1.始まりの語り
ああ、そうか。
私の知識は、別の誰かのものだったのか。
そんな風に、私は唐突に理解した。今から、十年ほど前の穏やかな晴れの日だった。
その日が、何か特別な意味を持っていた訳ではない。
神から啓示を与えられるような、特別な誕生日でもなかったし、九死に一生を得るような事故に巻き込まれるような大事件が起こったということもない。
脳を揺さぶるような、強烈な前世から続く運命の相手に出会うなどという、ドラマチックな展開も、誠に残念ながら無かった。
本当に穏やかで、暖かな日差しが降り注ぐ、幸せな五歳の春の日。
私は、家族と他に数名の大人たちと一緒に、見晴らしの良い草原に遊びに来ていた。
兄姉たちと、そこら中を転げ回り、息を弾ませて、大地へと寝転んだ瞬間だったと思う。
仰向けになり、低い場所から見上げた、雲一つない青く、広がる空。
それを目にした時に浮かんだもの。
――蒼穹。碧空。蒼天。
晴れ渡る空を、表す言葉たち。
私は、それらの言葉を知らないはずだった。
その意味すらも。
五歳になったばかりの私は、読み書きを含む一般教養を、まだ学んでいない状況だったのだ。
なのに、言葉は止まらない。青い空。青い海。いつしか連想するかのように様々な言葉が溢れ出してきた。
――青い、青い地球。
途端に湧き上がるイメージたち。何にも侵されない漆黒の中に浮かぶ、青い球形の星。周りにも無数の光が散らばっていたが、私が思い浮かべた映像は、青い星を中心にしたものだったせいか、圧倒的な存在感を誇っている。
漆黒の空間は、宇宙。頭の中の映像は、写真と呼ばれる記録媒体に写し込まれたものを、目にしたことがあったのだろう。
――地球、写真。
どちらも、本来ならば今の私が知るはずのないものだ。
何故なら、私の住む場所は――私の知識に間違いがなければ――地球には存在しない国であるし、空の向こうには宇宙が広がっているという概念はなく、神々の住まう天空王国が、鏡合わせのように天地を逆にして存在していると信じられているのだから。
そんなおとぎ話にしか思えない神話を、世界中の皆が信じている。
それが、今の私を育む世界。
世界自体に名前は付いていないけれど、名を呼び掛け、祈りを捧げる神々は居る。
少しだけ不思議で、今では当たり前となった世界。
『前の私』ならば、目を輝かせたに違いない。ファンタジー小説が、大好きだったようだから。
そんな世界で、私は少しだけ大人びた子供で通っていた。
誰よりも、一歩だけ下がり出しゃばらず、我が儘もあまり言わない子供。人を不快にさせないように、気を配ることも出来た。
それらは全て、前の私の知識や、積み重ねた経験によるものだったようだ。
勿論、子供らしく、外で駆け回る年相応な面もあるのだけど、それは今の私が持つ性格なのだろう。
嫌われたくないから、人に優しくするというスタンスは、臆病で小心者だった前の私が身に着けた、鎧だった。
そして、それは今の私にとっても、身を守る術となった。
前世の記憶を思い出すという、あまりにも衝撃的な出来事であるはずなのに。
私は、穏やかにそれを受け入れた。
記憶は、私を覆い隠すのではなく、包み込むように降り注いできた。今の私が消えるのではなく、前の私という『人格』が曖昧になっていったのだろう。
染み入る記憶に呆然となる私を、家族の誰もが心配してくれた。柔らかな覚醒は、私の中を何一つ傷付けなかったから、直ぐに平静を保つ事が出来たけれど。
用意された簡易パラソルの下で、姉と一緒に空を見上げた。
姉に、あれは蒼穹というのだと指差して言えば、そんな言葉はないと笑われた。
雲一つ無い空は、『神の通り道』や『神空』と呼ぶのだと教えてくれた。とんだ赤っ恥だったが、それは一つ勉強になったとなんとか自分自身を納得させた。
帰り道、兄が物を知らない私の為にも、早々に教育を施すべきだと父と母に訴えているのには、心底腹が立ったが、まだ早いだろうと父に鼻で笑われていたので、まあいいか。
気を使える子供は、そう簡単に年上に反抗しないものだ。
ツンと、澄まし顔の私の頭を母が撫でた。母を見上げれば、そこには暖かな笑みが広がっていたように思える。
ああ、そうか。
過去の反芻が終わり、私はまたもや唐突に理解する。
そうだったのか。
『前世の記憶』などという、普通ならば有り得ないものを物心つく頃から持っていたのは。
今思えば、慈悲だったのかもしれない、と。
十五歳になった今ならば、そう思えるのだ。