ブルゥム・ホーンA
その時がきても
どうか牙だけは見せないで
彼のせいで毎日が変わってしまった。
朝には母から譲り受けた山の見回り、ときたま腹に納めておくのにピッタリな獲物を襲い、日輪が山の向こうへ深く落ち込んだ後に、お気に入りの場所に陣取って遠吠えをする。
そうして満足するまで声を上げた後に、軽い足取りで巣穴に戻る。
わけにはいかなくなったから、問題なのだった。
遠吠えを終えてから、もう一仕事。必ず片付けなくてはいけなかった。
別して忙しくなったわけじゃあないけれど。
少しばかり仕事が増えただけなのだけれど。
僕の日常はすっかり質を変えてしまった。それはとたえば、平穏な毎日、の真ん中に『クソな』の修飾を付け足す感じ。見た目はほとんど一緒でも、意味合いは違うだろう?
じゃあ応用編だ。今の手順で、
気高い銀狼、の真ん中に、なかなかに万能な言葉『クソな』をつけ足してみるといい。
そうそう。実はその通りなのだ。
気高いクソな銀狼こそが、僕を悩ましている〝彼〟だ。
「やあ、元気?」
親しみを持って会いにきてくれるのなら、僕だって悩まない。
実際には、彼は遠吠えが終わったすぐ後にやってきて、
「ウウー」
と、低く唸る。これには僕も参ってしまう。
なんと言ったって、僕は〝遠吠え〟という一連の行為に対して、半ば儀式的なまでの尊さを見出しているのだから。咆え終わった後には、すぅーっと、清々しい気分でありたい。
ところが、ささやかな望みは常に叶わない。
遠吠えの後に与えられるのは称賛ではなく、感嘆でもなく、何もないわけですらなく、
「ウウー」
いつもいつも、いかなる時も、現れては「ウウー」の一点張り。
どんなに遠吠えを工夫しても、彼は眉間にありったけの皺を寄せて。
もはや冒涜的に、
「ウウー」
嫌になるだけなら、かなり人がいい。
僕はそれでプツリと糸が切れる。遠吠えの後に、決まって彼と喧嘩をしているのだ。
性格が破たんした愚かな狼。
そんな彼と出合ったのは、いつごろのことだったろうか。
時間を巻き戻すのなら、お天道様が百回は上り下りを繰り返すとは思うけれど、はて。はっきりとは覚えていないけれど、確かに言えることは、それが夜だったということ。
それだけで十分だ。本来なら語るほどのことでもないのだし。
彼はその夜、当然のように、遠吠えの後に現れた。
その時の僕の驚きぶりといったらない。
彼は全身がきらきらと輝いていたのだ。
月の光に満たされた銀の毛並み。光は繊細な銀糸のような毛に吸着し、静かにうねる海面のそれのように、すぅ、と流れている。
一目見ただけで、普通の生き物ではないと知れた。
彼は、古今東西で色々な呼び名がつけられている、不可思議な存在で。
つまり、僕の仲間に当たるのかもしれなかった。
僕たちはまだ初対面だったから、彼の方もすこぶる常識的。
ブナの木の影からゆらりと歩み出ると、幽鬼の如く佇み、生気のない瞳を僕に向けるだけで留めているのだから、礼儀正しいことこの上ない。
愚かでクソな銀狼にしてはだけど、当時の僕は、彼のことを美しい銀狼だと思っていた。
そこが問題だった。
呪いの眼差しで気分を害した――なわばりにも侵入しているし――僕は、やつをこっぴどく叩きのめした。それが原因で嫌われているのかもしれないけど、なんにせよお互い様だ。いいだろう、別に。取り立てて問題視しなくとも……。
仮にそのせいで彼が、僕の縄張りに居ついたのだとしても。
僕の獲物を横取りしているとしても。
毎日のように僕の遠吠えにケチをつけにくるとしても。
僕に落ち度はない。
それからというもの、毎日彼と喧嘩して、負けじと遠吠えを続ける日々が続いていた。
僕は彼を追い出さなかったし――悪霊のように戻ってくるに決まっている――彼も母が残した山が気に入ったのか、出て行くことはなかった。
騒がしく変わってしまった毎日。
それさえも、途中になってあっけなく変わってしまったのだ。
今度は――ぽきん、と折れてしまったみたいに。
良く晴れた朝のことだ。
僕は、人間たちが作った変てこな物体の前に足を運んでいた。
ちょうど、お天道様が三十巡ほど上下する境目の日には、人間から僕に、沢山のごちそうが贈られる決まりだった。
