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case5 : 白鳥撫子(前編)

 どこにでもあるような少し古びたアパートの二階、そこに私と家族の家がある。

 玄関には白鳥家の名が刻まれた木製のプレートが設置されており、幼稚園からの帰りに母に抱えられてこれを見るのが私の日課となっていた。両親と並んで書かれている名前を見る、ただそれだけで心は安堵で満たされ幸せだったのだ。


 たとえ家に借金取りが押しかけてくる状況であっても。


 迂闊と言えば迂闊であった。借金の連帯保証人なんて軽々しく引き受けて良いものではないのだから。しかしながら、「困った時は助け合う」が口癖だった父は、旧友からの頼みを断りきれずに、連帯保証人になってしまったのだ。

 そして、これが全ての不幸の始まり。

 旧友は、父が信頼した人だけあって悪い人ではなかった。では、何が悪かったのか。強いて言うならば、運が悪かった。連帯保証人を引き受けた直後に、旧友が事故で亡くなると誰が予測できるであろうか。いや、できるはずがない。

 しかし、それでも借金は父が肩代わりするしかなく、数々の資産を手放しても補いきれない負債を背負うことになってしまう。

 父は必死になって働いた。借金の重圧で家庭が押しつぶされてしまわないように、朝も昼も夜もなく働き続けた。当時の私は、日に日に窶れていくその父の背中を見守ることしかできなかった。こんなにも近くにいるのになぜか遠くに感じてしまう、そんな孤独感に苛まれながら。

 いつかは終わる。いつかは元に戻れる。家族全員がそれを信じて疑わずに、ただひたすら耐え続けるしかなかった。だけど、どれほど心を強く持とうと疲労は溜まるもので、連日連夜の無理が祟って父が床に伏すのは避けられない運命だったのかもしれない。

 当然借金の返済は滞り、催促が山のようにやってきた。

 最初は封書での警告、次はスーツを着た父と同年代と思われる男性の来訪、最後は派手なジャンパーを着た強面の青年男性が押しかけてきた。

 床に伏す父に代わって説得を必死に繰り返す母もこのときにはいつ倒れてもおかしくない状態に陥っており、無法者を追い返す力があるはずもない。瀬戸際の母を支えているのは、幸せだったときの思い出だけ。

 そんな母を煩わしいと思ったのか、無法者はポケットからナイフを取り出しちらつかせる。

 脅しのつもりだったのであろう。あと一押しさえすれば突き崩せる、と。

 ところが、その行動が突き崩したのは母の執念ではなく、まったく別のモノだった。それは、母のか細い悲鳴を聞いて駆けつけた父の理性。

 温厚な父が私に初めて見せる表情で、青年に襲いかかる。父の剣幕に気圧されないように怒鳴り散らす青年の表情も尋常ではなく、最悪の事態を想像せざるを得ない。

 そして、決着は想像を裏切ってはくれなかった。

 刃先を紅く濡らしたナイフが地面に落ちて鈍い音を鳴らし、青年が崩れ落ちるように倒れ込む。

 とても静かだった。人生で初めて感じる真っ白な静けさだった。

 紅色の水溜まりに彼の身体が飲み込まれていくのを見ても誰も動かない。動けない。静寂を破る手錠の音が聞こえるまで――――。



 凍てつくような寒さに覆われた白銀の季節、私は冷え切った畳の上に横たわる。枕となるのは、質素な部屋の中央に置かれた円卓の硬い足。

 あの日を境に、白鳥家の――私の運命は大きく変わってしまった。

 警察に捕まった父は正当防衛を主張するも過剰防衛と判断され、罪の呵責に耐えきれずに自殺した。幸福な家庭だった頃に戻ることを唯一の希望としていた母の精神は完全に病んでしまい、以前の優しい母に戻れる日は二度と訪れないだろう。

