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case3 : 梔子彰

 閑散とした薄暗い路地。日光でさえも遮られているためか、湿気とかび臭さが充満している。近隣の住民ですら滅多に通らないこのような場所を訪れる者がいたら、その人物は深い事情を持っているに違いない。……私のように。

 視線を落として、手元を見る。銀色の鋭い刃が、滲んで歪んだ私を映していた。

「……間違っているな」

 これしか手段を思いつかないとしても、無関係な人間を巻き込んでいいはずがない。そんな事は誰かに諭されなくても分かっているのに、止まる事が出来ないなんて。

 自分の中の矛盾に耐えきれなくなり、顔を上げると、1人の女性と目が合った。薄暗い空間では一際輝いて見える純白のワンピースを纏った女性であった。

 咄嗟に、私は握っていた刃物を女性に向ける。それに対して彼女は、怯えも叫びもせずに、冷めた視線を返してくるだけだった。

 お互いに見合っているだけでは埒が明かないので、単刀直入に自らの目的を話そうとする。

「あなたの事を傷つけたいわけじゃないんだ。黙って、私に捕まっている振りをしていてくれないか?」

「まさか、こんな場所で人と出くわすとはね」

 話が噛み合わない。どうやら、彼女は私と話す気がないらしい。しかし、今更引き返す事など出来るはずもなく、なおも私は語りかける。

「マスコミを集めるために、力を貸して欲しい。用が済んだら、無事に解放すると約束する」

「……悪いけど、私にあなたは救えない。でも、私が力を貸せば、あなたはあなたを救えるの?」

 正直、彼女が何を確かめようとしているのか、よく分からない。ただ、ここで肯定の返事をしなければ助力を得られないのは直感的に分かった。

「あ、ああ」

「そう。なら、力を貸してあげるわ」

「ありがとう。それでは、これから私の言うとおりにしてもらいたい。と、その前に、あなたの名前は?」

「ハクよ」

 こうして、私とハクが演じる狂言犯罪の幕が開けた。


 ――――事件が起きれば、人が集まる。人が集まれば、やがてマスコミが嗅ぎつける。私の狙い通りに、周囲には人とカメラの山が出来ていた。彼らは、刃物を持ちか弱い女性を人質に取る凶悪犯を刺激しないように数メートル離れたところに陣を取り、説得の声をいくつも飛ばしてくる。

「ハクさん、手はず通りに頼みます」

「えぇ。キャーーー」

 女性の甲高い悲鳴が辺りに響き渡った後、一斉に周囲が静けさに包まれる。

「皆さんに聴いていただきたい話があります。私が今日に至るまでに起きた現実を」



 それは、今から数日前までの話。

 私は何の変哲もない会社員だった。

 浮いた話こそなかったものの、周囲からの信は厚く、仕事は順調であったと言えるであろう。実家に一人残してしまっている母には悪いが、現在の状況に不満はなかったのだ。早くに父を亡くし、苦労しつつ私を育てくれた母に恩を返すには、一刻も早く一人前になる必要があったのだから。

 そんな私に転機が訪れたのは、取引先の会社での事である。仕事以外に取り柄のない私が、社長の娘に気に入られた――つまり、社長令嬢に見初められたのだ。

 母への連絡は月末に一度と決めていたのだが、その時ばかりは帰宅後すぐに受話器を手に取った。電子音が数回鳴り、通話状態になる。耳を疑いたくなりそうな話だというのに、母は泣きながら喜んでくれた。

 今年定年を迎える母のためにも、私は一軒家を建てる事を決意する。わずかながら、蓄えはあった。未来の嫁と、母親との同じ家での生活、想像するだけでも幸せに満ちあふれる生活だった。

 しかし、幸せはいつまでも続かない。

 先日、母との連絡が急に取れなくなった。私は心配になり、仕事を休んで帰省する。

 実家に着いた頃には、辺りは暗くなっていた。だというのに、照明の一つも点いていない。出かけているのだろうと思い、家の中に入る。そして、その時初めて状況を理解出来た。

