狼犬少女・過去の話
もうどれだけ歩いただろうか。
上を見上げても、辺りを見回しても明かりは全くない。
本当の闇。
一切の光が存在しない空間に二人の足音だけが響き渡る。
何も変化を感じ取れないエクリアには不安しかなかった。
もうこのまま帰れないのではないか、と。
もっと酷い状況下に放り込まれたことのあるクロードは、何もいないようだし警戒緩めてもいいか、なんて様子でかなり気楽だが。
「ねえ、クロード。あたしたち……帰れるのかな?」
「さあ? 俺の重力操作が限定的に使えなくなってる。特に上に移動するような干渉だけが完全に無力化されてるから、壁をよじ登るくらいしか……まあ体力的に無理だけど」
さらっと、クロードはさらに不安になるようなことを吐いた。
目を開く感覚は確かにあるが、だがそこに映るのは光の一切ない、本当の暗闇。
新月の夜よりも遥かに暗い世界だけ。
刺激のほとんどない空間は時間の感覚を大いに狂わせ、強いストレスを与える。
暗闇の中ではよほどの適応性がない限りは、肉体よりも先に精神が大きなダメージを受けてしまう。
やがてはパニック状態になり正気を保っていられなくなる。
今はまだ、一人ではないという状況がそれを押さえているが、いつまで保つかは分からない。
クロードに手を引かれ、暗闇への恐怖からか強張った手足を動かしながらエクリアは移動する。
固い岩の地面、小石に躓く感触。
何も見えなくなるだけで、精神面への負担は計り知れないほどに膨れあがる。
「大丈夫だ」
「えっ?」
「不安に呑まれるな、俺がここにいることを意識していろ」
「う、うん……」
以前の経験を記憶から掘り起こしたクロードなりの対応だ。
仲間と共にとっ捕まったときのことが、なぜか思い出されたのだ。
しかしそんな言葉にも、エクリアの顔が赤く火照った。
もちろん暗闇で見えな……いことはない、クロードの磁気センサにはしっかりと引っかかっている。
「静かすぎるのもなんだ、てきとーに話でもするか?」
自分の退屈しのぎ兼、エクリアの精神状態を保つため。
年齢が一桁の頃から常在戦場(常に戦場にいる心構えではない)で、精神的に擦り減っていく兵士たちを見てきながら育った今のクロードがある。
いくら優秀な兵卒でも長いこと戦地に投入され続ければ、精神的にダメになる。
それを知った上で戦場を走りまわり、戦場のランナーとまで呼ばれ、人として耐性をつけてはいけないものまで耐性をつけてしまい、今ここにいる死神になった。
「つってもなんもネタがないし……俺の過去は聞けば気分が悪くなるし……。あ、よかったらさ、エクリアのこと、教えてくれよ」
当初のゲスな考えはいつの間にか消えていた。
ただ純粋に、これから仲間として付き合っていくことになるだろうからこそ、知りたいと思う。
「あ、あたしのことなんか知ったって……なんにもならないし……」
「いいや、そんなことはないさ。俺の知識は本で得た統計的なことと、知り合いから聞いたことしかない。だから、本には『魔族、その中でも獣人に分類されるものは個々、関連する生物の特徴を持つ』ってあるのに、なんでエクリアたちが少数でいたのかが気になる。ってとこか」
単純に興味が向いたから。
統計処理に入れられない飛び出過ぎた事例を知りたいが為。知り合いから聞いたことと、本人から聞いたこととで情報の純度を高めたいが為。
「確か……狼犬族だったっけ? もとは狼か犬かは知らないが、なんにせよ大人数で生活する種族のはずだろ?」
「それは………………」
しばらくの沈黙。
数十回ほど、地面を踏む音が響いた。
「あたしだって……最初からあんなじゃなかったんだよ。年頃になるまではさ、ちゃんとみんなと一緒にいたんだ」
「ふむ」
「でもね、その頃になるとやれ結婚だーとか……お母さんとか他の女の子たちが言い始めてさ。あたしはまだ早いって言ったんだ、でもこっちの都合なんて聞いてもらえなかった」
「……うん」
「それでそのとき、あたしに求婚してきたのがね……族長の息子だったんだ。しかも、正妻なんかじゃなかった。あたしは力任せにみんなを押さえつけてまとめてた族長が嫌いだった。力のあるやつだけがどんどん上にいって、力のない……弱いやつはどんどん下に追いやられてたんだ」
「…………。」
「あたしの家族も弱いほうだった。だから役に立たないなら身体で奉仕しろなんて言ってきてさ……」
「それは、その族長が言いやがったのか?」
