10.夢
幼い私がいた。
ふわふわのフリルのドレスを着て、くるくると回っている。
場所は、本宮の中庭だ。
庭師が管理していて、季節の花々がいつも満開になっていた。
その花々を見るのが、私は好きだった。
『フィリル、あまりはしゃぐと転ぶわよ』
誰かの声がした。優しい声だ。
私は声の主を見た。
逆光になっていて、顔は見えない。
だけど、幼い私はその人が大好きだった。
『転びませんよー』
そう言って、中庭のベンチに座るその人の隣へと走る。
ぴょんっとベンチに座り、幼い私はその人にもたれかかる。
『……さま、大好き!』
『ふふ、私もフィリルが大好きよ』
夢のなか、私は幸せいっぱいで、笑顔に溢れている。
ずっと、そんな日々が続くのだと思っていた。
世界は、幸せでできているのだと。
私は疑っていなかったのだ。
鋭い頭の痛みで、目が覚めた。
ズキズキと、こめかみが痛む。
「……痛い」
ベッドの上で、私はうずくまる。
最近、頻繁に頭痛に襲われているのは気のせいだろうか。
何かの病気だったら、どうしたらいいのだろう。
一度、ユリアネが言ったように、医師に見てもらった方が良いのかもしれない。苦い薬は、嫌だけど。
「……あれ?」
頬に違和感を覚え、私は手でそっと触れる。頬は濡れていた。
それどころか、目から涙が溢れていたのだ。
「え、え……?」
わけが分からない。私は、寝ながら泣いていたのだ。それほど、頭痛が酷かったのだろうか。
……違う。
そうだ、私は夢を見ていた。優しい夢を。誰かに甘えている夢だったと思う。
ズキン、また頭が痛み出した。
でも、私は考えるのを止めない。
「お母さまの、夢……?」
そうだ。私が素直に甘えられた相手といえば、母しかいない。
私が十二歳の時に、儚くなってしまった優しい母。
母が亡くなって、しばらくしてから私は兄により幽閉されてしまったのだ。
最愛の王妃を亡くし、父も変わってしまったように思える。
「……つっ!」
また頭痛だ。
今はあまり考え事をしない方が良いのかもしれない。
私は窓を見た。板戸の隙間から差す光は弱い。外は、まだ薄暗い時間帯なのだ。
ユリアネも、まだ起きてはいないだろう。
私はぼうっとしたまま、窓をしばらく見ていたけれど。唐突に、喉の渇きに気が付いた。
ちらりと、そばにある呼び鈴を見る。
呼び鈴を鳴らせば、ユリアネは来てくれるだろう。だけど、こんな早朝にユリアネを起こすのは、気が引けた。
炊事場は、一階にある。庭にある井戸から水を運ぶのに、一階にあった方が楽だからだ。
そして、私の部屋は最上階である五階にある。
毎食どうやって一階から五階まで上げているのかというと、エレベーターのような機械があるのだ。大型の魔道具である。
魔道具とは、魔術回路を組み込んだ道具らしい。
魔術と言いながらも、この世界に魔法はない。
ただ、神々の加護はある。そう、今の世界は神の存在が身近なのだ。
空の向こうに、神々が住まう場所があるという。
魔道具を作る人たちは、そんな神々の加護を得て作成している、らしい。
私は神を見たことがないからピンとこないけど、世界中の人々はそれはもう篤く信仰しているのだ。
あの兄ですら、海軍を動かす時は海の神に祈るのだから。
……話が逸れた。
私は今、喉が渇いている。
つまり一階に降りなくては、ならない。
さっき述べたエレベーターもどきは、音が響くので使えない。つまり、歩きで一階まで降りることになる。
私はため息をつき、ベッドから降りた。
西宮の早朝は、まだ薄暗い。魔光灯が光を失う時間帯でもあるので、よりいっそう暗いのだ。
「うう……怖い」
壁に寄り添いながら、私は震えの止まらない体を動かす。
何故こうも西宮は、寒々しいのだろうか。
何か出そうで、本当に怖い。でも、喉渇いた。
頑張れ、私。負けるな、私。
一階まで、あと半分だ。
私は、意を決して一歩を踏み出す。
しかし──。
バサバサ!
