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石に成る

作者: 鬼磯青

「ひどい有様でしょう」

 女はそう言いながら微笑を浮かべた。

 女の両足は、膝の少し上あたりから石に変わっていた。

 二本の硬質な素材が、スカートの下からすべらかに伸びている。もはや曲げることすらできないらしく、座るときも彼女は「ちょっと失礼をいたします」と通路にやや投げ出し気味に脚を揃えた。やや捻られた上半身がぬるりと正面を向く。

「いえ、そんなことは。……最近流行りの病と聞きますが」

 男は丁寧に応えると、注文を取りに来た女給が怯えた様子を見せるのを目で叱り、珈琲をふたつ頼んだ。

「珈琲でよろしかったですか」

「ええ、いけなければちゃんと言いますもの」

 でもここの珈琲はあんまりおいしくなさそうですね、と続けて、女は媚びるような上目使いをした。それからさっと外を眺めて、

「いいお天気ですね」

 しらじらしく話題を変えた。

「こんな日は過ごしやすくて助かります」

「雨の日はいけませんか」

「雨の日は足元が冷えて痛みます」

 ここの辺りが、と女はスカートを少したくし上げて石の肌と柔肌の境目の辺りを指で示した。男は目のやり場に困ったように窓の外に視線を移した。

「そこから下は痛みませんか」

 態度とは裏腹に不躾な質問をした男を、女は横目で確認してから、面白そうに笑った。

「おかげさまで、痛みませんの」

 スカートを元に戻し、水のグラスにはりついた結露を人差し指でなぞる。

「こんな風になってしまうと、もう私の体じゃないみたい。繋がっている部分から、冷えを伝えてくるばかりです。ぶつけたって、ひっかいたって、痛くも何ともありません。……ただ……そうね、時々むずがゆくって仕方がないときがあります」

