9.新たなる日々
カコーン、カコーンという音が、西宮に響く。
規則正しい音に、私は部屋の窓から双眼鏡を持ち外を見た。
窓から見下ろす位置に、彼はいた。
しなやかな筋肉のついた腕を晒し、薪を割っている。眼福だ。
「はあー、今日もガッシュさん素敵だなぁ」
私は双眼鏡で、薪を割るガッシュさんの姿を、じっくりと見ていた。変態と言うな。私は真剣だ。
ガッシュさんとガルドさんが、下男として西宮に滞在して、もう一週間が経った。
その間、ユリアネが宣言通りに本宮の侍女を帰し、本当に三人だけで西宮の仕事を始めたのには驚いたけれど。
でも、ユリアネ曰く。ガッシュさんとガルドさんは、文句一つ言わずに仕事をこなしているらしい。ありがたいことです。
そして、私はこの一週間。うきうきと、ガッシュさんに接触したり、ガッシュさんの姿を双眼鏡で観察したりしていた。もう一度言おう。私は本気だ。
日々、本気でガッシュさんを堪能しているのだ。
ふと、ガッシュさんが首に下げたタオルで汗を拭くのが見えた。そして、首を上へと巡らす。そう、私の方へと。
私は即座に双眼鏡を隠し、微笑みを貼り付けてガッシュさんに手を振る。
双眼鏡なしではガッシュさんの表情は分からないが、彼は私を見るとふいっと顔を逸らした。
まだまだ、心の距離があるようだ。
「まあ、気長にね」
出会って、まだ一週間。焦る時間じゃない。
ガッシュさんのそばに、黒いローブ姿のガルドさんが近づくのが見えた。割った薪を取りに来たのだろう。
ガッシュさんが上を──私の方を指差す。ガルドさんが振り向いた。
私は、ガッシュさんにしたようにガルドさんにも手を振った。ガルドさんは、振り返してくれる。
「……ガッシュさんも、これぐらい友好的だといいのに」
ガルドさんは優しい。この一週間で、私とはすっかり打ち解けられたと思う。遅々とした進みのガッシュさんとは、だいぶ違う。
でも、ガッシュさんとのそんな亀の歩み的な関係も良いと思えるのだから、私は重症だ。
「さて、ガッシュさん鑑賞はここまでかな」
ガルドさんにまで、私が見ていることに気づかれたのだ。これ以上は続行不可だ。
私は窓から離れた。
この一週間。恐れていた兄の襲来はなかった。てっきり、三日に一度は、難癖をつけにくるだろうと思っていたのに、拍子抜けだ。まあ、兄もそこまで暇ではないということか。
それとも、何か思惑があるのか。
兄の行動は、予測がつかないところがあって困る。
姉は、何か綺麗な宝石やドレスが手に入ったら、自慢しにくるというのが定番だ。実に分かりやすい。
それに比べ、兄は変則的だ。
特に用がない場合でも、会いに来る時は来るし。マーガレット先生のマナーレッスンで失敗したと聞けば、嘲笑いに来る時もある。かと思えば、自分の自慢話をしに来ただけという日もあったり。
兄は、よく分からない。
「はー……、平和が一番なのになぁ」
ベッドに腰掛け、私はため息を吐き出す。
そもそも私は争いごとが嫌いだ。
前世の私もそうだったようで、できるだけ人と争わないように生きていたと思う。
なのに、何故。今の私は、皆に嫌われてしまっているのだろう。悲しい現実だ。
幽閉される前の私はできるだけ、でしゃばらないようにしていたはずだ。
幽閉された後だって、反抗なんかしなかったのに。
唯一の我を通したのは、一週間前のガッシュさんとガルドさんの身柄を引き受けたいと、父に申し出たことだ。
それで兄に警戒されようと、私は後悔はない。私は、二人を助けたかったのだから。
争いごとは嫌いだ。だからといって、人命を疎かにするのはもっと嫌だ。
下心はあったけど、私は私の我を通して良かったと思う。
人の命は、大事だ。失ってからでは、遅い。
そう、遅いのだ。
「……お母さま」
静寂の満ちる部屋に、私の呟きが響く。
痛みが、胸を過ぎった。
私はふるふると、頭を振る。感傷から逃れる為に。
私が俯いていると、戸が叩かれた。
「姫さま、昼食をお持ちしました」
ユリアネだ。
私は目尻に浮かんだ涙を拭うと、扉に向かって声をかける。
「どうぞ、入ってください」
「失礼します」
ワゴンに湯気の立った器を載せ、ユリアネが入ってくる。
私はベッドから立ち上がると、テーブルの方へと向かう。
ユリアネはテキパキと、スープとパン、サラダをセッティングしていく。
「あ、今日のパンは胡桃なんですね!」
「はい、焼きたてですよ」
椅子に座り、用意されたおしぼりで手を拭うと、私は胡桃のパンを手に取る。
焼きたてのパンはふんわりと、優しく千切れる。
口に放り込めば、胡桃のコリコリとした感触が楽しい。
私は、さっきまでの鬱々とした気分が嘘のように、昼食を楽しむ。
「姫さまは、胡桃のパンがお好きですからね」
「いえ、私がというか……」
言いかけて、止まる。
そう、胡桃のパンは私も好きだ。
でも、好きになるきっかけがあったはずなのだ。
──胡桃のパンだ!
