる。
うんうん、と麻由が双葉に同調する。
「私ら友達だし、マコちゃんのこと心配なんだから」
聞こえだけは良い言葉。友達、だなんて。きっとこれは美果へのあてつけだ。勢い、麻由が続ける。
「変な趣味ばっかりじゃなくて、たまにはウチらとも話そう?」
私は麻由を睨みつける。
「変な趣味って」
「はっきり言うけど、真琴と美果ちゃんの趣味悪すぎ」
双葉までが私たちを否定してくる。美果には面と向かって言わないくせして、私には好き放題言えるらしい。私だってこの人たちに合わせてなんかいられないっていうのに。
「はあ? そんなの私らの勝手じゃない?」
反論。言葉が荒くなる。取り繕う気にもならない。
「だってマコちゃん、あの人とグロいことばっかり話してるじゃん。だんだんおかしくなってきてる……」
「麻由も前までグロ好きだったじゃん」そのはずだった。なのにいつの間にか、気味悪がるようになったのが、私たちの不思議だ。
「だから言ってるん」
だからって何よ。裏切者。
「落ち着けー。まあ、言い合いしても仕方ないし。ウチらはちゃんと真琴たち戻ってくるの待ってるぞー。変に反発してても首しめるだけだぞー」
双葉は冗談めかして、ヒートアップしそうな私たちを止めた。はぁ、と一呼吸。私だって喧嘩ばかりは嫌だ。
双葉の言うことが正論なのはわかっている。けれど。だからって私は自分の趣味がやめられるものだとも思えない。
でも、二人が心配してくれているのも確かだった。私は固くなった表情を崩した。
「マコちゃんもこっちおいで? な?」
私に、すがるように言う麻由。麻由のほうが私たちから出て行ったんじゃん、と、喉元まで言葉が出かかったけれど、それを呑み込んだ。
「……ありがと、二人とも」私は結局、美果のほうだけに踏み込めない。麻由と決別することもできない。
美果がいないときにしか、そんなことは思えそうにもないけど。
ぽん、と小さな手が私の肩にのせられる。
「ま、頑張れ」
にや、と、双葉らしい、少しキメたような笑みだった。「ん」私も同じように小さく首を縦に振った。