 丁度ギプスをつけてるときみたいにね、と女は言った。指はいたずらを止めて几帳面に膝の上で揃えられていた。

 先ほどとは違う女給が珈琲をふたつ運んできた。

 珈琲を一口啜った男がさらに図々しい質問をする。

「手術なさる気はないのですか」

「切ってしまえと」

 女は珈琲を掻き混ぜ、クリームを注いだ。珈琲に描かれた渦巻きがしばらくその場を支配した。

「みなさんそうおっしゃいます。足を切れば生き長らえるって」

「長らえる気はないのですか」

 女は困ったようにスプーンを手に取り、珈琲の渦巻きを丁寧に壊した。

「そういうわけでもないのです」

「命よりも足が惜しいですか」

 男は彼女の手がスプーンを珈琲から引き抜くのを見つめた。

「随分不躾なことをおっしゃるんですね」

「だが本質です」

 女はせわしなく視線を動かした後、いいわけをするようにしゃべり始めた。

「最初にこうなったのはつま先だけでした。そのときに切ってしまえば一番良かったんでしょう。でもわたしできなかった」

 男は続きを促がすように、勇気付けるように彼女を見た。女は唇を笑みの形にゆがめ、やや落ち着いた声音で続けた。

「次が足首で、気がついたらふくらはぎまで……切ってしまおうと思えばいつだってできたはずです。でもわたしにはできなかった」

「それは結局あなたには切る気がなかったということでしょう」

「ええ、そうです。わたしには切れない」

 わたしの体ですもの、と女は呟くように言った。

「切ることが恐ろしいですか」

「いいえ、ええ、ええ、恐ろしい。切ることはとても恐ろしい。傷つけることはできても、切り離すことなどできない」

「命を失うことよりも」

 女は俯いてしまった。髪がさらりと彼女の顔を覆う。こわい、と彼女は言った。

「こわいです。死ぬのはとても怖い」

「あなたは生きたくないだけだ」

 ふいに男が強い調子で言った。

 女は不思議そうに顔を上げた。髪がさらさらと肩の上にこぼれた。

「いいえ、いいえ、わたしは生きています。誰よりも」

 彼女は数瞬男を見つめ、ふいに自分の脚を見下ろした。

「おそろしい足」

 男もまた、彼女の脚を見た。

「けれどわたしはこの足がいとおしい」

「無様です」

 男は珈琲に砂糖を入れた。掻き混ぜないまま少しだけ啜る。

 今度は女が言った。

「無様です」

 だが女はどこか誇らしげで、嬉しげでさえあった。

 スカートとブーツの隙間から硬質化した脛がのぞいている。今まで礼儀正しくそこから目を背けていた男は、ひんぱんにそこに目をやるようになっていた。

「いいでしょう」

 ふいに女が訊ねた。

「え」

 男はふいをつかれたように女を見た。

「わたしのブーツ。七センチのヒールを履いていたときに固まってしまったので、今でも踵が七センチ上がったままなんです。だから踵が七センチある靴しか履けなくなってしまったの」

 このブーツも苦労して探したのよ、とにっこりと笑う。

「皮膚に軟らかさがないと、靴を履くのもなかなか難しいもので」

「そうですか」

 男は言葉を惜しむように、悔やむように応えた。

 すっかり甘ったるくなった珈琲のカップをを口元まで持っていき、口をつける前に受け皿に戻した。珈琲よりも砂糖の匂いが漂ってくるようだった。

「このままほうっておくつもりですか」

「そうですね、そうなりましょうか」

「死にたいのですか?」

「生きたいのです」

 女は動揺の欠片も見せず、ゆったりと目元を微笑ませた。

「わたしは誰よりも生きたいのです」

 珈琲を半ばほどまで飲み干すと、満足したため息をこぼす。

「このまま病気が進めばどうなってしまうでしょう……わたし、きっと彫刻のようになってしまうわ。そうなってしまったわたしは、果たして死んでいるのでしょうか、それとも生き続けるのでしょうか」

「死んでしまうに決まっているではないですか」

「どうしてそう言い切れるの?」

「言葉も喋れず、動くこともできず、ただの彫像に、生命などあるはずがない」

「ずいぶん乱暴なおっしゃりようですこと」

 頑是無い幼子を見る目で微笑まれて、男は居心地の悪さに思わず身じろぎをした。

「果たしてそれは真実でしょうか」

「……たとえ生命があったとしても、その望みは、とうてい受け入れられるものではない」

「わたしは誰に受け入れられればよいのでしょう」

「え」

 男の声を受け流して、女は惜しむように自らの膝に視線をやった。

「それにしても、残念です。わたし、うっかり立ったままでいて……すっかり膝がまっすぐに固まってしまったわ。本当は座ったポーズでいたかったのに」

 その憂鬱を理解できず、男は不機嫌な顔を隠すことができなかった。それを見て取った女は微笑を深める。

「ずっと疑問だったのです。このままわたしは死ぬのでしょうか」

「……あなたは、死ぬのです」

 言下に判断され、女は悲しげに眉をひそめた。だがその下の瞳は笑うのをやめない。そのことに男が感情を乱されているのを、糧とするようにさらに喜びを深めさえした。

「こわいわ。とてもこわい」

 そうは見えない、という言葉を男は胸の下にしまいこんだ。言葉が実態を持ったように固くこわばって心臓を圧迫する。

「けれど、切り捨ててしまうなんて、わたしにはできない。だって、わたしの一部なんですもの」

「あなたは愚かだ」

「わかっています」

 ようよう振り絞った男の言葉は、笑みを含んだ声に一蹴された。男の額にはふつふつと玉の汗が浮び始めていた。女のねだるような声がする。

「あなたに訊きたいことがあります」

「わたしに、答えられることでしょうか」

「……この体は、モノでしょうか。それとも人でしょうか」

「え」

 それはどこからどこまでのことをいうのか、男には判別できなかった。石と化した足のことか、それとも……。

「わ、わかりません。わたしには、わからない」

「そうでしょう。わたしにもわからない」

 女の瞳が哀しみに染められていく。

「モノといわれれば、なるほどモノです。ですが、わたしなのです。この体は、どこまでもわたし」

 腕をぴんと伸ばした、爪の先が男の肩へ届きそうだった。

「この爪はわたしでしょうか」

 赤く染められた長い爪が肩を切り裂くような感覚を持って男に迫ってくる。心臓が痛みを伴って拍動しはじめていた。

「爪なら、わたしも切り落とします」

 すっ、と引っ込められた指先に、男は安堵した。顔に浮いた汗をハンカチで拭う。何が起こったわけでもないのに、何か大変な失礼をしでかしたような責め苦をその身に感じていた。

