case4 : 里中千代(後編)
崩れ去る家屋、失われた生命、戦争の傷は決して塞がる事なく残り続ける。日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終結しようとも、私の日常は二度と戻って来ないのだ。
理解出来ない言語を話す米軍が何度も村を巡回しては、憐れむような瞳を向けて去って行く。父と母は村内会議に連日呼び出されて、話す時間さえない。同様の境遇に立たされているかもしれない友人の安否を確かめる手段もなく、私は半壊した家の縁側に腰をかけ非日常を過ごす。
もうどうなってもいい
そんな気持ちになっていたときだった。彼女に出会ったのは。
「あなたは誰? それに、今の言葉ってどういう……」
「私は記憶を消す者。さっきの言葉、聞こえなかったかしら? あなたの……うーん、一緒に居てあげるって言ったのよ」
そう言うと、彼女は私の隣に腰を下ろし、あどけない表情を浮かべる。
不思議な子だった。さほど私と歳が離れていないように見えるのに、どこか大人びた口調で話し、そうかと思えば年相応の無垢な笑顔で微笑む。服装だって、私達が着ているようなものとは違い、帯を使わない白い長着のようなものを着ている。
怪しい……だけど、なぜか彼女を拒絶する気持ちにはなれなかった。一人で過ごすには、あまりにも今の世界は残酷なのだから。私にとっても、おそらく彼女にとっても。
「私は、里中千代。あなたのお名前は?」
「私は――――」
――――彼女に出会ってから、5度目の夏が来ようとしている。それほどの年月を経ても、彼女は変わらず私の横で笑み浮かべ続ける。あの日と何一つ変わらぬ風貌で。
「あなたは不思議な子ね。私以外の前には姿を現さず、成長もしない。まるで、私だけが見ている幻のよう」
「また、その話? 今日ぐらいは自分の事だけを考えていいんじゃないかしら? 人生で一度きりの晴れ舞台なのだから」
「今日だからこそよ。私が村を出たら、あなたは……」
「出会う前の状態に戻るだけよ。私がいなくても、もうあなたは独りじゃない。私は、私を必要とする別の誰かをまた探しにいく。心配しなくていいの。誰も不幸にならないわ。分かったのなら、涙を拭きなさい。せっかくの化粧が台無しになるわよ?」
目の前の三面鏡に視線を送ると、そこにはシルクのドレスを着て瞳を濡らす女性が映っていた。私だ。
そう、今日は私の結婚式。人生で一度きりの晴れ舞台。こんなにも喜ばしい日に、鬱いだ表情をしているなんて、どうかしている。
「そうだよね。でも、私達ずっと――――」
”ずっと友達だよ”、そう言おうとしたとき、部屋の扉をノックする音とともにアテンダーからの声がかかる。扉に視線を奪われていた間に、彼女は姿をくらましてしまったようだ。伝えたい想いを伝えられぬまま、私は待合室を後にするしかなかった。
式は順調に進み、最後のブーケトスの時間がやってくる。人混みの中に彼女の姿がないか探してみるが、案の定彼女の姿は見当たらなかった。
私の晴れ舞台を一度でも彼女に見てもらいたかったのだが、こればかりは諦めるしかないのだろう。
落胆する私の姿を見た夫に心配されつつ、私はブーケを空に向かって放り投げる。
これで私の挙式は終わり、あの子とのさようならをする時間。現実を受け入れられず、曖昧な意識の中で浮遊しているような感覚に私は襲われていた。
もう、ブーケは誰かに受け取られたのかな? どうでもいいか。本当に届けたい人は、この場にはいないのだから……。
「結婚、おめでとう」
「えっ」
頭の中に直接語りかけてきたかのような彼女の言葉で、現実に引き戻される私。夫が私の顔をのぞき込むようにして心配していた。
「どうかしたの? それにその手に握っているものは何?」
振り上げていた腕を下ろすと、私はいつの間にかに一輪の花を握りしめていた。白く輝く星のような花――アングレカム。茎の部分には、彼女が髪を束ねるときに使っていた簪が紐で付けられていた。
周りは、ブーケが風に舞い上げられて彼方に消え去ってしまったとざわめいているようだ。しかし、私はそれを気にも留めずに、涙をぽろぽろとこぼし始める。そして、夫の質問に嗚咽混じりに答えた。
“私の大切な友人からの贈り物”と。
食い入るように書物を読み、私達は里中千代と記憶消しの少女の関係を知る事が出来た。しかしながら、彼女の正体は依然分からぬまま。そもそも、この記憶消しの少女と私達の知る記憶消しの少女は――
「失礼ですが、この書物に出てくる少女は本当に“記憶消しの少女”なのでしょうか?」
突然の礼を欠いた言葉に、柳瀬美紀が慌てふためく。だが、彼女も私と同じ感想を抱いているには違いない。質問自体への否定は一度もしなかったのだから。
「私も最初は信じていなかったんよ。母様は物を書くのが好きな人でねー、この話もそうなんじゃないかって」
「つまり、創作であると?」
「いーや、最初にそう思っていただけで、今は実話だと確信しちょるよ」
「何があったんですか?」
しばし沈黙が続いたのち、ご婦人の口から彼女を信じさせるに至らせた話が語られる。
それは、里中千代の葬儀の日に起こった。御経を読み上げる僧侶の様子がおかしかった事から、それは発覚したらしい。
本来、御経の読み上げに集中しているはずの僧侶が、頻りに部屋の奥の方を気にしていたのだ。「何かよからぬモノがいるのではないか?」と、御経を読み上げ終わった僧侶に聞いてみると、「部屋の奥に、白いワンピースを着た小さな女の子がいた」と答えた。
親族の誰かの子だと思い聞いてみるが、誰一人としてそんな子は知らないとの事だった。ところが、その場にいた全員がその子を見た事はあると答えたので見間違いでは済まなくなる。ほとんどの人は、葬式場の準備をしている最中に見かけて、他の誰かの子もしくは見間違いだと思っていたらしい。
つまり、誰もが認識しているにも関わらず、誰も知らない子が存在していたのだ。
服装や年代の奇妙な一致、そして遺影の前にアングレカムの花がいつの間にかに供えられていた事で、彼女が“記憶消しの少女”であると確信し、実在すると認めたとの事だった。
話の最後に、「あの子は、私達の悲しみの時間さえも消し去ってくれたのかもしれないね」と言って、昔話の幕は降りた。
――バスに揺られ、都市伝説“記憶消しの少女”の発祥地を後にする私達。確かに、記憶消しの少女は実在していた。それは、私達も認めるという事で決着がついた。
しかし、今回の記憶消しの少女と私達が知っている記憶消しの少女が同一人物であるかどうかは分からない。いや、同一人物であるという確率は、かなり低いと思う。なぜなら、私達が知る記憶消しの少女は、子供ではなく大人の女性だ。もし、記憶消しの少女が歳を取らない神秘的な存在であるというのなら、同一人物にするにはどうしても矛盾が生じてしまう。
では、彼女はいったい?
結論を出せないまま、私達は病院の前に戻ってくる。空が今にも泣き出しそうであったため、バス停から病院内に早々に避難しなくてはならない。それなのに、病院の入り口直前で、私達の足は止まっていた。視線の先に立つ一人の女性に釘付けにされてしまっていたのだ。
待ち望み続けた、記憶消しの少女との再会であった。