【七日目】
【七日目】
朝。
急激に冷え込んだ所為か、朝霧が山谷をつたって這い降りてくる。
さむい。服が足りない感じ。たき火で体を温めるが、これだと急場しのぎにはなっても根本的な解決にはなっていない。そこらへんに自生している綿なような植物を服の内側に詰め込むかどうかすこし考える。かぶれそうな気もするが、たぶん大丈夫だろう。かぶれるならすでに擦りつけた両手足がかぶれているだろうし。入れてみたら意外なほどホカホカだった。
視界の悪い明朝。いまは午前六時ぐらいだろうか。
森の奥、山の山頂へと向かう方面はいつもより静かなぐらいだった。時間が経ち、霧が晴れれば鳥の声などで賑やかになるのかもだが、森の生き物が活発に動き始める前に、さくさくっと進んでおこう。
俺は今現在、道なき道を進んでいます。
獣道でもなく、マジで道なんかじゃない、植物群生地帯を掻き分けながら進んでいました。
いや、聞いてくださいよ?
俺だって普通に道があるなら道を渡りますよ?
だけどこの森この山、道どころか地面らしい地面がほとんど見えないんですよ。枝だらけで葉っぱが無い謎の植物と、その枝に絡まるようにしてツタ植物がこの一帯に群生していて、まともに歩けるだけの隙間なんてないんです。
これでも俺は趣味で数々の名峰に登ったりしているから、道順検索能力も、踏破能力もかなり高いはずなんだけど、それでも今のペースを時速換算したら四キロ毎時くらい? 直線距離で換算すると一キロ毎時もない。すげー足を取られています。超・紆余左折した道を進んでいます。体力もガンガン削られている。ここは毒の沼か?
というか、枝っ!
なにこの植物、マジで見た目はただの枯れ枝なんだけど、なのになんでこんなに群生しているんだ? 見た目通りの姿を強調したいのなら、見た目通りポキポキ折れてくれればいいのに、見た目の枯れ具合とは違って枯れ枝っぽい見た目のくせに生木なので簡単に折れてくれず、油断していると枝が服を突き破って怪我をしそうだ。猿みたいに木の上を飛んで渡る方が楽ちんなような気がしてしまう。もちろん気の所為だけど。
標高五百メートルもない小さな山なのに、なかなか山頂まで登れない。
視界は最悪。山も八分目まで来たのに、生い茂った木々が邪魔で島の全容をつかめそうにない。途中から、枯れ枝+ツタのコンボは減ったけれど、木々の密度は増したので、あまり楽になったとは言えない。それでも最凶コンボの中を歩き続けるよりかマシで踏破速度は上がったけれど、前半の疲れは予想以上に大きかった。
ああ、疲れた、休憩だよこんちくしょうめ!
まだ山頂まで登ってないけれど、全身に疲労を感じたので休憩をとることにしました。
遭難四日目に見つけた竹林からゲットした竹で作った簡易水筒。口をつけ、体に染み渡らすように一口飲む。
うむ、すこし竹の匂いと味。元の美味い水と相まってかなり美味しい。
座り心地の良さそうな石に座って空をすこし眺めてみる。生い茂った木々の所為で空はほとんど見えない。若干見える景色から、山頂に近づくほど木々の密度は下がるみたいだけど(というか、麓から見たときに山頂はハゲていたから山登りをしようと思ったのだが)、枯れ枝+ツタのコンボと比べて楽とはいえ、密林のような山道を踏破するのはそれなりに体力を要する。
だから、体力回復は必要だ。
寝心地の良さそうな岩に寝転がって疲労を癒す。固い岩に長時間寝ていれば体の節々を痛めることもあるが、体に溜まった疲労物質を抜くぐらいの短い時間なら問題ない。
チチチ、チチチ。と鳥の声。
朝霧も晴れ、天気が良くなると予想通りに鳥は鳴き始めていた。その大半は日本で聞きなれた声なんだけど、よく耳を澄ますと「ジョー、ジョー」や「クナックル、クナックル」などの聞きなれない鳴き声も聞こえてくる。やっぱり日本じゃないのかなぁ? 植物博士や昆虫博士などの知識人なら現在地が大体どこなのかそれぞれの知識でわかるのだろうけど、俺の知識は全部中途半端だから断言できるものは何もない。言えるのは、この島が日本に近いけど日本じゃないっぽい、ということぐらいだろうか。
