15.姉襲来
城内で、悲鳴が上がった。
空が、どす黒く渦巻いている。
私は、そのなかを走る。
色の無くなった本宮は、無機質で、寒々しい印象があった。
私は、ただ走り、逃げ惑う人々を見ていた。
──約束しましょう。
そうだ、私は約束をしたのだ。
この崩壊を迎えた城内で、約束を。
──わたくしたちは、また一緒に……。
約束、したのだから。私は、大丈夫。大丈夫なんだ。
城内に哄笑が響く。
それはまるで、崩壊を早める序曲のようで、私はただ恐怖に身を震わせた。
目が覚めた。
爽やかな目覚めとは、程遠いものだった。
頭はズキズキと痛むし、胸の辺りがもやもやとしている。
何という夢を見てしまったんだ。
本宮が崩壊するなんて、不吉過ぎる。
これは、あれだ。幽閉生活により精神が疲弊していて、悪夢を見せたのだろう。
それにしても、妙にリアルな夢だったな。誰かに話したいぐらいだったけど、あまりにも不吉な為、話すのは断念した。
ベッドの上で身を起こし、私は息を吐いた。寝間着が汗で湿っている。悪夢を見たせいだろう。
ズキズキと痛む頭を押さえ、私は窓の板戸の隙間から漏れる光を見た。まだ、夜が明けて間もないようだ。
「まだ、明け方か……」
でも、もう一度寝直す気にはならない。
また悪夢を見そうで、怖いのだ。
ため息をつき、私はもそもそとシーツにくるまった。
あんな夢を見たせいか、今日の西宮はいつも以上に寒い気がする。
こんな時は、じっとしてやり過ごすのだ。
最初の頃は、西宮で過ごすのが怖かった。寒くて、暗くて、温かさがない。突然放り込まれて、私はただ震えるしかなかった。ユリアネが居なかったら、どうなっていたのだろう。
私は、この寂しい西宮で孤独に震えていたかもしれない。
「……考えたくも、ない」
シーツにくるまり、膝を抱える。
独りが怖い。体が芯から冷えていくようだ。
思考が暗く沈んでいく。
何もかもが嫌になってくる。冷たい西宮も、家族の誰に顧みられないこの身が辛い。
ぎゅっと口を引き結ぶ。弱音を吐きたくないのに、今口を開けたら何もかもをぶちまけてしまいそうだ。
目を瞑り、衝動を抑える。
その時──バサバサという鳥の羽ばたきを聞いた。
ふと目を開けて、板戸のはまった窓を見る。
何とはなしに、ベッドから抜け出した。
窓に近寄り、板戸を開く。夜明けの光が、私の目に飛び込んでくる。
目を細めて光をやり過ごし、私は眼下を見た。
「あ……」
私は思わず声を出した。
目に入ったのは、銀色に輝く髪。
眼下には、ガッシュさんが居たのだ。細長い棒を持って、素振りをしている。
ここからでは、顔までは見えないけれど、纏う雰囲気は真剣だ。
ガッシュさん、棒を剣に見立てているのだろうか。迷いのない動きで、棒を振り続けている。
……ガッシュさん、剣を扱えたんだ。
きっと、我が国に来た時に身につけていた剣は、取り上げられてしまったのだろう。
ガッシュさんの荒々しくも、流れるような動きにいつしか魅入られていく。
あんなにも冷えていた指先が、熱を帯びていくのが分かる。
ああ、そうだ。今の西宮にはガッシュさんが居るんだ。
私は、独りじゃない。
理解は熱となり、私の体を満たしていく。鬱屈した思いをも、洗い流していった。
ガッシュさんの存在が、私をすくい上げていく。
孤独に震えていた体が、今はある種の熱に支配されていた。
「ガッシュ、さん……」
熱に浮かされたように、名前を呼ぶ。
ここは、五階だ。届くはずがない。なのに──。
ガッシュさんは、顔を上げた。
私の方を、見たのだ。
「ガッシュさ……」
また名前を呟き、声が途切れる。
ガッシュさんが、棒を振るのを止めて挨拶するかのように私に片手を上げたのだ。
あの警戒心の塊のような、ガッシュさんが。
私に手を……。
瞬間、頬が熱くなった。それは瞬く間に全身にまで波及して、痛いぐらいだ。
恥ずかしくて、私は小さく手を振り返すので精一杯だ。
ガッシュさんは目がいいのか、それだけの動作でも分かったらしく、素振りに戻っていった。
「……びっくりした」
ずるずると床に座り込む。
冷たい床の感触が、今は有り難い。
熱く火照る頬を両手で包み、私はしばらく身動きができないでいるのだった。
悪夢も頭のなかから消え去り、ユリアネがくるまで私はただガッシュさんのことを考えていた。
朝食が終わり、私は食後の紅茶を飲んでいた。
いつも通りの朝のようで、普段とは違う光景に私は困惑していた。
テキパキと動くユリアネに、ガルドさんが追従しているのだ。
「ガルド。その食器は割れやすいので、気をつけて」
「はい、ユリアネ」
「姫さまは、食が細いので、あまり盛りすぎないように」
「分かりました」
どうやらユリアネは、ガルドさんに給仕の仕方を教えているようだ。
それだけガルドさんが、ユリアネの信頼を得たということになる。珍しいことだ。
ガッシュさんは、まあ……あれだ。手先の器用さを要求される作業は苦手だから……。
今日もフードを被ったガルドさんは、素直にユリアネの言うことを聞いている。
「では、ガルド。そろそろ片づけを終えて……」
ユリアネがそう言った時、何の前触れもなく扉が開かれた。
この場に居ないのはガッシュさんだけど、彼はこんな無作法なことはしない。きちんとノックをして、入室の許可を取ってくれる。