「髪も、皮膚も、……ねえ、あなた。わたしはモノでしょうか」

 切り捨てられるべきモノでしょうか、と女は問うた。

「い、いいえ、あなたはモノではない。そうであるはずがない」

「そうでしょうか。本当にそういえるでしょうか。あら」

 女はふいに、違和感を感じたように下方へ視線を落とした。そこに蝶でも留まっているのか、と男は感じ、「何か」と訊ねてみる。

「……いえ、失礼しました。また少し症状が進んだみたい」

 男の喉の奥で風が唸るような音がした。

 スカートの上から、太ももの辺りを愛しげに撫でている女に、重ねて忠告する勇気が持てなかった。

「このまま、石の塊になってしまうおつもりですか」

「なりたいわけではないのです」

 男の眉間の皺が深さを増した。先ほど拭ったばかりの額が脂でてかっている。

「なってしまうの。いやがおうもなく」

「切ればいい」

 男の鼻に皺が刻まれた。声を荒げるわけでもないのに、その音はまるで獰猛な動物のような咆哮を秘めていた。

「先ほどから申し上げている。切ればよいのです。その石と化したモノと化した脚を、切り落としてしまえばいい。そうすれば、残りの体は人でしょう」

「馬鹿なひと」

 思いがけない反抗を、男は目を見開いて受け止めた。

「今、なんと」

 女は嫣然として、照れくさそうに瞼を伏せた。

「いえ……何か聞こえましたか?」

「いえ」

 男はハンカチで顔を拭った。

 カフェの外は暖かな日差しで満ちている。うららかな陽気から隔離されたように、室内は空調が聞いており涼しいくらいで、その落差にぞっとするものがあった。

 本来は居心地の良いものであるはずが、決して寒いほどではないほどよい涼しさが、爬虫類の肌のような質感をもってまとわりついてくるような気さえするのだった。

 そのくせ汗をかいている。

 男は腋の下を気にして少し肩をすくめた。

「暑くありませんか」

「そうですね、ここは窓際ですから、奥の席のほうがよかったかもしれませんね」

 席を替えますか、と訊かれて男は断った。汗が冷えて震えがきそうだったのだ。今は窓から差し込む温もりが心地よい。

「ふふ」

 女が笑う。何を笑ったのか訊けなくて、男は珈琲に顔を伏せた。飲む気にはなれない。甘ったるい香りに吐き気をもよおしそうになるが、顔を上げられない。

「わたしはどうしたらいいのでしょう」

 珈琲に伏せたまま、男が言葉を漏らした。女は何の感情も浮かべない顔で、どのようにも受け取れるような眼を、窓から男へと移した。

「好きになされば?」

 やわらかい、あたたかな声音だったが、突き放されたように感じて、男はテーブルの端に両手ですがりついた。

「あなたは、ずるい」

 搾り出すように言うと、少し気持ちが軽くなる。

「そうやって、あなたは、何から逃げているのですか」

 女は不思議そうに、幾度かまつげを瞬かせた。

「逃げる?」

「そうです。あなたはまるで、逃げているようだ。それは卑怯な振る舞いです」

 鈴の転がるような、それよりはまろやかな笑い声がした。

「あら」

 にっこりと吊り上げられた女の唇が、男には裂けたように思えた。

「ご自分に理解できないことを、そんなふうに決め付けるのは、よくないことではありませんか」

「理解、できない」

「そう。あなたにはわからない」

「あなたにはわかるというのですか」

「いいえ」

 女は通りがかった給仕を呼びとめ、パフェを頼んだ。

「おなかがすいてしまいました」

 あなたは何か注文しますか? と訊かれ、男はもうひとつ珈琲を頼むことにした。これで甘くなりすぎた珈琲とおさらばできる。砂糖のこぼれた珈琲をテーブルの隅に押しやった。