――――そして、
バリバリ異世界に紛れ込んだような気がするってことぐらいだろうか。
ぐるぐるぐるぐる、糸が巻く。
俺の体に糸が纏わり付く。
白く粘つく糸が、俺の動きを封じようと、ぐるぐるぐるぐる巻かれていく。
俺は『蜘蛛女』に捕まっていた。
いやー、間違いじゃないですよ、蜘蛛女ですよ。あえて訂正するなら『蜘蛛少女』と訂正できるかもしれないけど、間違いなく半分蜘蛛な女の人ですよ。
身長百五十センチほどの小柄な少女。髪は銀の短髪で、肌は白く、瞳は赤い。全体的には白い印象。普通の人間の体の背中に二対の白い蜘蛛脚が生えていて、眉毛のとこには赤いひし形の宝石のようなものがあり、人間のお腹があるのに蜘蛛の腹となる腹部(色は白)がおしりの上にちょこんとある蜘蛛少女さんです。
ちなみに彼女は一糸まとわぬ姿です。きゃー。
そして、うぎゃー。拘束されたーっ‼
やばいやばいやばいやばい、これはもしかして絶体絶命のピンチってやつではないだろうか。ちょっとの時間でミノムシになっているぞ俺。手足がほとんど動かせない。
一応、襲われる直前に気配察知した俺は右手で飛んできた《なにか》を防ごうとしたのだけど、俺目がけて飛んできたのは蜘蛛の糸だったわけで、蜘蛛の糸を右手で防げるはずもなくて、結果的にはぐるぐる巻きにされました。
いてっ!
ぐるぐる簀巻き(すまき)にされた俺は、荷物のように乱雑に運ばれます。
具体的には、石や岩があちこちに転がっている山中を引きずられています。
ちょ、ちょっと待って? 痛い痛い、せめて人間らしく人道的に扱って? まるでやすりで削られている気分だ。体をくねらせて頭に岩が直撃するのを避けているけど、頻繁に手足や胴体に岩が当たり、体が地面で擦すられ、小さな傷がいっぱい出来ていそう。
というか、小柄な体格なのに力強いなぁ。
これでも俺、見た目よりも相当重いはずなんだけど、蜘蛛少女さんはしっかりとした足取りで山中をガンガン進んでいます。その速度の分だけ、俺の被害が増えていく……。
引きずられて五分ぐらい経っただろうか。
たった五分の荷物扱いで心身ともにグッタリな俺は、彼女の住処らしき洞窟に案内されました。地下に向かって伸びている、こじんまりとした洞窟です。その洞窟はかなり奥深くまで伸びているのか、冷気と湿気が際限なく湧いて出てきていたけど、居住できる空間はあくまでこじんまりとした洞窟です。
……正直言って、めちゃくちゃ居心地悪そうだ。
地下水なのか、洞窟内のあちこちで水が湧き出て、座る場所さえないぐらい。
蜘蛛少女さんはそんな洞窟へ乱暴に俺を投げ込みます。荷物扱いはやめてー。
ゴツゴツした岩にまた体をぶつけると思って身構えたのだが、予想に反して体にそこまで強い衝撃は来なかった。
なにやらクッションとなるようなものが、俺の下にあった。
…………毛皮?
スチールウールのような硬質的な肌触り。
そして思わず眉をしかめそうな獣臭さと酷い腐臭。
暗い洞窟内で目を凝らしてみると、俺の下にあったのはクマだった。
もう一度言おう、クマだった。
思わず俺は息をするのも忘れ、死んでしまいそうなほど心拍数が跳ね上がったが、よくよく見るとそのクマは蜘蛛の糸らしき残骸が巻きついていて、すでに息絶えているようだった。
死んだのは最近だろうか。
死んでいるにも拘らず、その姿はまだ生命力に溢れているようにも見え、冬眠しているように見えなくもない。しかしクマは確実に死んでいた。生きている証である呼吸や鼓動が一切ない。身動ぎ一つない完全な沈黙。
死んだクマの下には、押し潰すような形で幾多の動物たちの姿があった。シカやイノシシ、そして原形を留めていない《なにか》達。
ここは蜘蛛少女の居住区ではなくて、食糧庫なのだろうか……?
