疑惑
4.
「兄さん…ケホッ」(ああ、また夢か。)意識が現と夢の間を行き来する微睡の中、自分の中にあるどうしようもない思いが常に渦巻き、ふとあの頃の自分が問い質してくる。お前は間違ったと。取り返しのつかない事をしたのだと。そう、俺にとってのランのように。
(この先は…)
ランは呼吸の安定しない状態で夢の中の俺に語り掛けている。
「兄さん、私…」「もう喋るな!すぐ医者が来る、だから今は…!!」
だが分かっている。もうランは長くは持たない。それは自分でも感じているのだろう。彼女は小さく首を振ると、
「兄さん、私ね、ずっと兄さんに謝りたかっ…たんだよ、いつも、私のために全てを犠牲にしてきた兄さんにケホッウェ…もうし、わけなくて、でもそれをいうとね…いつも優しい声で大丈夫だよって、…」
(嫌だ、またこの光景を繰り返すのか、何度も何度も何度も)
「…私の中に今何かが、…いるの。すごく怖いゲホッ、でもね、兄さん私この暖かいモノが全部悪いモノ、なんて、思いたく…ないの。ウ…だって私はすてきな兄さんの妹だよ?そんな私から、生まれるのが…わる、いモノなんて、あるわけエヘ…ヘないのに、ね」
自分の頬が濡れているのが分かる。ランが無理をして、痛みを我慢して語り掛けている。すぐにでも止めさせたい。でもランが最後に伝えようとしていることは…。
「だから…ね、兄さん。にい…さんに託、したいの、私を。この子を、おね、がい、…私の最後のお、ねがい。いつもに、いさんのそばにおいて守って、…ほしいの」
「分かった!分かったから!!だから…!」
「ふふ…ケホッありが、とうね。兄さん。私すごく、す、ごく楽しかったんだよ、に、いさんといられてすごく…ありがとう、兄さん、…わたし、にい、さんのこと、ずっと…ずっと、す…」
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
グシャッ。その音が鳴った時、ランの身体は真の手の中で原型を留めていなかった。まるで、内側から丸め込まれていくように、どんどん小さくなっていって、それなのに血や骨は見えずに。グチュグシャボキ。聞きたくもない音が真の手の中の身体から聞こえてくる。
(そう、俺はこのとき、綺麗だと思ったんだ。ランの中から新しい命が生まれてくるのを。たった今妹が死んだばかりだっていうのに、その亡骸を抱いて、化け物の誕生を美しいと思ってたんだ…)
光が生まれた。暖かな光が。それは混じりけのない無垢な光で、だからこそ、自分が触れては駄目なのだと気づかせてくれる。そんな光だった。光の中で、真は白銀の髪をした少女を抱いていた。
「帝都に?」真は訝し気に繰り返した。
「ああ、そうだ。あたしは帝都に行きたい。この世界の真実を知りたいのさ。ダグマライトって奴のことも。なんもかもあたし達田舎者は知らないことばかりさ。」憂いを含んだ声に、表情は長い黒髪で隠れて見えなかった。
「でもあんた達と一緒に旅をすればこの世界を知ることができると思うんだ。頼むよ、この通り!」またも深々と頭を下げるルネに、困惑していると、クイっと、袖を引かれた。横を見るとランが静かにその赤い目で見つめてきた。
「…お-けい。分かった。今日はもう遅いから、明日にしよう。俺たちは明日早くに出るんだ。だからその時に村の出口で合流しよう、な。」ちょっと強引過ぎたか、と思ったが、ルネはたいして気にしなかったようで、
「ああ、そうさね。その話は道中幾らでも出来る。さて、と。悪いねちびっ子。お楽しみを邪魔しちゃって!なに、明日からの旅もそこら辺にゃ気を付けるよ。あたしはこう見えて気遣える人間なんだ!ハッハッハ」
快活に笑うルネにランもクスリと笑みを浮かべた。
「気遣いの出来る人間、ですか…冗談きついですね~」
ダグマライトの時代に晴れの日はほとんどない。原因は定かでないが、雨雲の向こうに澄み渡った青空が広がっていることを知らない者は少なくない。
雨は好きだ。雨の日は何もかもを洗い流してくれる気がする。川が濁れば、元々綺麗だったことでも、一緒くたにされて全て等しく濁った水に、汚れたモノとなる。平等に均されたそこには綺麗なんて言葉は出てこない。何もかもが平等。全てが汚ければ自分だけ綺麗であろうとする必要もない。綺麗であろうする努力を捨ててしまえば、自分が汚いと認めてしまえば、人間も平等になることが出来たのかもしれない。
「な~にぶつくさ言ってるんですか、真様」俯いていた顔を上げると、ランがジト目で睨んでいた。村の出口に位置する大樹の根元で真達はルネを待っていたのだが。
「ん、ああいや、そういえばルネさん遅いな。遅刻者にはお仕置きだな。」
「お仕置きって、なにするつもりなんです~、………真様、どうするおつもりですか?」ランは最初からこの質問をするつもりだったのだろう。
「いつも通りだよ。いつも通り。」答えは変わらない。そう、例え相手が誰であっても。
「お待たせー!!いやー悪い悪い!!準備に戸惑っちゃって」声のする方を向くと、重そうな皮袋を背負ったルネが駆け寄って来た。
「遅いぞ、ルネ。遅刻者にはお仕置きが必要だなってランが言ってたゾ☆」
「え~、ボクじゃないですよ~真様じゃないですか~」困り顔のランの頭を撫でながら、
「では!早速向かいますか。帝都に」口にすると彼女は笑顔で頷き、
「おう!よろしく頼むよ、お二人さん!」と朗らかに笑った。
雨でぬかるんだ道を歩いていくと、林へと繋がっていた。霧が司会を遮り、一m先も見通すのに苦労するほどだ。
「あう~真様~、早すぎますよ~ペースダウンも大事ですよ~そんなに急いでどこに向かうんですか~一緒に手を繋いでボクを連れて行ってほしいです~あ、できれば恋人つなぎでお願いしますうふふ」
「却下だ」
「うふふ、冷たいですね~、でもmって何百年も前から使われている単語なんですよ~知ってましたか?作者が洒落た単位思いつかなかったんでしょうね~きっと」
(何言ってんだこの白いのは、と、もうそろそろか)
「ラン」「ッ!…はい。」
返事が聞こえた所で足を止めた。
「おおっと。どうしたのさ、真。なにかあったのかい?それとも、この人目がつかない所で女でも襲うのかい?」
愉快そうに尋ねるルネにゆっくりと振り向いた。そう、ここで、この人目につかない所でしなければいけないことがあるのだ。
「ルネ、あんたに聞いておきたいことがある。」冷静に、心を落ち着かせろ。
「へぇ、なに、まさか愛の告白?」茶化すように言うルネの目が若干の疑念を帯びる。ランが腰の裾をギュッと握りしめてくるのを感じながら、目を見てハッキリと告げる。
「あんた、ダグマライトだろ?」
「んっ、んん…うー?」少女は恐る恐る目を開ける。卵から孵る鳥のように。そこには新しい世界が開けていると期待するかのように、どこまでも清らかな眼で。
だから、俺は精一杯の笑顔で、決してこの少女に自分の暗闇を見せないように、語り掛けた。
「おはよう、ラン」