(人間にも良いやつはいるんだなぁ)
すっかり平和ボケしていた僕は、その日、全く異なる現実を知った。
今日は何があるだろうか、とわくわくしながら向かった先で、人間たちは僕に与えた。
ご馳走よりも刺激的で、ご馳走とは違う意味で、格別に臓物のうちを満たすものを。
矢が飛んできた。次いで怒号に、狂気。
大勢の人間が、大きく開いた眼を血走らせ、訳のわからない声を組み合わせて、おどろおどろしい不協和音を練り上げた。
全ては、僕を殺すために。
命からがらに巣穴へ逃げ帰り、僕は一晩中震え続けた。
なぜ彼らは急に心を変えてしまったのか、今となってもわからない。まるで、悪い霊にでも憑りつかれているようだった。
殺意。それ以外では、あれほどの狂態は引き出せないだろう。
落ち着きを取り戻し、やっと巣穴から出られるころには朝になっていた。
僕は悄然としつつも、いつも通りなわばりの警邏を始めた。
足取りは普段よりもずっと重い。ひょんなことから、沈んだ心がすとん、と地面に落ちていってしまいそうだった。
そこへ、彼が現れたのだ。
木立の間から出し抜けに飛び出し、颯爽と僕の前に立ちはだかる。
彼の目に、今度は僕の方が幽鬼として映ったのかもしれない。げっそりとやつれた僕を見据えて、彼は多少なりとも戸惑っているそぶりを見せた。
そして、
……。
…………。
それからの出来事は、いつ思い出しても快いものじゃない。
できることなら永久に忘れ去りたい記憶だ。
そう。だからこそ今も、僕の思い出の奥底にこびりついている。
僕は彼を好きではなかった。
けれど、同じなわばりで共生している以上、敵だとも思っていなかった
悪友、と言うのが一番しっくりくる。
(遠吠えはしていないのに。どうしてこんな時に)
ある意味では、僕は彼に一種の信頼を置いていた。
(やめてくれよ。疲れているんだ。すごく辛いんだ)
母の土地を気に入ってくれていたから、というのもある。
(今日だけは勘弁してくれ。嫌なんだ)
どうしてだろう。僕は、彼にだけは……、
「ウウー」
しかし、しょせんはクソな銀狼だ。
理解などしてくれない。いつものように襲いかかってくる銀狼から逃げつつ、僕ははたと気づいた。彼は僕の遠吠えが嫌いだったわけじゃない。
僕が嫌いだったのだ。
天敵に板挟みにされて暮らす自信はなく、泣く泣く母の山を手放した。
あっちへこっちへ土地を放浪し、結局は人気のない山に居ついた。今では母の山で暮らした五倍以上も長くいるこの山は、しかし、これっぽっちも親しみを感じない。
精神の死後に辿りついた山だ。
しばらくして、風のうわさで遠吠えする銀狼の話を聞いた。
彼が僕の真似事をしているらしい。そして、それを聞いた人間たちがありがたがっている、とも。
馬鹿馬鹿しい噂話だ。
そんなものが、僕の心を壊しきるトドメとなった。
今更こんなことを思い出しているのは、今日になっておかしなやつを見つけたからだ。
僕の真似をする彼を真似する、名も知らない一匹の狼を。
遠吠えは、僕の記憶を呼び覚ましはしても、沈殿した感情にまでは響かない。寿命もそう長くない今であっても、僕の心は空っぽのままだった。
――彼は今、何をしているだろう?
漫然と思う。
あれから何十年と時が経った今でも、母の山に居座っているのだろうか。
そこで僕から盗んだ遠吠えを続けているのだろうか。
得意顔になって、長々と。
(会いに行こうか)
唐突に、そんな考えが湧いた。
どうせ死んでいるような身なのだし、彼と戦って幕を下ろすのも悪くない。このまま、どことも知れない地で果てるよりは、ずっといい。
行こう。行って、死んでしまった僕の魂を返して貰おう。
決意すると、ぽろり、と涙がこぼれた。
思えばあの頃が一番だった。
毎日のように彼と喧嘩をして、高く、高く声を上げる日々。
僕の人生の中で、あれほど充実した時期はなかった。
それに、今になって気が付くなんて。
(あの頃に戻りたい……)
僕はほろほろと涙を零し続けた。
そう。まずは。
再会したら戦いを挑む前に、本物の遠吠えを聞かせてやろうと決めた。
ブルゥム・ホーンB
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