case2 : 柳瀬美紀
多くの人にとって、その日は特別な日である。この世に生を受けた事を祝う、誕生日。
例に漏れず、その日は私にとっても特別な日であった。唯一他と違う点と言ったら、私にとっての誕生日は単なる祝日ではなく、苦々しい思い出との葛藤を強いられる日でもあるという事。その日を喜べばいいのか、悲しむべきなのか分からずまま齢を重ね、早10年。
「私はどうしたらいいのかしらね……」
虚空への問いかけは霧散する他ない。いや、問いかけですらなかったのだろう。相手の返事を望まないただのつぶやき。心に押し込まれている気持ちが零れ落ちただけ。決意を固めて戻ってきたはずなのに、結局、私は――――
「あなたの記憶、消しましょうか?」
突然背後からかけられた声に、私は身震いをさせられる。しかし、すぐに声の対象が私ではない事に気づき、その場を立ち去ろうとした。傍迷惑な声であったが、現実に連れ戻してくれた事に対しては感謝してもいいと思う。……今更悔いたところで、もはやどうにもならないのだから。
「消さなくていいのですか? 柳瀬美紀さん」
「!?」
歩み始めた足が止まる。今、なんて言ったの? 聞き間違いでなければ、私の名前。つまり、あの言葉は私に投げかけられていた事になる。驚きのあまり後ろを振り向くと、そこには純白のワンピースを身に纏っている女性が立っていた。
「……まさか、あなた、…………都市伝説の記憶消しの少女?」
「少女と呼ばれるには、時が経ちすぎたわ。私もあなたもね」
彼女から“都市伝説”自体の否定はない。忘れたい記憶を背負う者の前にだけ現われ、その願いを叶えてくれるという眉唾物の都市伝説。そもそも、都市伝説なんてほとんどの人が信じていないだろう。ただ面白いという理由だけで噂が広まり、世間が注目する。しかし、それもわずかな間だけで、根も葉もない噂など別の噂がもてはやされる頃には、耳にする事さえなくなるものだ。私が思い出したのだって、最近、新聞の片隅にある読者投稿欄に書かれていたのを目にしたからなのだから。
「生憎、私はあなたにオバサン呼ばわりされるほど歳はとってないし、消したい記憶もないわ」
「オバサンと言ったつもりはないのだけど。まぁ、そう聞こえたのなら謝るわ。でも、嘘は良くないわよ? 嘘は」
こちらの事情は全てお見通しというわけか。都市伝説を着飾る不審人物の可能性も考えたが、そうではなさそうだ。だけど、彼女は私の本当の悩みを理解出来ていない。私が消したいのは記憶ではなく、過去なのだから。たとえ、彼女が本物であろうと偽物であろうと、何も出来ないのだ。
「あなたに何が出来るというの……私の記憶を消す? 笑わせないで。忘れたところで過去は変わらない。現実は変わらないのよ!!」
「確かに、私は過去を変えられない。ですが、それでも、あなたを救いましょう。あなたがそれを望むのならば」
「どうやって? あの日、あの子は来なかった。理由も聞かずに、私は引っ越した。失った10年も、あの子との友情も今更取り戻せない。あなたに出来ることなんて何もない!! ……もう何もかも手遅れなのよ」
「それでもどうにかしたいと思った。だから、此処に戻って来たのでしょう?」
「――ッ」
小学生生活が終わると同時に、私は余所の地に引っ越す事になっていた。偶然、私の誕生日が卒業式と重なっていたため、一番仲の良かった友達が、お別れ会も兼ねて誕生日をお祝いしたいと申し出てくれた。嬉しくて、ケーキや飲み物を用意して自宅で待つ私。2人の友情が永遠なものであり、たとえ離ればなれになるとしてもそれは変わらないと思えたから。……だけど、その日、空のお皿が満たされる事はなかった。
結局、私は失意に身を任せたまま引っ越した。事情も確認せずに、逃げるように去ったのだ。連絡も無しに来れなくなるほどの何かがあったと考え、心配すべきなのに、最後の最後で私は親友を信じきれなかったのだ……。
「恐かったのね。裏切られてしまうという万が一の可能性が」
「……馬鹿な話よね。一時の感情に負けて、全てを犠牲にしてしまったんだから」
「いいじゃない。その子の事が大切で、好きだったからこそ真実を確かめられなかったのでしょう?」
「そうよ。私は、理恵の事が大切で大好きだった。今も未練がましくあの子を想い続けている」
どうしてあの時、今の気持ちを伝えに行けなかったのだろう。彼女の事を誰よりも信じていたはずなのに、知っていたはずなのに、ありもしない恐怖に負けるなんて本当に私は大馬鹿ものだ。
「私の役目はここまでね。もう解決したようなものだもの。ほら、大切なご友人がお待ちよ」
「ミ、キ?」
「えっ」
いつから、彼女はそこに居たのだろう。声の方向――後ろに振り向くと、車椅子に座っている女性が瞳に映る。そして、その傍らにはラブラドール・レトリバーが一頭。
「美紀、なのよね? 良かった。また、あなたに会えて。私、あの時の事をずっと謝りたかったの。ごめんね、約束を守れなくて」
彼女からは、忘れもしない理恵の面影が。でも、この犬って……盲導犬。それに、焦点だって……。
「あ、あ」
「私ね、あの日、交通事故に遭ったの。命は助かったけど、視力と足は……ね」
理恵が来れなかった理由は交通事故に巻き込まれたからで、連絡したくても出来ない状態で、それなのに私は――
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――……」
「どうして、美紀が謝るの? 謝らなきゃいけないのは私の方なのに……」
お互い、涙が溢れ始める。
「わ、私、あなだのごとを」
「もういいよ。今までずっと悩み続けてくれたんだよね。私がそうだったように、ずっと想い続けてくれてたんだよね」
言葉が出ない。それを察してくれた理恵が、膝をついて泣き崩れる私を黙って抱きしめてくれる。
「あれから、いっぱい泣いて、いっぱい後悔したんだ。でもね、今はもう大丈夫。人間って不思議よね。立ち直れないと思っていても、いつの間にかに受け入れられるようになっているんだもの」
「……うん」
自分でも何が“うん”なのか分からないが、やっとの思いで出した声を聞いて、理恵は微笑みを浮かべていた。
――――あれから、私たちは2人で暮らすことになった。大学を卒業した私は、介護の仕事に就きながら理恵の身の回りの世話をしている。理恵は、障害者向けの本を執筆したかったらしく、代筆してもらえる人を見つけたと喜びながら文章の構成に勤しんでいる。
話は変わって、記憶消しの少女についてだが、彼女は気づいたときにはすでに姿を消していた。今になって思うと、彼女は私の中にある記憶を確かに消してくれたのだと思う。いつまでも消すことの出来なかった後ろめたい記憶を、理恵と巡り会わせてくれる事によって。
「美紀~、文章思いついたから書いて~」
「あー、はいはい」
私は今、幸せだ。