14.それは、まどろみのような
私は今日も、双眼鏡片手に観察中だ。
午前中までは、ベッドの上の住人だったけれども。その理由については、ガッシュさんたちには内緒だ。私は表向きには風邪で寝込んでいることになっている。
何故そうしたかと言うと、私が寝込む原因になったのは、ガッシュさんの生産した炭……クッキーを食べたことにあるからだ。
そう、食べたのだ。私とユリアネは。頑張ったのだ。
フィリル、十五歳。やり遂げました!
ガルドさんのクッキーは申し分なかったけれど、ガッシュさんのクッキーは程よく焦げていた。炭は言い過ぎたかもしれない。訂正。
ガルドさんは、初めて自分の手で作ったというクッキーにはしゃいでいて、私とユリアネに勧めてきた。……ガッシュさんの作った分も。
ガルドさんに悪意があったわけではない。悪意があったのなら、ユリアネが気づく。ユリアネが受け入れたのは、ガルドさんが善意の塊だったからだろう。
ガッシュさんは、自分の作ったクッキーに対して、客観的に見ることができていたのだろう。私たちが、クッキーを食べることを止めようとしていた。
しかし、場の空気がそれを許さなかった。
ガルドさんの幼子のように期待した、フードの向こうから感じる眼差し。
それを無碍にできる強者は、居なかったのである。
こうして、クッキーは私たちの胃袋に流し込まれたのだ。
胃薬用意してくれたユリアネ、最高の仕事をしてくれたものだ。
だけど、幽閉生活で心身ともに弱っていた私の胃は、脆弱だった。あっさりお腹を壊したのである。胃薬、意味なかった……。
それで、寝込んでいたわけなのだ。
ユリアネ? ユリアネなら、朝から元気に仕事している。体の基礎が、幽閉生活で脆弱化した私とは違うのだろう。
そうして、体調が戻った私は、ガッシュさんを観察しているわけだ。
私の部屋の眼下では、ガッシュさんとガルドさんがシーツを洗濯してくれている。
石鹸の泡が、ふわふわと上がっているのが見えた。
力のあるガッシュさんがシーツをたらいで洗い、ガルドさんがシーツを干しているようだ。仲が良いようで、羨ましい。
ガッシュさんが自然な笑顔を、ガルドさんに向けている。貴重なシーンだ。
「……なんて、羨ましい」
ガッシュさんのあんな笑顔、私に向けられたことない。
確かに、時間はいくらでも掛けていいとは思っている。思っているけれど、実際にあんな笑顔を見せられたら、妬ましく思ってしまうのは仕方ない。
ガルドさんは、良い人だけども。しかし、ガッシュさんの好感度の差が悲しい。
「……いいもん。頑張るから」
ぽつり呟く。
室内には私しかいない。呟き放題だ。
双眼鏡の向こうでは、ガッシュさんが何か冗談を言ったのか、ガルドさんが肩を震わせている。本当に、仲が良いのだ。
……良かった。
私は、妬む心を抑え込み、そう思った。
二人は、不幸にも異国の地にて拘束され、酷い目に遭わされた。
私が助けることができたと言っても、下男にされてしまったのだ。二人にしてみれば、不本意なことだろう。仕事もキツい内容だと思う。
何せ、西宮の仕事を三人で回しているのだから。
そんな重労働のなかでも、二人は笑っている。
笑っていてくれて、いるのだ。
不安定な立場に据えることしかできなかった自分の無力さが、許された気がした。
私は、二人の笑顔を守ることができたような気がして、安堵したのだ。
兄の理不尽さから、二人を守ったのだと実感できた。
私は双眼鏡を、下ろした。
「私にだって、やれることはあるんだ……」
理由も聞かされず、幽閉されて二年余り。父や重臣の誰も庇ってはくれなかった、無力な私。そんな私でも、人を守ることができたという事実が、心の力になる。
私はきゅっと、口を引き結んだ。
私だって、やれる。
頑張れるんだ。
双眼鏡を外し、遠くに見える二人の笑顔を、私は胸に刻んだ。
私は椅子に座り、姿勢を正していた。
ちょっと緊張もしている。
またまたガッシュさんが、私の為にお茶を淹れてくれているのだ。しかも二人きり!
ユリアネが気を利かせたのだ。
素晴らしいことだ。素晴らしいことだけど、二人きりは緊張する。
カチャカチャという、ガッシュさんの慣れない様子での茶器を扱う音が静かな部屋に響く。
ガッシュさん、こういう細かい作業、本当に苦手なんだなぁ。
「あの、ガッシュさま。大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
そう答えながらも、ガッシュさんは真剣な様子で、目の前の茶器に集中している。
ああ、見ていて危なっかしい。
こうなったら私が……と思ったけど。王女歴十五年にあぐらをかいていた私では、よけいに足手まといになるだけだった。
私は情けない思いを隠しながら、ガッシュさんの手つきを見守るのに専念する。
「……熱っ」
「ガッシュさま!」
「姫さん、心配すんな。ちょっと、お湯が指に跳ねただけだから」
「そ、そうですか……」
火傷とか、していませんように……!