──……さまは、胡桃のパンが大好きですよね。
──ええ。フィリルも好きになってくれると、嬉しいわ。
ザザッ、と雑音混じりに、声が聞こえてくる。
胡桃のパンを好きだと、私に笑いかけたのは、誰だろう。
私は、その人が大好きだったと思う。
なのに、思い出せない。
私は、必死に記憶を手繰り寄せようとした。
「……いたっ!」
「姫さま!」
頭に鋭い痛みが走り、私はパンを持っていない左手で頭を押さえた。
ズキンズキンと、こめかみの辺りが脈打っている。
「いかがなさいました、姫さま」
ユリアネが、私の顔を覗き込んでくる。その目は、私の異変を見逃さないとばかりに、真剣だ。
私は痛みを堪え、ユリアネを見る。
「……ごめんなさい。ちょっと、頭痛がして」
私が正直に話すと、ユリアネは顔を曇らせた。
「またですか? 頻繁にあるようでしたら、医師に見てもらったほうが……」
「いえ、大丈夫です。もう、治まりましたから」
しばらくしたら、頭痛は嘘のように引いた。
だから、私は心配をかけないように微笑んでみせる。
けして医師の処方する、舌が痺れるほどに苦い薬が嫌だったわけじゃない。
本当に頭痛は消えたのだ。きれいさっぱりと。
「平気なのでしたら、良いのですが」
「はい。心配をかけてすみません。ユリアネ」
私は申し訳なくて、眉を下げて謝った。
ユリアネは、そんな私に微笑み返した。
「良いのですよ、姫さまが大丈夫なのでしたら」
「はい……」
ユリアネはたまに辛辣だけど、こうやって気にかけてくれる時は凄く優しい。
ちょっと調子が狂うのは、内緒だ。
私は照れ隠しと、本当にもう大丈夫なのだということを証明する為に、胡桃のパンを口に入れる。
「うん、美味しいです」
「それは、ようございました」
ユリアネは嬉しそうに笑った。
実は、私の食事を作ってくれているのはユリアネなのだ。
幽閉の身、専属の料理人などつけてもらえるはずもなく。
料理のできるユリアネが、食事関係の仕事までもやってくれるようになったのだ。もう、侍女の仕事を超越している。ユリアネ様々である。
今日のスープは、野菜がたっぷりと入っていて、とても美味しそうだ。
私は、スプーンで掬うとスープを口にした。甘い野菜の味が舌にとけていく。
「このスープ、とても美味しいです」
「良い野菜が手には入りましたので、腕の振るいがいがありました」
ユリアネの説明を聞きながら、私は次々とスープを平らげていく。
サラダもシャキシャキしており、ドレッシングも合っていて、舌が幸せである。
ユリアネが食後の紅茶を用意しながら、私に微笑みかけた。
どうしたんだろう、今日のユリアネは機嫌が良い気がする。
「ここ最近の姫さまは、食事をよく召し上がるので、嬉しいですわ」
「あ……」
ユリアネの上機嫌の理由が分かり、私は頬が熱くなるのを感じた。
そうなのだ。以前の私は、幽閉生活に精神的に疲弊していて、食欲がわかない日々を過ごしていた。
ユリアネが色々と工夫を凝らしてくれていたけれど、あまり食事が喉を通らず、食の細さでユリアネに心配をかけていた。
私も、ユリアネの為に食べようと努力していたけれど、精神的な問題では解決策が見つからず、結局は食事を残してしまっていた。
日本人としての記憶が、なんてもったいないことを! と、責めていたけれど。無理なものは、無理なのだ。罪悪感はハンパなかったけれど。
私は、パンの最後の一口を口に入れ、咀嚼した。これで、完食だ。
「……ユリアネの作る食事は、好きなんですよ。でも、どうしても食欲がわかなくて」
「姫さま……」
ユリアネが、労りの眼差しを向けてくる。それが嬉しくて、そして気恥ずかしい。
「たぶん、環境に変化があったからなんでしょうね。今はちゃんと、お腹が空くんです」
というか、十中八九ガッシュさん効果だ。
今までの娯楽は、従兄の観察ぐらいだったけれど。それは、遠目からしかできなかったし、お触り厳禁な関係だった。というか、会うことさえなかったし。一週間前が例外だったのだ。
でも、ガッシュさんは違う。
同じ西宮で暮らしているし、いつでも会える。もっと、親しくなれたら、接触だってできるかも。
最終的には、押し倒し……いやいや、逸るな私。まだ、その段階は早い。
とにかく、私の「性癖」的にも、現状満足しているのだ。
人間、満たされたら食欲もわいてくるのである。
「ガッシュとガルドの、お陰ですか」
「ええ、お二人には感謝しています」
私が素直な気持ちを言えば、ユリアネは面白くなさそうにしている。
ユリアネは、まだ二人のことを認めていないのだ。
「ユリアネ、ガッシュさんたちとはどうですか? 良い関係を築けてますか?」
「……まあ、可もなく不可もなくですね」
「そうですか……」
唯一の味方であるユリアネが、ガッシュさんたちを嫌っているのはあまり良い傾向ではない気がする。
まあ、ユリアネにしてみれば、いきなり現れた虜囚の腕輪をつけた人間なのだから、不信感は拭えないのかもしれない。
こちらも気長にやっていくしかないようだ。
「ユリアネ、二人をよろしくお願いしますね」
「……分かりました」
ユリアネはしぶしぶではあるけど、頷いてくれた。
ガッシュさんはともかく、ガルドさんは優しい人だ。いつかユリアネとも、仲良くできると思う。
ただ、問題なのは。警戒心の塊であるガッシュさんだ。
こちらは、私が頑張らないと!
私とガッシュさんが打ち解けられたら、ユリアネとも親しくしてくれるかもしれない。
うん、私頑張る!
テーブルの上をきれいに片づけているユリアネを見ながら、私は決意した。