ならば、扉を開けたのは誰かと言うと……。
「あーら、ちょっと早く来すぎたみたいね」
豪奢なドレスを捌きながら、扇子で顔を隠した姉が入ってくる。因みに、本日の予定に姉の来訪は入っていない。
「お姉さま……」
先触れもない突然の来訪に、非難を込めて言っても、私を軽んじている姉はどこ吹く風だ。
ふんっと鼻を鳴らす。行儀が悪いですよ……。
「わたくしが何をしようと、それはわたくしの勝手。あんたに非難される謂われはなくってよ」
「……」
駄目だ。姉には、私に関してだけは常識が通用しない。父に溺愛されているから、高飛車で我が儘に育ってしまっているし。
私はちらりと、ユリアネたちを見た。
ユリアネは頭を下げた状態で待機しているけれど、ガルドさんは姉の私に対する態度に困惑しているようだ。
私はため息が出るのをぐっと我慢して、姉を見た。そして気付く。姉の後ろに従兄が従うように、控えていることに。
姉め、従兄を護衛に選んだのは完全に私への嫌がらせだろう。
今でこそ私と従兄の仲は冷え切っているが、姉のなかでは仲のそれなりに良かった幼い私たちの関係性のままなのだ。
その従兄を従えている姿を見せつけることで、姉は私の無力さを痛感させたいのだろう。
相変わらず、趣味の悪いことで。
「……お姉さま、何かご用でしょうか」
仕方なく、私は席から立ち上がり、姉に話しかける。
格下と思っている私が座ったまま対応すれば、姉がへそを曲げるのは目に見えている。面倒なことだ。
姉は扇子の向こうで、目を細めた。
「それほど、大した用でもないのだけど……」
「でしたら、わざわざこちらに出向かなくとも、書簡で伝えても……」
「うるさくてよ、わたくしに指図しないでちょうだい」
姉は不快感も露わに、私の言葉を遮った。
そして、苛立ちを見せて、室内に視線を動かす。
すっかり姉は機嫌を損ねてしまったようだ。気分屋な姉への対応は、私には難しい。
「……そこのお前」
眉を寄せた姉が、ガルドさんに目を留めた。まずい!
ガルドさんは、顔が見えないように俯きかげんに、姉に顔を向ける。
「私のことでしょうか」
「ええ、そうよ。お前、顔を見せなさい。王族を前にして、顔を見せないとは不敬よ」
「……申し訳ございません。私は顔に火傷があり、とても見せられたものではありません。気分を害されることでしょう」
「まあ……!」
自分の要求が通らなかったことに、姉の機嫌は急降下していくのが分かった。
「わたくしが見せよと言っているのです! 見せなさい!」
パチンと、乱暴に扇子を閉じる姉。
ガルドさんが、私を見るのが分かった。
そうだ、私はガルドさんを保護した身。ガルドさんを助けるのは、私の役目だ。
「お姉さま」
「なんです、フィリル」
私はできるだけ、穏やかな笑顔を浮かべるよう努めた。
「下男のことよりも、もっと楽しい話をしましょう。珍しい茶葉が手には入りましたの。お姉さま、いかがですか?」
「……あんた程度が手には入る茶葉なら、わたくしにも入手できるわ。いらない」
姉は私を侮蔑しきった顔で見ているが、怯んでいる場合じゃない。
私は、心の底から残念だと表情に出し、眉を下げる。
「まあ、残念です。マーガレット先生が一番気に入っている茶葉だとお聞きしましたから、お姉さまにもどうかと思ったのですが……」
「まあ、マーガレットが!」
姉のお気に入りのマーガレット先生の名前に、姉は興味をガルドさんから話題の茶葉に移したようだ。
「ええ、美容にも良いと仰っていました」
「……そう。そうね、そこまで言うのならもらっても良いわ」
「お姉さま、ありがとうございます。ユリアネ、お姉さまにお包みして」
「分かりました、姫さま。すぐにお持ちします」
私の意を汲んでくれたユリアネが朝食のワゴンを押し、さりげなくガルドさんに退室を促してくれた。
二人は姉にお辞儀をすると、部屋を出て行く。……とりあえず、ガルドさんは何とかなった。
「さあ、お姉さま。立ち話もなんですし、お座りになって」
私は姉に椅子を進めた。
だけど、姉は不快そうに眉をしかめた。
「そんな粗末な椅子に座るぐらいなら、立っているほうがましよ」
「そうですか……」
姉らしい言い分に、私はそっと小さく息を吐く。
「あの、お姉さま。それで、わたくしへの用事とは?」
室内の居心地の悪さに、私は早口で言葉を紡いだ。
姉の態度はもちろんのこと、姉に従っている従兄は無言で何とも言えない空気が満ちていたのだ。
姉は、扇子を再び開くと、今思い出したと言わんばかりに、目を細めた。
「フィリル。もうすぐ、わたくしの誕生日だというのは分かっているわよね」
「もちろんです、お姉さま」
嘘だ。本当はすっかり忘れていた。だけど、姉の機嫌を損ねない為に、私は笑顔で嘘をついた。
「そう。それで、お父さまがわたくしの為にパーティーを開いてくださると言うの」
……父に愛されているという自慢だろうか。私がそんな穿った見方をしていると、姉は扇子の向こうでさらに目を細めた。
「光栄に思いなさい、フィリル」
「え……?」
姉の言葉の意味が分からず、聞き返した私に、機嫌がいいのか姉は気にした様子もなく続けた。
「わたくしの誕生日パーティーに、あんたを招待してあげる」
私は、目を見開いた。