そして俺は食糧なのか。
そして俺は食糧なのかーっ!
蜘蛛少女さんから見た俺は、どうやら食料のようです。
蜘蛛少女さんは俺を洞窟に投げ込むと、次の獲物を探しに行ったのか、すでにその姿はなかった。
おおぅ、都合が良い。
俺は辛うじて動かせる右手首と指を動かして、胸の内ポケットから《ある物》を取り出そうとする。ぐるぐる巻きにされる際、右手が胸の上にあって助かったー。人差し指と中指を胸の内側に伸ばして、親指を攣りそうになりながらも、どうにか手の中に《ある物》を収めこむ。
ふへ。
ここで一息。
ミノムシ状態の体だけど、どうにか湧き水の場所まで這って行き、俺は《行動を起こした後の結果》を想像する。
…………よし。
俺は覚悟を決めて右手の中にある《ライター(あるもの)》を起動させる。
一瞬、視界が赤く染まった。
どうやら想像よりもはるかに蜘蛛の糸は燃えやすいようで、まるで気化したガソリンのように爆発的に燃えた。うわああああああ! 俺は即座に顔ごと湧き水に突っ込む。ぷしゅー、という音が耳に聞こえた。
危うく焼身自殺になるところだった! 俺はそのまま水が湧き出る洞窟内を転がり、体に残っているかもしれない火種を完全に消す。
体に火を点けてから、完全に消火できたと思うまでの時間、わずか三十秒。
実際に体に火が点いていた時間は五秒にも満たないと思う。
蜘蛛の糸は五秒にも満たない短い時間でほぼ完全に燃え尽きていた。背中にはまだ若干糸が残っていたが、その粘着性はすでに失われ、指でつまんで捨てることができた。
それにしても蜘蛛少女さん、まったく話が通じなかったなぁ。
日本語が通じないのか蜘蛛少女さんは喚き暴れる俺を一瞥もしなかった。超絶無視だ。精巧な人形のような無機質な表情と相まって、淡々と俺を運ぶ作業は、まるで機械のようでもあった。
というか蜘蛛少女さん、そもそも会話をする習慣さえないように見えた。
マジでいくら話しかけても完全な無視。反応をしない、という反応すらない。『言葉』を持っているようにはまるで見えなかった。
半分は――――、
半分以上は人間の見た目なのに!
引きずられた五分間で四百字詰め原稿用紙二十枚分の言葉を俺は喋ったのだけど、ひとかけらも俺の言葉が伝わったとは思えない。昆虫と会話しているような気さえした。
一体全体、なんなのかなぁ?
なんであんな人がいるのだ? 蜘蛛女とか空想上の人物だろうに!
けれどまあ、実際にいるのだから仕方がない。
この近辺をうろついているだろう先程の蜘蛛少女に出会わないように身をひそめながら、当初の目的を続けて敢行することにした。今度ばったり出くわしたらマジで命が無いかもしれん。しかし多少危険度が高い選択だとしても「やらなければいけない」と思った。
遭難してから今日まで、不思議な生物と出会いまくりだ。
このまま山を下りれば蜘蛛少女さんと出会わなくなり、しばらくは安全かもしれないが、《なにかが行き詰るような気がする》。あまり幸先の良い未来が待っていない感じ。
だけど山頂に出て世界を見渡せば、すくなくとも《なにか》が変わる感じがする。
勘だ。
直感だ。
根拠も何もない選択だ。
だけど俺は自分の直感を信じて山頂へと向かった。生い茂っていた木々が見る見るうちに減っていき、岩と土だけの淋しい景色になっていく。後ろを振り向けばすでに眼下を見渡せるだろうけど、山頂に着くまでは下を見ないことにした。
登頂。視界いっぱいに青い空が広がった。山頂に乗っていた一番高い岩に登った俺は、予想を超えた事実に驚愕する。
…………島だけど、……島じゃない!
俺が流れ着いた無人島は沖縄県本島よりも大きな島だった。
視界に収めることができないぐらい広いからよう言えないけど、もしかしたら四国ぐらいはあるかもしれない。