 照明は点いていなかったのではなく、点けられなかったのだ。電気が供給されていないのだから。電気だけでなく、ガスも水道も止められていて、食料さえもない惨状だった。唯一動作していたのは、母の傍らに転がっていた携帯電話だけ。それ以外に、動きそうなものはない。母が起き上がる事も二度とない。そう、母は亡くなっていたのだ。痩せ細ったその姿から、何日もの間何も食べていないのは容易に想像出来た。

 母が亡くなるまでの間に何が起きたのかは、全て日記に書き記されていた。私が吉報を告げたあの日、母は吉報だけでなく凶報も告げられていたという事実が。端的に言うと、年金問題、それが母を死に追いやった根源であった。

 定年を迎えた者は、基本的に貯金と年金で生活を賄う。だが、母は年金を得られずに死んだ。夫がいなく、正社員でもない母に十分な蓄えがあるはずもなく、空腹に耐えながら生活していたに違いない。そして、電気もガスも食料でさえもない状況下で、それでも最後の最後まで私と繋がる携帯電話の料金だけは支払って……餓死したのだ。



 話が終わる頃には、周囲から嗚咽する声が漏れていた。その中には、私を捕まえに来たはずの警官の声さえも。

 馬鹿な話だ。私に相談するなり、生活保護を受けるなり、救われる手段はあったのに……私の婚約が解消される事を心配して、新居の購入を妨げないようにと考え、消えた年金が受け取れる日が来る事に賭たのだから。

 私が事件を起こしてまで、伝えたかったのは、その事だった。苦労して頑張り続けた者が馬鹿を見る世界。消えた年金は戻ってこない。解決するために、莫大な費用を税金から捻出。増え続ける無駄遣い。そんなの、あまりにも酷すぎるじゃないか。

 おそらく、今の政府には個人が何を言っても届かないのだろう。それこそ、事件を起こして注目せざるを得ない状況を作り出す以外には。

 許されない手段なのは分かっている。それでも伝えたかった。母のような犠牲者がいる事を。

「気をつけて。狙撃部隊が、あなたを狙ってる」

 小声で、ハクが私に警告する。話し終わって気が緩んでいたためか、視野が狭く警戒が甘かった。

「ありがとう。付き合わせてしまって悪かったね。これで、私のしたかった事は終わりだ。あとは、大人しく捕まるさ」

 私も同じように小声で、返事をする。伝えたい事は全て伝えた。世界をどのように変えるかは、全員で考えていくべき事だ。

 ハクを解放して、私は捕まる。幕を下ろす時間が来たようだ。


 ドンッ。


 一つの鈍い重低音が鳴る。

 瞳孔が開いていくのを感じる。

 全ては筋書き通りに終わるはずだった。残す仕事は、ハクを解放するだけのはずだった。なのに、なぜ――

「ハク! ハク!! 大丈夫か!?」

 私は無事だった。本来撃たれるはずだった私を、ハクが庇ってくれたのだから。

 純白の衣装は瞬く間に紅く染められ、足下に血だまりが作られようとしている。

 衝撃的な光景に一般人は声を失い、変わりに放心状態から我を取り戻した警官の“確保”の怒号が響く。

 彼女の生死も確かめられぬまま、私は刑務所に連行された。



 事件から数日が経ち、私は牢獄の中にいる。

 裁判はまだ行われていないが、情状酌量の余地があるという事で、実刑にはならない可能性が高いそうだ。

 それに、訴える人物――ハクがいない。あの後、ハクは病院に運ばれたらしいのだが、術後の経過を見ている最中に、姿を消してしまったと聞いている。彼女も何か深い事情を持っているとは感じていたが、今は無事でいてくれる事を祈るしかない。

 そんな事を思っていると、看守がやって来た。

「良いニュースだ。君が引き起こした事件をきっかけに、年金データ紛失期間に年金を管理していた者達が、寄付金を差し出して来たらしい。もちろん全員というわけではないかが、きっとこれから少しずつでも正しい方向に向かっていくだろう」

「……そうですか。私のした事は無駄ではなかったのですね」

 今まで堪えて来た気持ちが決壊して、涙となって溢れてくる。


 母さん、今までありがとう。

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