「遅いですね、パフェ」

 今しがた頼んだばかりだというのに、女はもどかしそうに厨房の方を見つめた。

「甘いものがお好きですか」

「ええ、大好き」

 無邪気に笑うさまは、先ほどとは別人のように愛らしい。

「なかでも、パフェは特別なんです。チョコレートがたっぷりかかったものが最高」

 そうですか、と男は相槌をうった。いつもなら厭わしい、たわいのない話がありがたくさえ感じる。髪が乱れているような気配を感じて、手で撫で付けてみる。だが髪などたいして乱れてはいないのだった。

 やがて給仕が銀の盆にパフェと珈琲を載せてやってきた。

 男は目の前に置かれた珈琲よりも、女の前に据えられたパフェに目を奪われてしまう。背の高いガラスに詰め込まれた色彩と、その上に盛り付けられたクリームと果物のデコレーションに圧倒されそうだ。

 女はさっそく細く長いスプーンを手にとって、中身を掬いはじめた。

 男は珈琲に口をつける。苦みがきつく、砂糖に手が伸びそうになるが思いとどまった。無理をして一口飲むと、鼻腔から目の裏にかけて突き抜けるような芳香が走った。

 細めた瞼の隙間から目の前を見ると、赤い指先が器用にフルーツを解体しているところだった。手品のように無駄のない動きだ。

 たちまちのうちに容器の半ばほどまでを平らげた女が幾分恥ずかしげにスプーンを置いた。喉が渇いたのか、珈琲の残りを飲み干している。

「ああ、おいしい」

「もしも……」

 男が言いかけた言葉を追うように、女は珈琲カップに視線を留めた。女のカップにはもう中身はなく、男のカップからは少しだけ湯気が上がっている。砂糖の入っていない珈琲に、男はクリームを垂らした。

「もしも、なんです?」

 ごく、無邪気な様子で女がカップを置いた。再びスプーンを手に取り、パフェの半ばに据えられた苺を掬い上げる。苺は瑞々しく赤く輝いてそこから現れた。

「……いえ」

 クリームにまみれた苺を口の中に放り込んで、咀嚼する。唇の端についたクリームを紙ナプキンで拭いながら、

「もしも、すべてが石になってしまったら、もうパフェは食べられなくなりますね」

 男は憑かれたように珈琲をかき混ぜていた。

「そうなったら……そうなったら、少しかなしいですね」

 さびしいですね、と女は瞼を伏せた。

「うそつき」

 男は珈琲からスプーンを引き抜いて、すべてを飲み干した。

 女はパフェの器を空っぽにしてしまうと、両手で器を掴んで持ち上げ、中に溶け残ったクリームを喉に流し込んだ。

「ああ、おいしい」

 口元を舌で拭う。

 男は軽く握ったこぶしをテーブルの上に出して、窓の外を眺めていた。

「わたしを惜しんでいただけますか」

 女はそういうと、傍らに立てかけておいた松葉杖に手を伸ばした。男が何も言わないのを確認すると、苦い微笑を髪の内側に隠した。

「もう行きます」

 軽やかな動作で立ち上がる。松葉杖が床に重さを移したはずみにネズミが鳴くような音がした。

「あなたが行ってしまったら、わたしは……」

「あなたは生きていけます」

「わたしは……」

 男は空の珈琲カップを見つめた。内側に渦巻く言葉を形にできなくてもがくように、手のつけられていなかった水のグラスを握り締めた。

「わたしは行きます」

 女は松葉杖を使ってゆっくりと歩み始めた。

 スカートの裾が翻り、やがてカフェのドアにつけられたベルが鳴る音が響く。

 女が出て行ったときに、風が吹いてきたような気がして、男は水のグラスをそっと頬に押し当てた。

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