case1 : 宮部康治
冷たい。寒い。
体を伝う雨と心を溺れさせる雨によって、我が身は死を身近に感じられずにはいられなかった。
死と生の境界線ともいえる病院の前で、私は思考の海を彷徨い続ける。
どうしてこうなったのか、と。
誰にだって消し去ってしまいたい記憶が一つや二つはある。それは悲しい記憶だったり、恥ずかしい記憶だったり、人によって違うものではあるが、一刻も早く忘れたい記憶には違いない。しかし、そんな強烈な記憶だからこそ、脳裏に焼き付いていつまでも忘れる事が出来ないのだ。だが、もしそれを忘れる方法があるとしたら――――
「あなたの記憶、消しましょうか?」
声の方向に顔を向けると、降りしきる雨の中、傘も差さずに佇む女性が一人。純白のワンピースを身に纏い、重量を感じさせる黒髪をかきあげながら私に微笑んでいた。明らかに不審人物であり、不気味な存在である。にもかかわらず目を背けられないのは、彼女に、彼女の言葉に魅入られてしまったからなのだろうか。
「忘れてしまいたいのでしょう? 奥様の事」
「キミはいったい……」
背筋に怖気が走る。雰囲気という曖昧なモノからその恐怖は昇華され、事実にまで手を伸ばし始めたのだから。彼女は私に“記憶を消しましょうか”と問いた。あたかも私の心を見透かしているかのように。この時点で異常ではあるのだが、それについてはまだ説明がつけられたのだ。なぜなら、私は病院から 鬱いだ表情で傘も差さずに出てきた。つまり、大抵の人間なら何か嫌な事があったと思い至る事ができ、それを気遣うように声をかける事も不可能な話ではない。彼女の存在に気づいたときの私の思考がまさにそれだったのだから。
だが、悩みの対象を言い当てられたのはどうだ? 表情や行動から感情は読み取れても、その感情の対象まで分かるわけがない。妻の死を告げられる現場でも見られない限りは。
「私は記憶を消す者。悲しい事も辛い事も忘れさして差し上げますわ。疑う必要も悩む必要もなく、ただあなたは望めばいいのです」
不気味だった。これ以上にないくらい怪しかった。それでも彼女の言葉には、逆らえない魔性の魅力が宿っていた。
「本当に……本当に妻の死を忘れられるのだろうか。望めば、叶うのだろうか」
零した言葉が心の歯止めを壊す。崩れ去る自分を一時でも忘れられるのなら、それが真実でも虚実でも構わない。それが私の導き出した答え。
「気持ちは固まったようですね。では、説明をさせていただきます」
そう言うと、彼女は2つの承諾事項を告げる。一つ目は、消す記憶の中に彼女自身も含まれる事。すべてが終わったとき、私の記憶には彼女の存在は残らないというわけだ。そして二つ目が、妻が死んだという記憶を消すのではなく、妻という存在そのものを忘れなければならないという事。彼女曰く、“過去を変えるのではないのだから当然の処置”らしい。妻の事を覚えていれば、私は彼女の行方を探し、死の現実を再び知ってしまう。こうなってしまっては意味がないと言いたいのだろう。
説明が終わり、彼女は口を閉ざす。止む気配を見せない雨を気にも留めずに、ただ静かに私を見つめながら立っている。
あとは私が首を縦に振るだけ。たったそれだけで、この悲しみと苦しみから解放される。――――なのに、たったそれだけの事が出来ない。どうして? なぜ!? こんなにも簡単な事だというのに……。
「どうして」
それを知りたいのは私のほうだ。だというのに、それを口にしたのは彼女のほうだった。
「どうして、泣いているの?」
「えっ」
私はずぶ濡れの状態で、もはや自らの頬を伝う液体ですら感じていなかった。しかし、彼女はそれを見落とさなかった。流れる滝には目もくれない彼女が、一筋の滴に興味を抱いたのだ。
「嬉しいはずでしょ? 苦痛から解放されるのが嫌なはずないわよね?」
そう、私は救われる。妻の存在を忘れるだけで、楽になれるのは間違いないのに。
「……すまない。私には無理のようだ」
「……不思議な人ね。唯一の救いを自らの手で突き放すなんて」
「キミの言うとおり、妻の事を忘れれば私は救われるだろう。……だけど、そう思うだけで胸が張り裂けてしまうかのように痛むんだよ」
妻と過ごした日々が大切で愛おしいからこそ、死の現実を受け入れられずにいた。それを蔑ろにして、最初から何もなかった事に出来るはずがなかったのだ。
「そう」
不可解そうに眉をしかめながらも、どこか納得したような表情をして彼女は認めてくれた。そして、私に背を向け、雨の幕の向こうに消えていく。
「待ってくれ、キミの名前は?」
「覚えてないわ。久しく口にしなかったから」
「私はキミを忘れない。ずっと覚えている」
「…………ハク、すべてを白紙に戻すという意味で、これからは 白と名乗りましょう」
これが、私、宮部康治と都市伝説“記憶消しの少女”との邂逅だった。