 私はと言うと、母の機嫌に日夜怯えつつ、母の気紛れによって与えられる食事で命を繋いでいる状態である。

 けれど、それでも私は耐えられていたのだ。父は私を置いていってしまったが、母は私の傍にいてくれたのだから。

 ――――だから、一人で過ごした昨夜は一睡も出来ずに涙を流し続けた。

 認めたくない。認められるはずがない。



 母が私を見捨てるなんて。



 これが今から九年前の話、小学校入学を控えた冬の出来事である。

「撫子、大丈夫?」

「えっ?」

 放課後に、窓から空をぼんやりと眺めていた私を心配そうに見つめる女性が一人。

「具合悪そうな表情してたよ?」

「あ、えーと……ちょっと昔のことをね」

 彼女の名前は三原春、私の生い立ちを知りながらも仲良くしてくれる数少ない友人の一人だ。

「――ッ」

「ち、違うの。確かに昔のことを思い出してはいたけど、今はおじさんやおばさん、それに春ちゃんもいてくれるから平気だよ」

 悲痛な表情を浮かべる春ちゃんを見て、慌てて私は否定の言葉を発する。

 そう、私は一人じゃない。両親はいなくなってしまったが、彼女たちがいる。

 身よりのない私を引き取ってくれた養護施設の院長と奥さん、私の境遇を差別せずに付き合い続けてくれる春ちゃん、彼女たちが一緒にいてくれるから私は幸せ。

「おい、三原。まだそんな奴と一緒にいるのかよ。犯罪者の子供と友達なんて、ろくなことないぜ」

「村上!」

「ごめんね、春ちゃん。先に帰るね」

 鞄を乱暴に掴んで、逃げるように教室を後にする私。

 

 私は幸せ。幸せのはず……だよね?


 帰宅後、私は自室の机に突っ伏して涙を流す。

 教室を出る際に浴びせかけられた嘲笑の声が耳にまとわりついて離れない。

 確かに、私の父は人を殺めた。でも、あれは運の悪い事故。父だって殺したくて殺したわけじゃない。

 それでも、父はいつまでも憎まれなければならない犯罪者で、私はその娘として生きなければならないの? それを理由に虐げられても、しょうがないことなの?

 あの日からもう何度目になるのかも分からない自問を繰り返す。

 答なんて出ない。出せない。私は明確に片方の答を望んでしまっているから。

 ねぇ、もし神様がいるのなら答えてよ。

「…………」

 時間だけが虚しく過ぎ去っていく。

 神様がいないことなんて分かってた。いるのなら、私をこんな目にきっと遭わせていない。だけど、それでも誰かに認めてもらいたくて。

「――撫子ちゃん、ご飯出来たわよ~」

 自分でもどうしたいのか、どうすればいいのか分からなくなってしまったとき、ノック音とともにおばさんの声が室内に響いた。

 慌てて机上の目覚まし時計を手繰り寄せると、午後6時を過ぎていた。いつもなら、全員揃って食前の挨拶を済ましている時間だ。

「ご、ごめんなさい。今すぐ行きます」

 泣いていることを悟られないように平常を装い、返事をしたのち涙を拭う。

 ただでさえ家事手伝いを忘れて迷惑を掛けているのに、悩みの相談なんて絶対に出来ない。

 たとえそれで、自らを追い詰めることになろうとも。


 気持ちを切り替え、食堂の扉を開く。

 食欲をそそる香りと温かい視線に迎え入れられて、私は空き席に腰を掛けた。

 両隣の子供の面倒を見つつ夕食をいただく、それが私と院長夫婦のいつもの流れ。

 この養護施設には私を含めて系7人の子供が住まわせてもらっているのだが、私以外はみな年齢が幼く、一人で食事することもままならないのだ。

 私も入居直後はこの子たちと同じくお世話になった覚えがある。あの時の恩義は、新しい人生を歩み出した子たちも忘れていないであろう。

 ……懐かしいなぁ。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

「大丈夫? どこか痛いの?」

 えっ? あれ? 私、泣いてるの? みんなの前では絶対に泣かないって決めてたのに。早く涙を止めなきゃ。誤魔化さなきゃ。そうしないと私は……私は――

「ごめんなさい」

 大勢の視線を浴び、いたたまれない気持ちに陥った私は、また逃げ出した。

 その場しのぎの解決にしかならないことは分かっているのに、これ以外の道が思いつかなかったのだ。

 自室に戻った私は情け無い自分に嫌気が差し、悲しい気持ちに捕らわれたまま深い暗闇に誘われるのであった。

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