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一枚の花びら

作者: 藤山美弘

君との出会いは去年の夏から秋に季節が変わろうとする頃だった。

君はまだ暑いのに着慣れないブレザーの制服を着ていた。

卸したての新しい制服はとても眩しくて僕の心を弾ませた。

長い髪を結い上げて、薄い化粧をしている。

ぎこちない笑顔が夏なのに新しい春の匂いを漂わせた。


君は少しずつ周りの人たちとも溶け込んで

仕事にも一生懸命になっていた。

女性らしく人に気をきかせてお茶を入れたり仕事の準備をしたり。

さすがだなぁ。と感心してしまう。

そんな控えめな彼女を目で追うようになっていた。

僕はきっと初めて会った時から君に惹かれていたんだね。

そんな単純な事でさえ僕は気付かなかった。

気付いた時には遅かったんだ。


君はとても優しい人。

それは僕だけでも特定の人だけということもなく皆、平等に優しい。

それが僕の胸をざわつかせた。

どうか僕にだけ…。

自分ひとりで空回りして僕は彼女に冷たくあたってしまった。

もう後には引けない。

それから僕は心と行動が全く反対の態度をとり始めた。

彼女に関心がない素振りを取り続けた。


ある日、仕事仲間で飲みに出かけた。

その中に彼女もいて僕の向かいの席に座った。

お酒も入り皆、気分良くなり個々に会話が弾んでいた。

僕も何気に彼女と話をした。

何気ない日常会話のようなことがこんなに楽しいと思ったことはなかった。

ぶっきらぼうな僕に対しても彼女は笑顔で話してくれた。

そして、もうそろそろお開きということ店を出た。

店の前で、帰り間際の悪あがきみたいに話をそれぞれしていた。

彼女が僕の横にいて言った。

「前からこうやって話がしてみたかったんです。もっと早くに…」

僕は不思議そうに彼女の顔をみた。

彼女は微笑みながら、お辞儀をして帰っていった。


次の日、同僚から聞いた。

彼女はこの仕事を辞めることを…。

彼女の昨日の一言が甦る。

僕は一度でも彼女との出会いを大切にしていれば僕らの関係は変わったのかもしれない。

僕が彼女を好きだということに早く気付いて認めていれば…。

後悔は終わることなく僕の中で続いていた。


ある日、友人との酒の席で僕はそのことを軽く話した。

お酒と友人との会話は僕の心を少しだけ軽くしてくれる。

「彼女の連絡先くらい聞いてるだろ ?」

友人は当然それくらいと言わんばかりに言う。

「聞いてない。」

「じゃぁ他の同僚から聞き出せばいいだろ。」

「聞いたら詮索されるだろ。」

「それじゃぁ後悔だけで前に進まないだろ。」

「…」

解っていることをさらに指摘されるとさらに後悔を呼ぶだけだ。

友人もそれはわかっているが、僕の重い腰をあげさそうとしているのがよくわかっていた。

どうして彼がそこまで言うか…。

僕は長い間、恋というものをしていないからだ。

僕がした最後の恋は、世に云う“悲恋”というに相応しかった。

友人はそんな僕の新たな恋をどんな形であれ進ませたかったのだろう。

友人は溜息をつきながら

「お前がそれでいいならいいけどな…」

と呟いた。


彼女が会社を去って1週間が過ぎた頃、同僚がある場所で彼女を見かけたという。

さりげなく会話の中で、その場所を聞くと“病院”だという。

他の人と一緒にいたらしく声をかけなかったらしい。

僕は興味なさ気にし、仕事が終わるのを待った。


休みの日に同僚が見かけたという病院へ向かった。

僕は微かな胸騒ぎを感じていた。

時計がお昼になろうとする頃に彼女はそこにいた。

看護士が付き添っていた。

しかも彼女は車椅子に乗っていた。

僕が声を掛ける前に目があった。

彼女は少し困った顔をして、看護士に声を掛けてから僕の方へ向かってきた。

僕は予想もしない彼女の姿に困惑しながらも平静を装った。

彼女もそんな僕のことに気付きながらも

「どうしたんですか? こんなところで。」

「…そっちこそ。」

「ちょっと検査で…」

ぎこちない会話をして僕達は連絡先を交換した。

彼女は心臓が弱かったらしい。

不整脈があり、デスクワークくらいなら支障はなかったらしい。

それでも通常勤務には体力がもたなかったらしく仕事を辞めざるをえなかったという。

職場にも気を使わせたくないからと伏せていたから、当然僕も知らないことだった。

近いうちに療養も兼ねて、地方の病院へ行くらしい。

それまで、この病院で入院と検査と治療をしているとのこと。

僕はそれを知ってからというもの、時間さえあれば彼女に会いにいくようにした。

そして彼女に伝えるタイミングを探していた。


彼女が転院する前日、彼女に会いに向かった。

僕は仕事場から直行して急いだ。

病院に着くと、病院特有の匂いが鼻についた。

夕方の静かなはずの場所が、慌しくなっていた。

僕は不安になり、小走りで彼女の病室へ向かった。

病室は扉に手を掛けようとすると中から声が聞こえる。

医師と看護士の声のようだった。

中に入ろうとするとすぐに看護士から廊下で待つように云われた。

僕は頭の中が真っ白で、彼女の家族らしき人に肩をたたかれるまで呆然としていた。

そして、しばらくして家族が病室の中へ入った。

僕は廊下で居た。

そこにいることしか出来なかった。


どれくらい時間が経っただろう。

病室から家族の悲しみの声が聞こえてくる。

医師と看護士も席をはずし病室を出た。

何度か顔をあわせたことのある看護士が優しく僕の方に手を置いた。

僕はその場に崩れた。

看護士が僕を彼女の家族に紹介してくれたおかげで、

僕は彼女に会うことができた。

彼女の顔は青白く冷たくなっていた。

僕は彼女の手をとり、気持ちを伝える時に渡そうと用意していた指輪をはめた。


病室の窓から桜の樹が見えていた。

窓を少し開けて、春風を入れた。

はらはらと桜が散り始めている。

風に乗って一枚だけ桜の花びらが窓辺にまで届いた。

僕はそれを拾い彼女の傍で伝えた。


愛してる。


そのひとことを…


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