「……きゃっ!」
ちょうど窓の近くにいた為、鳥の羽ばたきが思いの外、耳の近くに聞こえ私は小さく悲鳴を上げた。
というか、きゃっ! て、なんだ。きゃっ! て。
我ながら乙女な悲鳴に恥ずかしくなる。頬が熱い。良かった、誰もいない時間帯で……。
「……何してるんだ」
「え……!」
背後から声をかけられ、私は心底驚いた。
今は、空も薄暗い早朝で、まだ誰も起きてはいないはずなのに。でも、声が、した。
それは、いったい、何の……声?
「おい」
ポンと、肩を叩かれた。
「ひ……!」
私は声にならない悲鳴を上げる。恐怖から、足は震え力が入らない。足がもつれた。
そう、西宮の螺旋階段の途中、一歩を踏み出した状態で、私はバランスを崩してしまったのだ。
「あ……!」
落ちる……!
落下の恐怖に、私は目を閉じる。
「な……っ」
誰かの驚く声。と、同時に力強い手に腕を掴まれた。ぐいっと引き上げられる。
気づけば、私は誰かの腕のなかにすっぽりと収まっていた。
「え、え……っ」
混乱は増すばかりだ。
私は確か、階段から落ちようとしていて。それで、幽霊の声が、違う、西宮に幽霊はいない。いないったら、いないのだ。
だったら、私を助けてくれたのは誰なんだろう。
「……姫さん、大丈夫か?」
「あ……」
何とか混乱が過ぎれば、残るのは体の震えだ。落下するかもしれない恐怖が残っているのだ。
震える体を叱咤して、顔を見上げれば鮮やかな赤色の目が見えた。
「ガッシュさま……?」
「ああ、俺だ。姫さん、体に怪我とかないか?」
なんと、私を助けてくれたのはガッシュさんだったのだ。
ガッシュさんにしてみれば、助ける為の不可抗力だったのだろうけど。力強い腕に包まれて、私は幸せだ。震えも消えてしまった。
「あ、あの。ありがとう、ございます」
「いや……、姫さんが無事で良かった。俺が不用意に声をかけたせいで、落ちそうになったんだろし」
ガッシュさんは私から目を逸らしながら言った。
そうか。あの声はガッシュさんだったんだ。私ったら、勝手に勘違いして迷惑をかけてしまった。
「すみません、ガッシュさま。わたくしの不注意でした」
「いや……」
ガッシュさんは、そっと私から体を離す。温もりが消えて、私は非常に残念な気持ちになった。
「……姫さんは、こんな時間から起きてのか?」
「あ、その。喉が渇いてしまって……」
だから、炊事場に向かう途中だったのだと説明した。
「ユリアネのやつに、頼めばいいじゃないのか」
ガッシュさんのもっともな言葉に、私は顔を俯かせる。
「こんな朝早くに起こすのは、忍びなくて……」
「昇降機を使えばいいだろう」
昇降機とは、エレベーターもどきのことである。
「音が大きいので、皆さまを起こしてしまいますし……」
「それで、王女自ら炊事場に向かったと」
「はい……」
何だか、だんだん恥ずかしくなってきて、私の顔は下を向くばかりである。
「あんたって、人は……」
ガッシュさんの呆れた声が、居たたまれない。
色々と恥ずかしくて、俯く私の視界にガッシュさんの手が伸びてくるのが見えた。
私は顔を上げる。ガッシュさんが、気まずそうな顔をしているのが見えた。
「……炊事場まで、あんたを連れて行ってやるよ」
「ガッシュさま……!」
「姫さん一人じゃ、危なっかしいからな」
驚いた。あの警戒心の塊のようなガッシュさんが、私と手を繋いでくれるという。
私が階段を落ち掛けたのが原因なのだろうけれど、素直に嬉しいと思う。
「ありがとうございます」