私はハラハラしながら、ガッシュさんの手元を見る。
ユリアネならば流れるような動きを見せるけれど、ガッシュさんのは動きが停滞している。
うう、ユリアネ。気を利かせてくれるのは良いのだけど、ガッシュさんにちゃんと手順とか教えてから送り出してほしかった。
ガッシュさんの真剣な表情を見られたのは、僥倖だけれど。
それからしばらくして、ガッシュさんは四苦八苦しながらもお茶を淹れてくれた。
目の前に、カップが置かれる。
「ありがとうございます、ガッシュさま」
お礼を言って、カップに口を付け、一口飲む。こ、これは……。
「……どうだ、姫さん」
窺うように聞いてくるガッシュさんに、私は微笑みを作った。
「美味しいです、ガッシュさま」
本当のところは、お茶は淹れるのに時間がかかって冷めていたし、味はとても苦かった。でも、重要なのはそこではないのだ。
「……嘘だな。淹れた俺自身だから分かる。冷たいだろうし、味も飲めたもんじゃねえだろ?」
「ガッシュさま……」
「姫さんは、前回も酷い味のお茶を美味しいと言って飲んでいた。気を使ってくれたんだよな」
ガッシュさんは、肩を落としてそう言った。
だから、私は「いいえ」と言って、首を横に振る。
「ガッシュさま。わたくしは、本当に美味しいと思っています」
「姫さん」
「誰かが、わたくしの為に、お茶を淹れてくれる。こんなにも嬉しいことはありません。ガッシュさまは、真剣そのものでしたでしょう? なら、美味しいのは当たり前です」
私が、またお茶を飲むと、ガッシュさんは眉を下げた。
「姫さん、あんたって人は……」
ガッシュさんはそう言って黙り込んでしまった。
私は、本当のことを言っただけだ。
ガッシュさんは、私の為に──ここ重要──必死でお茶を淹れてくれた。真剣に、私の為に! お茶を用意してくれているガッシュさんの表情は良かった。最高だった。
あれだけで、ご飯が三杯はいける。この国に、残念ながらお米はないけれど。
だから、私は満足なのだ。本音を隠しているだけで、言ったことは本心だ。嘘は言っていない。
ガッシュさんは、黙ったまま、私を見た。真剣な表情だ。
「姫さん……」
と、呟くと、私から顔を逸らした。
警戒心の強いガッシュさんのことだ。
私を信用すべきなのか、それとも今まで通りに敵の身内として見るべきなのか悩んでいるのだろう。
ガルドさんという守るべき存在がいるからこそ、慎重にもなる。仕方ないことなのだ。
私はそう理解した上で、ガッシュさんの言葉を待つ。
「……その」
ガッシュさんは、ぽつりと呟いた。
私は、ゆったりと微笑んで待つ。急かしたら、駄目だ。
「こ、今度は……もっと、上手くやる」
ようやく絞り出された言葉はそれで、ガッシュさんが自分の淹れたお茶に不満を持っているのがありありと見えた。
聞きようによっては私への好感度が、全く上がっていないようにも感じられる。
だけど、微かに赤く染められた頬や、逸らされたままの視線が頑ななようで、私を意識しているのだと言うように彷徨わせている様子に、私は満足感を覚える。
だから、私は嬉しさの滲む笑顔でガッシュさんを見れた。
「楽しみにしていますね」
「あ、ああ……」
ガッシュさんが微かに息を吐く。
最初の頃、私が緊張していたのに、今はガッシュさんが緊張しているみたいだ。それは、私を意識しているからだろうか。そうだったら、なんという幸せなことだろう。
ガッシュさんが、ガルドさんに向けていた笑顔を思い出す。
あんな輝くような笑顔を、私にも見せてくれたらいい。
もっともっと、私を意識して、好意を見せてほしい。
私は、貪欲なまでにそう思った。
私の思惑など知らないガッシュさんは、ポットと茶葉を片付けながら口を開いた。
「姫さん、あれからもう頭痛はないのか?」
「え、はい。今のところは何も」
「そうか」
ガッシュさんには、頭痛で苦しんでいるところを見られている。
心配してくれていたのだろう。優しい人だな。
「また、酷い頭痛があったら、俺を呼んでくれ」
そう言って、ガッシュさんは私を見た。
「ガッシュさま……」
前にもそう言ってくれた。
私は、彼にとって警戒すべき人物の身内でもあるのに。それでも、身を案じてくれるのだ。
私にとって、そういう感情を向けてくれるのはユリアネしかいなかった。
私は今、大丈夫だろうか。目はゆらゆらと揺れていない? カップを持つ手は震えていない?
私は、こみ上げる感情を何とか抑えて、微笑みを作る。
「……心配してくれる誰かが居るのは、本当に幸せなことですね」
「姫さん……」
否定されるかと思った。私のことなど心配していないと。だけど、ガッシュさんは息を呑んで、ただ私を見つめていた。
無音が辺りを包む。
だけど、それは言葉を急かされるようなものではなくて。
私の心に、ひっそりと染み込んでいくような静寂だった。
ガッシュさんの優しさが、私にゆったりとした時間を作ってくれているのだろう。
それは、私の境遇を同情してのものかもしれない。
だけど、今はそれでいいのだと思える。
私は、すっかり冷えたお茶を飲み、部屋から見える窓の外を見つめた。
そこには青い空と、自由に羽ばたく鳥たちがいる。
ガッシュさんの視線を感じながら、私は外を見つめ続けた。
穏やかな時間は、まるで夢のなかにいるようで、現実を忘れさせてくれた。
こんな時間が、もっと続けばいい。
そう思った。