「うん……あたしも、『集落を護ってる自分に奉仕するのは集落の一員としての義務だ!』なんて言われてね。そのときにあたしは思い切り嫌って言ってやったんだ。でも、族長がお母さんたちに、『娘を嫁に差し出したらもっといい立場にしてやる』とか言い出して……その日からあたしに向ける目つきが変わったんだよ。とっても怖かった」
「親も親でクズだな」
「ふふっ……」
エクリアの寂しげな笑みを暗闇の中に見た。
「で……その日から族長の息子が毎日しつこく来てさ。お母さんたちは全然止めてくれないしさぁ……うぅ、ぐすっ」
クロードはそれを黙って聞いていた。嫌なことを思い出して涙を流すことくらい当たり前だと。
そして自分の過去の方はまだまだマシだ、そう思う。
親に捨てられるどころか人体実験に使われた挙句が、失敗作として使用人以下の者と同じ立場で屋敷の隅に追いやられた程度がなんだと。
使えなくなったから人身売買のオークションに放り出されたからなんだと。
それでも気にかけてくれる仲間がいたからどうということはないと。
「そ、それでぇ……あたし……一人で集落から逃げて」
「賊に転職か」
「うん……ぐすっ。ほかのみんなもね、おんなじように逃げ出した、仲間で、あんな力がすべての集落なんか願い下げだ、って言って飛び出して……それで……それで……」
「もういい。大変だったな」
人族でさえ”群れ”を造って生きている。
だというのに、本来そうやって生きるものがたった一人で”群れ”の外に出たら、追い出されたらどうなる?
”群れ”を造ってやっと生きていけるのに、たった一人、本当に”独り”になったら……生きていくのが簡単なわけがない。
クロードは立ち止まって、ぽんぽんと銀茶色のイヌ耳の間に手を置いた。くせだ。直しようのないくせだ。
ピクンッ! とエクリアの身体が震える。
「なんか、悪かったな」
「ううん。あたしだって、なんか変な話しちゃったし……」
「そうか? そんなでもないと思うけどな」
「…………ほんとに?」
「ほんとだ」
「あ、ねえ、だったらクロードのことも聞かせてよ」
撫でられているうちに、いつの間にか通常運転に戻っていた。
そんなエクリアの方に走査能力を集中していたためか……気づかなかった、
気づけなかった、
恨みがましく暗闇の中からこちらを眺める視線に。
そもそもそれが、
生物と言えるのか、
機械と言えるのか、
そんなところからして曖昧な存在だから、
気配を察知できなかった。
首筋にちくりと刺すような、
異能の警告も害意が薄いせいで気のせいだと判断してしまった。
「……思い出すからちょっと待て」
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しばらく考えながら歩き、やがて口を開いた。
「断片的にしか思い出せない……」
「えっ? それって忘れたとかじゃなくて記憶喪失?」
「ああ、それはある。一時期氷漬けにされていたからな」
「うぁ……」
氷漬け、その一言でかなりエクリアは引いていた。
なんでそんなことになったのか。
「まあ、覚えてる範囲で言えば、親に実験材料にされて家の隅に追いやられて……んで、友達も連れていかれて、そいつは帰ってこなかった……けど。しばらくしてから、家に泥棒が入って俺以外はみんな殺されて、俺は人身売買であっちこっちたらい回し。その後は少年兵として戦場に投入されて」
「それ……って」
「ま、聞いて気分のいいもんじゃないよな」
適当に終わらせようとする。
詳しくは未だに”契約”という”関係”があるために言う事は出来ない。
「なんか……あたしのことなんてまだまだマシなように……」
「そう思うな」
「……?」
「俺の方は……その後も、その前も、しっかり支えてくれた仲間がいたからな……そいつらも、もういないけど」
その顔には若干の陰りがあった。今でも思い出せる、自分の目の前で爆弾を抱えて特攻して行った仲間を、銃弾の雨から庇うために形が残らないほどに撃たれた仲間を、最後まで正直に気持ちを伝えずに灰になった仲間を。
いくら死神のような、悪魔のような人とはいえまともな感情は残っているようだ。
「まあ、それぞれなわけだし。どんな生き方が正解とかないしな。だから優劣なんてつけるな。つけようがないんだからつけるな」
ははっ、と軽く笑いながら誤魔化した。
そしてエクリアの手を引きながら再び歩き始める。
向かう先は深淵のような暗闇。
もしも、さきほどのような機械の兵に襲われたなら守りながらの戦闘は困難だ。
重力操作がいつも通りに使えない状況下では、通常の戦闘効率を発揮できないのだから。