私は微笑んで、ガッシュさんの手を取った。
ガッシュさんの手は、とても大きくて、そして温かい。私の体に温もりが伝わってくるようだ。
気恥ずかしさを押し隠し、ガッシュさんに導かれるまま私は階段を降りた。
炊事場に着くと、ガッシュさんはかまどに薪を入れ、火をかけた。
「姫さんは、そこに座ってくれ」
「あ、はい」
示されたのは、炊事場にある四角いテーブルの下にある椅子だった。言われた通りに、私は椅子に座る。
ガッシュさんは、ぐつぐつとかまどで何かを煮ているようだった。何をしているのだろう。
しばらく無音が続く。
手持ち無沙汰の私は、とりあえずガッシュさんを不躾にならない程度に観察した。
はー……やっぱり、ガッシュさんの筋肉はいいなぁ。しなやかで、とてもいい。
「……よし、できた」
私が不埒なことを考えている間に、ガッシュさんは何かを完成させたらしい。
鍋の蓋を取ると、柄杓でなかのものを掬い、カップに注ぐ。ほかほかと湯気の立つカップを、私に差し出す。
「牛の乳を温めたもんだ。体が温まる」
「ありがとうございます」
私は、ガッシュさんからカップを受け取った。
カップのなかでは、なめらかな白い液体が、ゆらゆらと揺れている。
そうか、ガッシュさんはわざわざ私の為に、ホットミルクを作ってくれたんだ。
私はミルクに口を付けた。暖かな感触が喉を通り、体へと染み込んでいく。
私は、ほうと息を吐いた。
「とても美味しいです、ガッシュさま」
「それは、良かった」
ガッシュさんは、自分の分のカップを傾けた。
もしかしたら、ガッシュさんも喉が渇いて、こんな時間に目を覚ましたのかもしれない。
私の分のホットミルクはついでに作ったのかもだけど、それでも気にかけてもらえたのが嬉しかった。
「……今の、生活は辛いか?」
ふと、投げかけられた言葉に、私はカップから顔を上げる。
ガッシュさんは苦笑を浮かべていた。
「辛くないわけないか。幽閉されてんだから」
「ガッシュさま……」
ガッシュさんの言葉に、私はどう答えればいいのか分からなかった。
今の生活が辛いと認めてしまったら、よけいに苦しくなる気がする。
迷う私に、ガッシュさんが真剣な眼差しを向けてくる。
珍しいことだ。いつもは、視線を逸らしてばかりいるのに。
「姫さん、目が赤い。……泣いたんだろ」
「あ……」
そうだ。
私、夢を見て、泣いて起きたのだった。
ガッシュさんは、私の異変に気が付いてくれたのだ。
「その、亡くなったお母さまの夢を見たんだと、思います。それで、目が……」
「……そうか」
ガッシュさんの声が優しい。いつにない態度に、私は少し混乱していた。
混乱したまま、口を開く。
「あ、あのっ。確かにわたくしは、幽閉されています。でも、今は寂しくありません。ユリアネもいますし。何より、ガッシュさまたちが来てくださいましたから……っ」
私は一気に話し、そして後悔した。
ちょっと、距離を詰めにいった感じがしたからだ。
ガッシュさん、変に思っていないといいけど……。
ちらりと、ガッシュさんを見れば。やはり彼は、顔を背けていた。失敗した。
落ち込み俯く私の耳に、囁くような声が聞こえた。
「……俺も、あんたに助けられて、良かったと思ってる」
それは確かにガッシュさんの声で、私はカップを握る手に力を込めた。
私はガッシュさんと少しだけ距離が縮まった気がして、胸が熱くなるのを感じた。
炊事場の窓から、朝日が登るのが見えた。それは、私にとって希望の光に見えて、心を踊らせたのだった。




